11月3日 聖霊降臨節第25主日礼拝・召天者記念礼拝
「主に望みをおく人は新たな力を得る」隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 40:12~31
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今日は一年に一度の「召天者記念礼拝」です。今年も多くの方とご一緒に「召天者記念礼拝」が持てますことを心から感謝いたします。とくに、礼拝後納骨式を執り行う「坂本さんのご家族」も多くご出席され、この礼拝が持てますことを、嬉しく思います。
2024年度の「召天者記念礼拝メッセージ」は、祈りのうちに示されて、旧約聖書イザヤ書40章を選びメッセージを語ることにしました。この部分は少し前の「聖研祈祷会」で学んだ箇所でもあります。
イザヤ書40章は印象深い聖書のことばが「ちりばめられているかのような箇所」ですが、とくに最後の28~31節の言葉が「人々を勇気づけてきた箇所」です。
みなさん1980年代、イギリスで制作された『炎のランナー』という映画をご存じでしょうか? 主人公の「二人の陸上のオリンピック代表」の選手を描いた「実話をもとにした映画」です。
一人の主人公はクリスチャンですが、日曜日に神の御前に出て「礼拝を守る」ことを大事にしようとする一方で、レースに出場するために、日曜日の礼拝を犠牲にせざるを得ない…そんな葛藤の中で走り続ける、そんな物語です。
今日は召天者記念礼拝ですが、山口信愛教会が召天者として覚えている方々は、皆「炎のランナーの主人公」と同じような葛藤を抱えながら、この地上の日々を走り抜けた人たちだ、と私は理解しています。
写真が並んでいる方の多くが、この世で、また家庭で大切な務めを担われながら、神に仕え、そして教会に仕えるという大変なことを苦労しながら両立なさった方々であったと私は理解しています。
映画「炎のランナー」の話に戻りますが、主人公の一人が、フランスのパリでレースがあり、礼拝の出席が叶わないとき、教会で聖書を朗読している場面があるのですが、読んでいたのがまさに今日の箇所のうち28~31節だったのです。
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
これは「神を信じていれば、不思議な力が与えられて、レースで好成績を上げることができる」ということを言っているのではありません。 ここで言われているのは「この世での目に見えるレース」ではなく、「この世を超えたところにあるゴールを目指してのレース」です。
今日、納骨式を行う坂本さんご夫妻をはじめとする、すべての「教会が覚える召天者」が走り抜けられた「この世から天に向かっての歩み」それを覚えてひととき共に御言葉を味わわせていただくことを願います。
この箇所は、イエスキリストがお生まれになる前の「旧約の時代」、神からの言葉を「イスラエルの民たちにつたえた預言者イザヤ」という人によってまとめられた書だと言われています。
この書がかかれたのは、イスラエルが国を攻められ神を礼拝する場所を失っただけなく、多くの人が外国に捕虜として連れていかれて、「希望を失った…」そんな時代に神から語られた「希望の言葉をききとり」まとめた書だ、といわれています。
クライマックスはさきほどからお話ししている28~31節ですが、そこに至るまでの箇所も簡単に見てまいりましょう。
12節から27節は、この世のすべてをお造りになった創造主である神の「大きさ」そして、その御業の奇しさについて、改めて神が語ろうとなさっています。
ここでは私たちが何気なくその恩恵にあずかっている自然界のさまざまや、私たち自身の体が「まさに神秘としか呼べない複雑さを持っている」ということを語っているのです。
そうした人間の英知を超えた「複雑なものが秩序を保って存在しえているのか…」その背後には神の測り知れない知恵があるのだということが語られる一方で「そのような神を、一体何と比較するというのか!」との問いかけがなされるのです。
皆様…ずいぶんと強い口調での教え、問いかけがなされている…とお感じになるのではないでしょうか?
実はその背後には、「外国によって攻められ、捕虜にされた」当時の人々の「深い絶望」があるのだと理解されています。
19節と20節には、捕虜として連れていかれた先の国でなされていた「人間の手によって神が作り出される」ということが描写されます。その習慣に連行された民たちが動揺しただけでなく、「流されそうになっていた」そういうことが実際にあったそうです。そして「先祖が信じて来た神は一体なにをしているのか? 自分が苦しくても本当に何もしてくれないのではないか?」などという不信感が覆っていたと言います。
私はもちろん他の宗教を信仰される方々の意思を尊重します。しかし、今の時代は、イザヤのこの時代のように、人間が作った「まやかしの神、金儲けのための神」が氾濫しているという見方ができると思います。
一方で「天地を創造された神がいるとして、その神は、私になにもよいことをもたらしてくれないではないか?」というような失望感が今の世には溢れています。
27節にあるような「私の歩む道は、神の前に隠れている」とか「神は私の小さな訴えなど聞いて下さらない。神は私の問題を見過ごしておられる」と不満を覚える方々は多くあり、私のもとにも「そういう訴えの電話」などがかかったりします。
皆様は、いかがでしょうか?「神さまがいるなら…なんでこんなことが起こるのか…」
実は私は牧師をしていますが、正直このような思いが何度もよぎりましたし、今でもそのような思いに襲われることがあります。
今日、写真を並べて覚えている、山口信愛教会の召天者の皆様。この方々もこの地上の歩みで、神の助けを微塵も疑わなかったというよりは、「呟きや嘆き」を繰り返しながらの歩みだったに違いありません。
聖書は「疑ってはならない」ということが教えられているというよりは、「疑い、不満をいう私たち人間の弱さ」を神はご存じな上で、「それでも神は愛をもって招いてくださるお方である。だからその招きに応えていこう」ということが教えられている書物なのです。
先ほど見た27節には「わたしの裁きは神に忘れられた」という、当時の民たちの呟きの言葉が記されていますが、これは言い換えれば「神は私たちがジャッジを下してほしいと願っている問題ごとも、忘れて放置なさっているのではないか…」という意味の言葉です。
山口信愛教会が覚えている「召天者の方の信仰生活の証し」の多くは、私たちの教会がほぼ毎年発行している文集「野の草」に記されていますが、どの方も「悲しみと痛みの連続」と思えるこの世の歩みをなさっていることが読み取れます。
今回皆様にお配りしている「野の草」は、この後、納骨式を執り行います坂本さんご夫妻のことを山田次郎さんが文章にしてくれていますので、ぜひ皆様あとでじっくり読まれてください。
幼い時に原爆の恐ろしさを体感なさり、働き盛りのとき「病気に苦しめられた」育雄さんの人生も想像を絶するお苦しみがあったとお察しします。そして育雄さんを早くに天に送りながら、その後お子様方を育て上げられた邦子さんのご苦労は、これまた想像を絶するものであったことは間違いありません。
強い信仰を持ちながらも、しかし「神へ直接不満をぶつけるような祈りをした」ということを邦子さんご本人から私はお聞きしたことがあります。しかし、それでも前を向いて、希望をもって、歩まれたのが坂本邦子さんです。
もちろん、山口信愛教会が覚える、すべての召天者の方々も同じです。
なぜ、苦難の中で前をむいて生きることが出来たか、その理由は「その苦難のなかでも神が共にいて、慰め・励まし続けてくださったから」ということと「この地上の苦労だけでは終わらない。天国で新しく生きることができるからだ」ということを知ったからだと私は確信をもって皆様にお伝えします。
今回の聖書箇所でも外国の地での捕虜にされ希望のみえない中にいた民たちに対し、「苦しみの中で共にいて下さる神の愛」と「この世での苦しみを超えて確かにある、永遠の命」が証しされているのです。
それが今回のメッセージの中心の「28節から31節」です。最後にここを味わってメッセージを閉じます。
30節に「若者も疲れ、弱る」 という人間の現実が語られます。それは肉体の自然な反応ですが、しかし神は「そんな心が疲れた者に力を与える」と約束されたのです。これは気休めのことばや、ウソの約束ではありません。
31節では「主なる神に望みを置く人が新たな力を得られる」ということが語られます。前の聖書の訳では「主を待ち望む者は新しく力を得る」という言葉でした。
自分を叱咤激励する、自分の体に鞭をうつようにして「しゃきっとする」ことが「新しい力を受けること」ことではないのです。そうではなくなく、主なる神に祈り、自分を委ねることによって、神からの力を受け、その上で新しい一日一日を生きるということです。
これは、日々衰えていく肉体の現実とは反対に、歳月を重ねるごとに「新たにされていく」のです。そして死に打ち勝った「神の御子キリストの復活の力」が「この世を旅立ったあとも」私たちひとりひとりの命に働くのです。
山口信愛教会が覚えている召天者の皆様は、この地上の歩みを終えた今、疲れることも、弱ることもない天の命をいきておられることを、皆様今一度思い返していただけたら幸いです。私たちも同じ道をたどっている、そして「イエス・キリストにあって」疲れることもない、新たな命をいただけることに希望をもって歩んでまいりましょう。
(祈り・沈黙)