4月6日 受難節第5主日礼拝・聖餐式
「復活の力に私達もあずかる」隅野徹牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 8:1~11
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現在、教会の暦では「受難節」という、とくに「イエス・キリストの十字架を覚えて過ごす時」を送っています。救い主イエス・キリストが地上の歩みをどのような苦しみで終えられたか、またその主にどのようにしたら近づくことが出来るか、これをキリスト教会は伝統的に覚えて「復活祭」であるイースターまでを過ごしています。
今年は4月20日がイースターですが、それまでの日曜日は、「聖書を通して、イエス・キリストの苦しみのお姿を思い浮かべ、辿ること」をたどっています。
しかし、イエスの負ってくださった苦しみは、それを通して私たちにとって「希望が与えられるためのもの」でもあるのです。
今日は礼拝後、昨年10月に天へと凱旋された「柳井キミ子」さんの納骨式を執り行います。今日は、この礼拝にご親族の方もご出席くださっていて大変感謝です。
今日は、キリストの負って下さったお苦しみを通して「私たちは永遠の命の希望が与えられる」ことをメッセージとして受け取りたいと願いますが、先に天へと凱旋された「柳井キミ子さん」の生涯を振り返りながら、私たちに与えられたその希望が確かであることを覚えられたらと願います。 ともに御言葉に聞いてまいりましょう。
さて今日の聖書箇所、ローマ8章1節以下の言葉は、先ほど司会者に朗読いただきましたが…言葉が難しくて、何をいっているのか意味が分からなかった…という方もおられるのではないでしょうか…?
すこし意味が通るようにするために直前の7章の最後の方を軽く見たいと思います。
おなじページP283の7章24節をご覧いただけるでしょうか
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められた体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」
これはキリスト教を世界に広める大きな働きをした「使徒パウロ」が、自分の心の内を正直に吐露した言葉であります。
パウロは「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることを行ってしまう」といっています。せめぎあう二つの力に心が引き裂かれている姿が見て取れます。
パウロは過去に自分が犯した大きな過ちを嘆いて、惨めな人間だ、と述べているのではなく、「良いことをしようと思いながら、悪いことをしてしまう」その「引き裂かれ状態」を嘆いているのです。
しかしこのような嘆きのままでは終わらないのです。次の25節をご覧ください。
嘆いていたはずのパウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と感謝の声を挙げています。
惨めさのどん底で嘆いていたパウロが、一体なぜ「突然神への感謝」を歌っているのでしょうか。
感謝いたします…といった後の25節後半の言葉では「心では神の律法に仕え、肉では罪の法則に仕えている」とあります。ここをみると、パウロの「自分が二つに引き裂かれる問題」は解決したのではなくて、そのままだということが分かります。
しかし、それでも感謝しているのです!
それは何故か…というと8章1節と2節に答えが書いてあります。
なぜかというと、神の独り子である救い主イエス・キリストが「パウロを、引き裂いていた二つの力」から解放したからなのです。
わたしは、科学や物理は苦手ですが、「法則」というのは、絶対的なものであって、それは変わることのない事象のことを指すそうです。
8章2節に「罪と死の法則」という言葉が出ますが、パウロをはじめすべての人間が「心では、神の前に良いことを行い、悪を避けたいと思っていても、実際、肉体をもった自分の行動としてそれができないのだ」ということは、ある意味で「法則のようなもの」で、それは変えることが出来ないものなのだということを示しています。「罪と死の法則」ということばは大変厳しく重い言葉ですが、私たち人間は、そのままでは「自分の罪」をどうすることもできない。そのままでは永遠の命をいただくことができない、ということを表しています。
しかし!法則はそうであったとしても、善を行えない私たちが罪から救い出され、永遠の命を得ることができるのだ!!ということをパウロは教えます。それがイエス・キリストと「結ばれること」なのです。
キリストと結ばれたなら、なぜ「罪と死の法則から解放され、永遠の命を得ることが出来るのか」それは3節以下、パウロの独特な言葉で表現されています。
10節が「一言で結論を表している」ように感じます。イエス・キリストの名によって洗礼を受け「キリストに結ばれた者」は、キリストが霊的に生きている、分かりやすく言えば「心の中に住んでいる」ので、たとえ肉体的な体が「罪から離れられなくとも」、永遠の命を得ることができる、ということなのです。
さらに深いのが8章11節です。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」と語られています。
結論ははっきりしています。7章24節の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」ということばに対応するようにしてこの8章11節で「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」ということが語られるのです。
わたしたちの内側にキリストが入ってきて、しかも心の中に宿ってくださることによってわたしたちは「生きる者になる」のです。
肉体的にはなお「様々な罪から離れられなくても」それでも、罪がもたらす死の法則「つまり永遠の命をもつことができない」という法則からは解放して下さるのです。
それは「罪を持った私たちが特別に赦され、天国にて永遠に生きることが出来る」という希望なのですが、それは10月に天に召された柳井キミ子さんを通して「確かに見ることが出来る」のではないでしょうか。
8章1節に「イエス・キリストに結ばれた方」という言葉が出ますが、柳井キミ子さんもまさに「キリストに結ばれた者」として、天で永遠の命を生きておられます。
2011年3月27日、柳井キミ子さんは、この教会で鈴木恭子牧師より洗礼を受けられ「キリストに結ばれた者」となられました。
教会の文集「野の草第21号」で、トメ代さんが証ししてくださっていますが、晩年のあるとき「教会でお葬式をしてもらえんかね?」とお尋ねになったそうです。
そのやりとりのあと「教会で洗礼を受けることを希望され」そして「トメ代さんと同じ信仰を持ちたい」「お祈りを教えてほしい」などと、言われ、実際に「教会の中でもっとも大切な祈りである主の祈りを、一生懸命覚えようとされた」ということです。
1934年、昭和で言うと9年にお生まれになり90年の生涯を走り抜けられた柳井キミ子さん、山陰の田万川町から神戸市、山口市と生活の場を移しながら、行き先々で多くの人と良い出会いを与えられ、またそれらの方に感謝しながら歩まれた御生涯でした。
ご主人を早くに亡くすなど苦しい経験をされながらも、与えられたご家族との関係をますます深く強くされ、支え合って歩まれた、晩年でした。
そんな中で、神が聖霊によって「不思議と、キミ子さんの心の中に語りかけられた」のでしょう。私たちすべての人間を「罪と死の法則から救い出すために、この世に来られたイエス・キリスト」を「救い主」として告白することを導かれたのです。
イエス・キリストは私たちの罪を背負って「十字架でしなれ」ました。その死の苦しみは、私たちの「罪にまみれた、古い命に別れを告げる」ことを可能にしたのです。
そして、「十字架のあと、キリストが復活された、その復活の命」に、キリストに結ばれた者はあずかることができるのです。
柳井キミ子さんは、今私たちの肉眼では見ることが出来ませんが、確かにキリストに結ばれて「天にて」永遠の命を生きておられることは、聖書が証ししているのです。
私たちは、柳井キミ子さんをはじめ多くの先達が「永遠の命を生きておられる場所」である「天国」を見上げつつ、互いに励まし、慰め合いながら一日一日を歩んでまいりましょう。 (祈り)