「わたしには確信がある」1/5 隅野徹牧師


  1月5日 降誕節第2主日礼拝
「わたしには確信がある」隅野徹牧師
聖書:詩編 27編1~14節

 

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 2025年最初の「主の日」礼拝を、皆様とともに守れますことを、心から感謝します。この年も、「共に!」御言葉に聞き、「主なる神様」を近くに感じながら歩んでまいりましょう。

 今朝の礼拝の聖書箇所は、聖書日課から詩編27編を選ばせていただきました。この詩編は二つの大きく異なる内容が組み合わさった詩篇です。前半の1節から6節は「信頼の歌」とも言える神への信頼を讃える内容ですが、7節からの後半は全く逆の「嘆きの歌」となっています。「神様!私の願いを聞いてください!」そう訴えかける内容です。

 私たちの信仰の歩みが、まさに同じようなものだと思うのです。逆境のなかで「それでも神を信頼してあゆむのだ!」という熱い気持ちで歩むときがある一方、「神は私の声をなぜ聴いて下さらないのだ…」という弱気で嘆きの声をあげてしまう…

 2025年の私たちも、喜びにあふれて歩むというよりは「苦しみの中で、神を見上げることで、なんとか一歩一歩を踏み出す」という感じになるのだと思います。その日々の中には、今日の箇所の前半のように「苦しみがあっても、神が共にいてくださる確信があるから、私は揺らがない」と思える日もあれば、後半のように「弱気になって嘆きの思いしか出てこない」そんな日もあることでしょう。

 私はそれでよいのだと思います。よく誤解される御言葉のひとつに「テサロニケの信徒Ⅰの5章16~18節の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉が挙げられることが多いです。

 このみ言葉は「これをそのまま完璧に実践しなさい」と教えられているのではありません。完全にこれができる人はどこにもいないはずです。 

皆さんが「喜べないときや、感謝できないことなんていっぱいあるだろ! そんなとき祈れない、教会に行きたくなくなるのは当然ではないのか…」もしそんな風に思われる時があれば、その思いに小さきもの少しでも寄り添わせていただきたいと願います。

キリスト教会の運営が大変厳しい時代となっています。皆さんもそうでしょうが、私も心が折れそうに感じる瞬間が増えてきていると感じます。「ここで歯をくいしばって!」というよりは、「心が折れそうなもの同士が、主にあって」それこそ「教会の枠を超えて支え合う」ことが大切になってきたと感じる「2025年の年明け」です。

「よいときも、わるいときも」主と共に、そして「皆様とともに」歩みたい!そのような思いを込めて詩編27編より御言葉を語らせていただきます。御言葉にきいてまいりましょう。

 1節には「ダビデの詩」と書かれています。ダビデはその生涯で多くの困難を経験していますが、2節と3節からは「悪を行う者が自分に襲いかかってきた」ことが書かれています。 実際に起こった出来事が背景になっているのでしょう。繰り返しおこった苦難の中で「神が共にいてくださること」を実感したのではないでしょうか。

 その結果としてどうなるか、それをダビデは「神の霊の働きによって、悟っています」が、それが4節から6節までの言葉になって表れています。ここは読んでみることにします。

神が与えて下さる聖霊によって「確かな約束として神が共にいて下さる」ことが悟れるようになるのは、ダビデだけの特別なものではなく、私たち皆が経験できるものです。

そして特に4節で詠われている「主の家、主の宮で主を仰ぎ見ながら、喜びを得て毎朝を迎える」その天での永遠の命こそが、「主が共にいて下さる私たち自身の日々」の「究極のゴール」であります。

私たちは「こういう風に神と共にいつまでも歩みたい。神の宮で、神に礼拝をささげたい」と願いますが、それはあくまで「この地上の歩みを終えた、天でこそ叶うこと」であります。そこに至るまでには「紆余曲折」が当然あります。

 年齢を重ねるごとにわたしは「信仰はきれいごとではないな」と感じています。それと同時に「嘆きや神への叫び」が詠われている「泥臭い、人間的な箇所」が好きになってきましたが、後半の7~12節はそんな箇所です。この「嘆きが詠われた箇所」7節から12節も読んでみます。

とくに9節などから分かるのですが「私を離れないでください。見捨てないでください」という叫びが記されていて、前半部分の「何があっても神が共にいて下さるから、恐れないのだ」という言葉とは真反対のことばが並びます。

 しかし、苦しみの極みと言えるような状況の中で、ダビデは「すがるような思いで、神に近づこうとする」のです。

とくに注目するのが10節の「父母が、私を見捨てようとも、主は必ず私を引き寄せてくださいます」という言葉です。

父と母が、我が子を見捨てるということはまずありそうもないことです。家族はお互いを助け、愛するのが当たり前に思えますが、そういう当たり前が「崩れる」ような事態を迎えることは、私たちの人生の中でも起こりえます。

詩編27編は、ダビデが「実の子であるアブサロムに命を狙われる」その状況での心情を詠ったものだという見方もされます。家族の支え合いも諦めざるを得ないような、「もう誰にもどうすることもできないような事態!」そんなことがあったとしても、「主が必ず私を引き寄せてくださる」という気持ち。私は「ダビデが信仰の強さから言い得たこと」というよりも、「絶望の中で、神が聖霊によってはたらきかけ、その言葉を授けた」ように理解しています。

 この絶望の中で、破れかぶれの中で「あなたしかいない。あなたが何とかしてくださることを私は信じる」という神に向かう気持ちは私たちにも与えられていると信じます。

この1年、皆様それぞれ、いろいろなことがあるでしょうが、それでも!神は、絶望を感じる時にこそ「私が共にいる」と、皆さんに語りかけて下さることを信じています。

 最後に13節14節を読み、私が思う「詩編27編からのメッセージ結論」をお話しして、締めくくります。

「命あるものの地」とありますが、これは「4節で描かれた、天国」と対比して描かれているそうです。地上の歩みを終えて、私たちが神と相まみえる場所が天国です。そこは罪や悲しみから解き放たれ、私たちが神と一つになれる場所です。

しかし!命ある者の地である「この地上」は、人々の罪がうごめき、また自分自身の罪も原因となり、さまざまな苦しみが起こります。とくに「今おこっている戦乱や、差別、格差社会」の問題をみるなら「神が沈黙しておられる状況だ」と感じてしまうような世の中です。しかしそんな中にあって14節の言葉のように「主を待ち望むことによって、弱い自分だが神にあって雄々しくいられるのだ。心を強くできるのだ。」ということを心に留めて2025年を歩んでまいりましょう。

今日の説教題に「私には確信がある」という題をつけました。なんの確信かというと、それは「神が私たちと共にいて下さり、日々導いてくださる。その先に永遠の命、天国がある」ということです。

しかし!そのような「きれいごとに聞こえる良いこと」だけでなく、苦しくて「神さま!なぜ祈りを聞いて下さらないのですか!!」と叫ぶその経験を通して、神は私たちに「大切な思いを与えられるのだ!」という「確信」です。

神は私たち愛するゆえに、また信頼するゆえに「神の側が共にいてくださる」だけではなくて「私たちの方も、神と共にいてほしい」と願われるのは当然ではないでしょうか?「私たちの側から、神と共に歩みたいです!」という大切な思いを与えるためにいろいろな経験を下さると私は確信するのです。

私たちが神と共に歩むためには「神に祈り、神の御言葉である聖書をよむこと」とともに「神・キリストの体である教会に集い、礼拝を守り、神が愛しておられる兄弟姉妹と共に祈り励まし合う」ことが不可欠です。

それは簡単なことではありません。冒頭からお話ししているように「心が折れているとき」そして「わたしはこんなに頑張っているのに神は全く応えてくださらない」と思う時には、「聖書なんか読むか!教会なんか行ってられるか!」という思いが湧きあがってしまいます。そして「神と共に歩むことを辞めてしまう」そういう風になりがちなのが「弱いわたしたち」です。

正直に言いますが、私は牧師という立場でなかったら、仕事でなかったらどうだっただろうか…ということを思います。私も弱いです。

 しかしながら思うのです…「神さま、私といつも一緒にいてください」とお願いしながら、一方で「でもわたしは疲れたので…神さまと一緒に歩もうとすることは、辞退させていただきたいです。」と願うのは、やはり違うのではないかと

 神が良い時も悪い時もともにいてくださるから、私の側も「よいときも悪い時も神さまと共に歩むことから逃げないでいたい!」そのような思いを新たにさせていただいた今年の年始でした。

最近私が読んだ塩谷直也牧師の本に次のような文がかかれていてハッとさせられました。

 「愛する、とは相手の苦しみを共に味わいたい…ということだ。もしも相手が自分に対していいところだけを見せて『苦労をひとりで抱え込み、痛みを一切見せない』としたら、それは愛されていると感じるだろうか。

 使徒パウロは、イエス・キリストが自分を信頼してくれているなら『イエス・キリストご自身の苦しみを分けて下さるに違いない』と考えた人だ。その『キリストが分けてくださる苦しみ』を恵みと呼んではばからなかった…」

 神が共にいてくださることに感謝する思いを、苦しい時「それでも神と共にいよう、共に歩もう」とする思いに繋げていきましょう。 愛するからこそ「神と、隣人と重荷を担い合う」それを大切にして歩む2025年でありましょう。  (祈り)