3月2日 降誕節第10主日礼拝
「彼のための教会の祈り」隅野徹牧師
聖書:使徒言行録 12:1~17
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みなさんは一日にどれぐらいお祈りをされているでしょうか。有名な第一テサロニケ5:17では、「絶えず祈りなさい」との言葉がでます。もちろん、これはいつでもどんなときも祈りの姿勢をとりなさい、という意味ではありません。そうではなくて「心の中がいつも、神さまの方を向いているように」という意味だと私は理解します。
祈りの姿勢はとれなくても、例えば「食事の支度をしていても、洗濯や掃除をしている時でも」「神さまありがとうございます。」「神さま、どのようにしたらよいか教えてください」などと心の中で「神と対話すること…」それを神ご自身が求めておられると私は理解しています。
日常生活のなかの、「何気ない瞬間にも」神を感じながら歩んでまいりましょう。祈りを通じて、神の前に「何気ない自身の思いや願いを打ち明けること」で、心の中に「神の側からアドバイスや平安が与えられる…」そのようにして、神との絆は深くなっていくのだと信じます。
さて…何気ないことを「なんでも祈ってよい」のがキリスト教の祈りですが、キリスト教の祈りは「大きく4つに分類できる」といわれています。①つめが感謝の祈り、②つめが罪や過ちを悔い改る」祈り、③つめが「もろもろのことをお願いする祈り」、④つめが④神やキリストをほめたたえる「賛美の祈り」だと言われます。
今回の聖書箇所は③つめの「お願いの祈り」についての物語だといえます。どんな奇跡がおこったか、それをどう理解するのかについては簡単にしかしませんが…題名にあるとおり「教会につながる者たちが必死に祈った」その姿から、大切なことを学んでまいりましょう。
今回の箇所は使徒言行録12章です。はじめてここを読む人もおられると思いますので、はじめに使徒言行録の11章までの流れをお話しさせてください。
イエス・キリストが復活され、天に帰られた後、「残された弟子たちは、神の霊である聖霊」を豊かに受けました。弟子たち自身は「イエスを裏切り、逃げ去ってしまう」ような弱い者たちでしたが、自我を明け渡し「神の力に満たされる」ことで、神の御心をなす者たちへと変えられたのです。
神の御心とは「愛の主イエス・キリストによる罪からの救いを、世界中の人に広めること」です。弟子たちを中心に立てられた「エルサレムの初代教会」は自分の罪、弱さを神の前に認めながら、祈ることで聖霊に満ち、力強くキリストの愛・福音を証ししました。
そうすることで、仲間に加わる人が次々に与えられました。しかし、それは多くのキリストを信じない「ユダヤ人から」目の敵にされ、繰り返し迫害が起きることになるのです。
一回目の迫害は、使徒言行録8章に記されている「ステファノの殉教」があった直後です。
この迫害によって、エルサレムに固まっていた「初代のクリスチャンたち」は各地に離散することになります。それでも、移った先で「クリスチャンたちがキリストを証しした」ことで、教会が生まれたのです。
ほどなくして、迫害者だったパウロが回心し宣教の業に加わったり、それまで神の言葉が伝わりにくかった「異邦人に聖霊が豊かにくだる」などの「奇しい神の業」が起こり、イエス・キリストによる福音はいよいよ世界に広がろうとしていました。
そんなとき、二度目の大きな迫害がおきたのです。場所は「エルサレム教会」でした。
1~4節をご覧ください。
この迫害は、ヘロデ王の絶対的な権力に基づく「国家的な迫害」であることが、ここから分かります。
迫害したヘロデ王とは、ヘロデ・アグリッパ、つまりイエス誕生の時のヘロデ大王の孫にあたります。彼は一貫してキリスト教会を迫害し、それによってユダヤ人たちの求心力を高めようともくろんでいたようです。祖父のヘロデが、自分の地位を守るために「人殺し」を繰り返したように、ヘロデ・アグリッパもまた「ユダヤ人に支持されるために」人の命を奪うようなのことを平気でする…そのような人物でした。
この「ヘロデによる迫害」の動機ですが、実は直前の11章27-30節に出てくる「大飢饉」があるのではないかという説が有力です。
つまり…大飢饉で人々が苦しんでいたのに、それをヘロデはうまく治められなかった。それで人々から政治不信が聞こえるようになり、人気取りのために「イエスの弟子たちを殺しにかかった」という説です。
これが正確かどうかは分かりませんが、今の世界も為政者たちが、自らの政策の失敗を素直に謝ることをせず、逆に「人気取りのためにとんでもない非常識なことを平気でやる」ということが増えているのではないでしょうか。
私たちは主の御心がこの地上においてなるために、為政者に目を光らせ、祈ることの大切さを思います。
さて…ヘロデによって殺されたのは十二弟子の一人であった「ゼベダイの子ヤコブ」でした。このヤコブを殺したことが「ユダヤ人に喜ばれた」と3節にあります。本当にとんでもないことですが、さらに「一番弟子のペトロをも、捕まえた上で処刑しようと」企んでいたということを聖書は記します。
すぐに殺すのではなく、「牢屋で監禁したあと」、ユダヤ人が伝統的に守ってきた除酵祭、つまり「出エジプトを記念する種なしパンの祝い」のときに、民衆の前に連れでして殺すつもりだったのでしょう。
だからこそ4節にあるようにペトロは「4人一組、兵士が4交代で」というかなり「厳重な監視」がされる中で投獄されたのです。 5節は今日の中心のことばですので、後程、じっくりとみることにします。
先に6節以下をざっとみましょう。6節では逮捕され、獄に繋がれたペトロの様子が詳しく記されています。逃げ出すことは不可能な「厳重な警備の中にペトロが置かれていた」ことが分かります。しかし「この厳重な警備の様子」があることで、逆に7節以下に記された出来事が私たちに迫ってくるのです。
7~11節には「不思議で劇的な天使による脱出劇」が記されています。ペトロは天使に導かれて二人の兵士の間からそっと立ち上がります。鎖は手から落ち、服を着て衛兵所をくぐり、町に通じる鉄の門も開いて、通りにまで進んでいき、11節には「そこでようやく我に返った」とあります。
天使がどう助けたか書かれた10節までの言葉は多分「我にかえったペトロ自身の表現」によるものなのでしょう。
大切なのはこの救出劇が「幻ではなく現実であったこと」、また「天使による不思議な救出劇の背後に神の御業があったこと」を見て取ることです。
たまたまとか、偶然ではない、「明らかに神の御業が働いた」、ただそのことを現わそうとしている、私たちはそのようにシンプルに理解できたら!と思います。
12節以下の「祈っていた人たちが、ペトロが戻ってきたということをすぐには信じられなかった」というエピソードには一種の「ほほえましさ」のようなものを感じますが…しかし、似たような経験は皆さんにはないでしょうか
必死に祈っていたが、心の中では「この願いが聞かれることはないだろう」という思いをもっていた。そんなとき「祈っていた願いがかなえられた」という知らせがはいってきた。しかし!驚きのあまりすぐには信じることができなかったという経験です。
私には何度もあります。重い病気の方が奇跡的な回復をされたとか、キリストを受け入れてもらえるのが難しいかな、と思っていた方が、「洗礼をうけたい」と言ってこられたとか、もう教会に戻るのは難しいかな…と思っていた方が復帰にみちびかれたとか、修理が難しいと思っていた物が「特別な賜物をもった方に繋がったことで」なおったとか…「聞かれないだろう」と半分諦めていたような祈りが聞かれたという経験が私にはたくさんあります。
その一つ一つの事象にはそれぞれ「科学的な要因」があるのでしょうけど、それでも私たちが「無理だろう」と諦めそうになっても、その上をいく「神の業」があることを、祈ることで体感できます。
諦めそうになることも正直あるでしょうが、それでも神に心を向けて「祈りつづけ」ましょう。
最後に残った5節を深く味わって、メッセージを閉じたいと願います。ここが今日のメッセージの結論部分です。
12弟子で最初の殉教者となった「ヤコブの最期」に関しては詳しく触れられておらず、ヤコブはヘロデ王の人気取りのための生け贄とされてしまったのであり本当に理不尽な話です。
エルサレム教会の信徒たちがどれだけ悲しんだかはすぐに理解できることでしょう。
しかし!!さらなる悲劇が襲います。それが「エルサレム教会の指導者であり、精神的支柱だったペテロの逮捕」です。 この出来事は「やっと軌道に乗ってきたエルサレム教会の存立を脅かすようなもの」だったことでしょう。
そのような中、教会がした行動は「実力行使」でもなければ「保身のために逃げ出す」ことでもなく「祈り」でした。
教会が「なにか特定の課題や願いに対して祈りを合わせる」ことは大きな力となります。それはキリスト教会の長い歴史の中でずっと確認されてきたことです。
とくに迫害や苦難の時「祈りを合わせることによって、その都度ピンチを乗り越えてきた」のがキリスト教会だといって過言ではないでしょう。
私たち日本の教会には「命を狙われるような迫害が現在はない」といえるのかもしれません。しかし「今日の聖書箇所のころのエルサレム教会とはまた違う苦難」がたくさんあります。日本の教会の中で「消滅の危機がない」といえる教会は一つもない…そんな厳しい状況があるのです。新しいことにチャレンジしたり、周辺の教会と助け合ったりすることが必要不可欠で「現状のままで安泰」という教会はどこにもないと言えます。
山口信愛教会で言えば、今教会につながる方々の中で、体調のお苦しみと戦っている方が何人もある…ということ、「教会に来られない方が徐々に増え、奉仕者などの担い手が、新たに生まれてこない」など、たくさんの悩みがあります。
私たち牧師は、いろいろな毎日いろいろな課題を挙げて祈っていますが、「熱心というか、必死な祈り」です。祈らずにはいられない。祈る以外にすべがない…そのような感じでしょうか。
皆様もぜひ心を合わせて祈って下さい。このときのエルサレムの教会のように「たとえ信じ切れていなくても、弱い一人ひとりでも」心を合わせて祈るなら、人知を超えた神の助けは必ずある!そう信じて祈りを合わせてまいりましょう。(祈り・沈黙)