3月9日 受難節第1主日礼拝
「初穂となるための苦しみ」隅野徹牧師
聖書:ヤコブの手紙 1:12~18
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今回は4つある聖書日課の箇所の中からヤコブの手紙に1章12節からを選んで語ることにしました。 ここは新共同訳の小見出しには「試練と誘惑」と書かれていますが、どちらかというと「いわゆる試練」が主題なのではなくて「人生の中の誘惑」と、全知全能で私たちの造り主である「神」の関係について教えられる箇所だと私は捉えています。
私たちはできる限り「誘惑に出会いたくない」というのが本音です。しかし!私たちの気持に関係なく、そして「どんなにそれまで善良な歩みをしているとしても」誘惑に出会わされます。
聖書のこの箇所は「誘惑に負けて、良くない生活「悪循環」に陥ったとき、神さまのせいにして、自暴自棄の行動に出た人がいた」ということが背景にあるのではないか、と言われています。
わたしは「誘惑にすべて打ち勝っている。悪い道になど進んだことがない」という人はどこにもいないと思います。私たちは「誘惑」と、その結果もたらされる「苦しい歩み」と隣り合わせの人生を送っていると言えますが、その一方で「誘惑とわたしたちの命、時間を与えたもう神との関係」をどう捉えたらよいと聖書は教えているでしょうか? ともに考えてまいりましょう。
まず、この聖書箇所となっている「手紙」を書いたヤコブという人についてお話しさせてください。この「ヤコブ」は、イエスの実の弟のヤコブだと言われています。
イエスの兄弟ヤコブは当初、兄であるイエスの活動を快く思っていなかったことが聖書の福音書の記述から読み取れます。しかしそんなヤコブが「イエス・キリストを救い主」だと信じ、受け入れ、エルサレムに誕生した初代教会の指導者になったのです。
このヤコブは「イエス・キリストが伝えた教えを、言葉を変えて同じように教える」傾向があり、後程も紹介しますが、この手紙には「福音書でイエスが教えたのとよく似た教え」が出てくるのです。
ヤコブの手紙の最大の特徴が「行いの大切さを語っているが、信仰の大切さをあまり語っていない」ように誤解されることが多いことですが、これは当時の初代教会で起こっていた「問題」が背景になっていると言われます。
パウロが教えているように、十字架に掛かり、復活されたイエス・キリストを「自分を罪から救う、救い主だ」と信じるならば行いとは関係なく無償で「罪から救われる」ことは間違いないことです。もちろんヤコブもそれは理解していました。
しかし!初代教会は誕生してまもなく、成熟した信仰に基づくアドバイスができる人が少なかったこともあったからでしょう。
「信じるだけで、罪から救われるのだから、何をしても自由ではないか…」という考えが蔓延し、クリスチャンになった後も「神が悲しむような行いを止めない人」が沢山でてしまったのです。今回の箇所でもそれは見て取れます。
今回の箇所の結論部分は「12節」だと考えますので、ここは最後に見ます。
まず13節から15節をご覧ください。 ここからは、当時の教会で起きていた問題の一端が見て取れます。
13節の「神に誘惑されていると言ってはなりません」との言葉から分かりますが、キリスト信仰を曲解した人々が当時教会内にいたのです。どんな曲解かというと…それは「悪魔も神の創造物だ。その神が造られた悪魔の誘惑にあっているのだから、それは神に誘惑されている…ということだ」というものだったと理解されています。
つまりは…「神のつくられたものの誘惑に身をまかせているのだから、自分は悪くないのだ」そんな「屁理屈」が声高に叫ばれていたようなのです。それで神の御心からどんどんと離れた行いをしながら、「自分を正当化」する、ということがまかり通っていたのです。
結局は、その屁理屈が「罪を重ねて、さらに神から離れていく…苦しみの道」につながっていくのですが、ヤコブはその原因を「人間の内側」に見ています。それが14節です。
「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです」
悪魔のせいでもない。まして神のせいではないのです。私たちの内にある「欲望」、別の言葉で言い換えれば「自己中心さ」が、苦しいとき神に留まるのではなくて、その反対の「神からどんどん離れた道」へと引っ張りこむのです。15節の言葉は大変に厳しい言葉ですが、まさに!「永遠の命にいたる人生」ではなく、「霊的な滅び」の人生を生み出すのです。
わたしが出会ってきた牧師やクリスチャンのなかで「なんでもかんでも悪霊やサタンのせい」にしている人がいて、大きな違和感をもつことがありました。人間の側に問題があって、誘惑に陥り、そして問題が大きくなって「苦しみ」となっているのに「サタンの仕業だ!」とやたら騒ぐ人たちや、自分に反対意見を持つ人たちに対して「あの人はサタンに取りつかれているのだ」と簡単に言ってしまう人がいます。
聖書には悪魔、サタンが出てきますし、その存在は「注意しなければならない」と私は考えます。サタン・悪魔を無視してはいけないと思います。
しかし!その悪魔、サタンを「まるでエイリアンのように、他から自分を襲ってくるもの」と捉えるのではなく、サタン・悪魔は「私たちの心の内に、自分自身のものとしてある」ということを覚えなければならないのではないでしょうか。
つまりどういうことかというと…まず「自分自身、サタンの働きによって欲望や自己中心さはいつも芽をだしてしまう。悪い行動を起こしてしまう可能性もあるし、逆に、本来神の御前でやらなければいけないことを止めてしまう、妨げてしまう…そういう自らの弱さや犯す罪を謙虚に見つめることこそ大切だということです。
悪魔やサタンの誘惑のせいにしてしまって「神の御前で、自らの歩むを顧みる」ということが抜けてしまったら、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり復活して下さったことで「罪を清めてくださった」キリストの恵みが「無駄になってしまい」ます。
私たちは主イエスの十字架を見上げて「歩んでまいりましょう」
つぎに16節17節をご覧ください。
神は「良い贈り物」を与えてくださることが教えられます。ただ、その贈り物は私たちの目から見て、いつも「良い贈り物」として来るわけではありません。わたしたちは先ほどから申し上げているように「心の中に、潜在的に欲深さや、自己中心を宿しているため」神のくださるものに対して感謝できなかったり、不満を言ってしまいがちです。
しかしヤコブは16節で「思い違いをしてはなりません」と注意します。神は私たちに対して「誘惑を与えない。悪いものを与えることはされずに、良いものをくださるのだ」といっています。
とくに深いのが17節です。
「神がお造りになった天体という光には、「移り変わり」や「影」があります。それと同じように、私たちの人生にも移り変わりがあり、「影の中に入ってしまう瞬間」があります。喜びや悲しみの時があるのと同じように、「何か悪い力に引き寄せられるような時」はそれぞれに必ず訪れるのです。
人を悪く言ったり、貶めてやろうと思ったり…そういう「誘惑の時」がありますが、それは「影の時間、闇の時間」といえるようなものです。
しかし、「光の源」である父なる神は、変わることなく私たちを照らし続けます。「良い贈り物」を与えようと働き続けます。
その父なる神を信頼して、「誘惑され、悪に引きずり込まれそうになる時」の中にも変わることなく「良い贈り物」が隠されていることを信じ受け止める。その時、神との交わり・絆をいよいよ深められると信じています。
18節にあるとおり「真理の言葉」によって日々新しく創造されて「神の子」とされて生きていくことが出来るのです。 それは説教題につけたように「神から創造されたものの初穂」として、永遠の命を生きるものの「基」として用いられるのです。
それでは、今回のメッセージの結論部分である、12節を読んでメッセージを閉じます。
ヤコブ書の読者である信徒たちは、「自分をかえりみず、都合が悪いことはその責任を他人や、神に負わせようとする」者たちだとお伝えしてきました。
しかし、ヤコブは「クリスチャンとは…思い通りにことがすすまない逆境のときも、ここではあえて『試練のとき』という表現がつかわれていますが、そんな時も神が共にあゆんでくださり、神はいつでも良いものをお与えくださる方だ」ということが16節から18節で教えられました。その生き方がまさに12節にあるような「試練を耐え忍んで生きる生き方」なのです。
「幸いです」という言葉が出ますが、これはマタイによる福音書5章でイエス・キリストがお語りになった「山上の説教」の「8つの幸いの教え」を思い起こさせます。最初にお伝えした通り、イエス・キリストの教えと似た教えの言葉がまさにここででているのです。
特に「試練を耐え忍ぶ」は、マタイによる福音書5章10節 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と重ねて読むことが出来ます。
私たちは、ヤコブ書を通して、信仰生活には必ず危機があることを、改めて今日、心に留めましょう。そんな危機の時でも私たちは悔い改めることを忘れ、自己正当化へ走る、言い訳を沢山考えて神の御前でいつの間にか「自分自身を神にしてしまっている」ということが起こりうるのです。
しかし、そんな私たちを神は愛してくださり、「永遠の命」を得させたいと願っておられます。そのために「良い贈り物」をおくってくださるのです。その「神の賜る最大のよい贈り物」こそが「神の独り子イエス・キリスト」です。そのことを忘れずに、歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)