2月23日 降誕節第9主日礼拝
「叫びながら神についていく」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 15:21~31
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みなさんにお尋ねしますが…聖書の福音書の中に記されたイエス・キリストの言葉」のなかで「これは意味が分からない」「なぜイエス様は、こうしなかったのか…」と感じられるも場面がきっとあると思います。
イエス様のなさることはなんでも間違いがないのだ!と信じることは大切ですが、しかし!それは…「疑問を感じながら、信じ受け入れることに戸惑いを覚えながら」その経験を重ねてはじめて「イエス様のなさることは全て正しい、間違いがない」という理解に至るのと、まったく疑ってみることなく、「狭い視野しか持たずして」「イエス様のなさることに間違いがない」と思うのとは全く違うと思います。
私もこれまで…「なんでイエスさまは、こんなことをされたのか?意味が分からない…」という思いを何度ももちました。昔あった、ある国の牧師から「あなたが疑うのは信仰が薄いからだ。なんでも疑わずに信じ込むことが大切だ」と言われたことがありますが、わたしはそうは思いません。聖書の内容に疑問をもったとき「神さま、意味がわかりません…」と愚痴ににも似た祈りを繰り返しながら、いろんなことを考えながら、また神が与えてくださった「友と一緒に、分かち合いをする中で」少しづつ「神のみわざの義さ、すばらしさ」が、実感としてわかるようになってきました。
わたしには、最初に読んで「疑問を感じた聖書箇所」はたくさんありますが、本題に入る前に「そのうちの一つ」を紹介させてください。
開かれなくても結構ですが、新約聖書70頁の「マルコ5章21節以下」のヤイロの娘の癒しと、出血のとまらなかった女性の癒しの物語は、とくに疑問を感じた個所の一つです。
「なぜ、すぐヤイロの娘のところにいってあげなかったのだ? 神の子だったら、人混みがあることがわかっただろうから、直接いけば死ぬ前に間に合ったのではないか?
そのあと、復活させられることが分かっていたにしても、家族の悲しみが極限になる前になぜ助けてあげないのだ? 出血が止まらなかった女性は、またそのあとに行ってあげて癒せばよかったではないか?」 そんな風に「わたしは…身勝手な感想をもっていましたが」、皆さん、同じようなことを思われたことはないでしょうか?
そんな「疑問を感じながら読んでいたわたし」でしたが、その後しみじみと分かったことがありました。それは「全知全能の神が、ひとりの人間としてこの世を生きられる、私たちと同じ人間となって生きる…というのがいかに大変なことか」ということです。
一人の人間ですから、「時間的、距離的、空間的」その他たくさんの制約があります。お疲れにもなります。その中で、次々と押し寄せてくる「病む人、悩んでいる人」すべてに愛を注がれたのですから、いかに大変だったかということです。
当然「神の時」があり「順番がある」わけですが、身勝手な人間は「自分中心に物事を考えます」ものですがら…それは神の子イエス・キリストのなさった業との間にギャップが出るのはある意味当然です。
今日選んだ聖書箇所も、イエスがなぜこんなことを言われたのか、普通に読めば疑問がわくと思います。しかし、このような箇所を味わうことで、「わたしたちは救い主について、より深く心に受け入れられたら」と願います。ともに読み進めましょう。
いま新約聖書の30頁の上段、「マタイによる福音書15章21節以下」をお開けくださっているでしょうか。まず簡単に「今回の箇所の舞台」についてお話しします。
ティルスとシドンは地中海東岸に位置する港町です。この二つの町は「典型的な異教徒の町」として聖書に出てきます。
じつはこの直前の場面で、イエスはガリラヤ湖畔におられたのです。そこで何をなさったかというと「5千人の給食」や「数々の病人の癒しの業」です。先ほども触れましたが「私たちと同じ、弱い肉体をまとっておられるイエス」が、どれだけ疲労なさったのか、それは想像がつくと思います。
その業の一方「エルサレムから来た律法学者やファリサイ派」と対峙なさったのでした。きっと弟子たちも疲れの限界にきていたのだと思います。だから、自分のことを知っている人があまりいない「異教の地である、ティルスとシドン」に行かれたのです。
しかし!!イエスを知っている人がいないであろう場所出身の女性、聖書では「カナンの女」と言われていますが、この人が「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と「叫び続けた」のです。
23節に、弟子たちが「この女を追い払ってください」という酷い言葉を発していますが…皆さん、弟子たちの気持ちになって考えて下さい。「本当に疲れていてやっと休めると思ったときに、なんて迷惑だ!」と思ったとしても、それは仕方がない、とお感じにいただけるのではないでしょうか。
さて、沈黙を続けていたイエスは24節でようやく言葉を発したおられます。そのことばは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊の群れにしか遣わされていない」という言葉です。これもずいぶんと「冷たい言葉だな」とお感じになると思います。
イエスは全世界の救いのために世に来られた神の子なのに…「私はイスラエルの牧者だ」と言われた。娘の癒しを願う女性を放置しているように感じてしまいます。
しかし、ここで注意したいことは「神の業にも時や順番がある」ということです。
神は「世界のすべての人を愛し、罪から救い出そう」と思われていることは間違いないことなのです。イスラエルが先に選ばれているのは「えこひいきされている」からではありません。「救いの基として、神の業を手伝うためにイスラエルが先に選ばれた」のであって順番の先、後があるだけで「愛の大きさに差がある」ということはありません。
ここでイエスは「まずイスラエルの失われた羊」つまり「選民でありながら、神の御心から離れ歩んでいる者たちを、本来あるべき道に戻すことを、先にしているのだ」とおっしゃっていると理解しましょう。
この「今は、失われたイスラエル人の罪からの救いについて必要なことを集中してやっているのだ。それを途中で止めるわけにいかない…というのが「子供のパンをとって小犬にやってはいけない」に意味だと私は理解します。
決して「異教の地である、ティルスとシドン」を放置されているのではなく、このあと「神の時がきたなら」救いに導こうとしておられることを覚えましょう。
さて、この聖書の箇所で最も大切なのは「イエスがなぜ言葉を言われたか」よりも「この、よくわからない言葉を言われて、女の人がどうふるまったか」を学ぶことだと私は考えます。 27節以下をご覧ください。
このカナンの女性は娘をおもって後へ引こうとはしませんでした。異教の地に育ったはずの彼女ですが、どこかでイエス・キリストの福音に触れる機会があったのでしょう。「主よ、ダビデの子よ」とイエスに向かって叫んでいます。
「主」も「ダビデの子」も、「イエスを約束されたメシアである!」ことを言い表した呼び名です。それだけでも、素晴らしいことなのですが、「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」との「普通には理解しがたい言葉」をいわれても、「その通りです」と受け止めた「女の人の謙遜さ」それと「神への信頼」が素晴らしいのです。
女の人は「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」と答えていますが、ここには「神の力に対する一途な信頼がある」のです。その信頼に対して、イエスは彼女にお答えになりました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そして娘は癒されました。
この聖書箇所は、イエス・キリストを通して与えられる「救い」が、民族の垣根を越えるということを私たちに教えているのだと私は理解します。たとえ異教の土地に生まれた者であったとしても、聖書が証しするイエス・キリストを神の子と信じて、心から救いを求めて近づくならば、神の憐れみによって救っていただけるのだということを、はっきりと示すのです。
さらに!私にはとくに次のことが心に迫ってきたのですが…イエス・キリストとともに歩むようになるには、一筋縄ではいかない、様々なことがある、私たちの理解を超えるものもあり「神様なぜですか?」と問うようなことも起こる、ということも教えていると思うのです。
この女性にとっては「すぐに反応してもらえず、小犬と呼ばれる」ことは想定してなかったでしょう。しかし!それでも「神から離れない、付いていく」決心をもったのです。
人間は、自分の願望が満たされることを神に願います。だから、神から思ったような「応答」がなければ、すぐに「顔をそむけてしまう」弱さをもっています。創世記4章のアベルの「神から顔をそむける弱さ」は、私たちみなが生まれ持っているのかもしれません。
(今日)でも!私たちは弱さ、心の汚さをもっていようとも、「神は、すべての人と共に歩みたいと願って、いろいろな業を行って下さっている」ということを信じて「分からないことがあっても」「それでも、神とともに歩みたい」という思いをもって、神にすがるとき、大きな恵みを得られると信じています。
「神の御業が、うまく理解できない」ということがあっても、それでも「神に叫びながらついていった」この女の人のような思いを私たちが少しでも持つなら、現状は変えられる、そのことを聖書が教えていると信じ、歩んでまいりましょう
(祈り・沈黙)