「まず行って仲直りをする」7/6 隅野徹牧師


  7月6日 聖霊降臨節第5主日礼拝・聖餐式
「まず行って仲直りをする隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 5:21~26

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 今日の聖書箇所を何度も読んだことがある…という方は多いと思います。しかしどうでしょうか、多くの方が「耳が痛い、心が痛い…」とお感じになる箇所だったのではないでしょうか。

 「人殺しという行為を憎み、人殺しに関わる人々を軽蔑する」その一方で、「そういう人殺しを止めない国家や指導者に対して」「馬鹿者め!愚か者め」と口走ってしまう

わたしはこの箇所を読んでいて、今言ったような自分の本性に気づかされるのですが、皆様はいかがでしょうか?この箇所でイエスは「人を殺した者だけでなく、兄弟に対して腹を立てたり、馬鹿とか愚か者と言う者たちも裁きを受ける」と言われているのですが…わたしたちもそういう罪を犯すものであることをまざまざと見せつけられます。

 平和とは、「人と人の殺し合いが起きていない」状態をいうのではないということを聖書は教えますが、今回の聖書箇所はまさに!それを私たちに教える箇所です。

 今日現在、ミサイルが飛び交う状況は収まっていますが、世界は今、憎しみと怒りで満ち、対立と分断は余計に深まっています。

21節にあるとおり「殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける」ということは宗教の世界だけではなく、世の常識としても通用してきたルールです。しかし「殺してはならない」というルールだけでは、まったく「殺し合い」が無くならないのです。

今日はその21節につづく22節から26節を深く読みたいと願います。「殺してはならない」というルールに加えて、イエスは、「しかし、わたしは言っておく」以下のことをお語りになったのです。

私たちも、人に対し「馬鹿者」といってしまう者であること。そして「特定の人を嫌うなど、差別の根を持つものであること」をしっかりと心に留めつつ、「イエスの願われる、真の平和とは何なのか」をご一緒の考えてまいりたいと願います。

22節をご覧ください。「しかし、わたしはいっておく」という言葉でイエスは教えを伝えられます。「しかし」という言葉が表すように、この先でイエスが教えられることは、世の中の常識的な教えとは違うのだ、ということです。

今日の箇所の次の部分、マタイ527節以降を簡単にご覧ください。

ここは「具体的な姦淫を行っていなくても、みだらな思いをもって他人の妻をみるなら、それは姦淫の罪を犯したのと一緒である」ということが教えられます。

ここでも28節で、「しかし私は言っておく」という言葉でイエスが教え始められていることにお気づきでしょうか?

当時の世の中では「具体的な性的行為をしなければ罪ではない」と考えられていた中で、「女性の命を大切なものとして尊ばなければならない。だから、性的な目で女性を見た時点で、神の目からは罪を犯したものとみなされるのだ」との教えがなされます。

517節でイエスは「私は律法を廃止するために来たと思ってはならない。完成させるためである。」という言葉がでますが、イエスは「律法が与えられた本当の目的はなにか」ということを教え、本当の意味で完成されるためにこの世に来てくださったのです。

律法の究極の目的…それは人々が神を愛し、人と愛し合い生きていくために他なりません。

姦淫の罪で言えば、「結婚関係を結んだ異性以外と性的行為を行いさえしなければ、人々が互いに愛し合い尊重される世の中になるかといえば、全く違います。

やはり、行為に及ばなくても「情欲の目で異性を見てしまうこと」を放置してしまうのではなく、「簡単には止められない、異性を情欲の目で見てしまう自分の罪と向き合う」ということが「人と人とが愛し合うという、主の御心の実現」のためには不可欠です。

これと同じようにして今日の箇所の22節から26節を理解してまいりましょう。

まず最初の22節をご覧ください。

ここで言われているのは、私たちの隣人を憎むということには「段階がある」という事です。 最初は「腹を立てる」事から始まり、次に「馬鹿」という言葉を掛け、 最後に「愚か者」これは「日本語の愚か者ということばよりも何倍も侮蔑的な言葉」を意味しているそうです。

このような「腹を立てる、馬鹿と言う、侮蔑的な言葉を吐く…」というように人間が怒りを深めていく様子が三段階に分けて表されているのです。 そしてイエスは「段階が上がっていくと同時に、神の裁きが厳しくなると教えられているのです。

早い段階で「相手に対する怒りの感情の原因となっている、その根っこを除去する」ことの必要さを思います。しかし、現在の世界の対立は、「かなり段階が進んだ状態にある」ことを認めざるを得ないと思います。

そして私たちもその影響を受けている…特定の人を赦せない、そんな自分を「正当化する」仲直りなんかできない、あっちが悪いのだから…という気持ちをもってしまうことを素直に認めましょう。

このように「仲直りできない罪深いわたしたちは一体どうすればよいのか」それが続く言葉に表されています。      

2324節をご覧ください。こう教えられます。

「ですから、祭壇の上に献げ物を献げようとしている時に、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、献げ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、その献げ物を献げなさい。」

ここでいわれる「祭壇に献げ物をする」というのは、エルサレム神殿へ行って行う特別な礼拝のことです。それで、もし誰かが自分を恨んでいることを思い出したなら、そんな大事な特別な礼拝の前でも、すぐその人の所へ行き、和解せよということです。

イエスは、相手に対して怒る理由や、その思いが正しいかどうかには触れておられません。

人間的な常識では「自分の側に非があるなら自分から行って謝るが、相手に落ち度があると考えられる場合は、自分から動いてはいけない。相手に謝らせなければいけない」という考え方が一般的だろうと思います。

しかし!イエスは、自分の側に非があろうとなかろうとも、自分の方から仲直りに出向くべきだ、と教えられるのです。しかも「祭壇にささげものをする」という「神の御前で行う特別な時間を持とうとしている時でも、それでも一旦その行為を置いて「仲直りしに行きなさい」と教えられるのです。それほど、仲直りすること、和解することは大事だということです。

 続いて2526節です。ここでは「仲直りしなければいけない、人間の相手とともに」裁きの主である神との和解が必要であることが教えられているのです。

1クアドランス」は当時の日給の60分の1ぐらいの額だそうです。こんな少額でもきちんと解決しなければ裁きから免れないということです。

注目すべきは25節「あなたを訴える人と道を一緒に行く場合、途中で…」とであることです。「道を一緒に行く、あなたを訴える人」その人とは、私たちと同じ人間となってくださった神の独り子イエス・キリストにほかなりません。

神の子キリストは私たちの人生を共に歩んでくださる救い主でありますが、私たちの行いをすべてご存じで見ておられる方であるので…「罪を訴えることのできる検察官であり、裁きを決める裁判官」でもあるのです。

そのイエスの存在を感じつつ「仲直り、和解をすること」が大切だ、といわれているのではないでしょうか。

今日のメッセージのまとめに入ります。

今回の「何を差し置いても仲直り・和解することの大切さ」を説かれたイエス・キリストですが、この方ご自身が「和解・仲直り」を導いてくださるお方だということを最後にお話しします。

誰との和解をもたらされるかというと、「私たちの造り主である神と、その神に従わない私たちを和解させるため」です。そして「同じ神に造られた尊い命であるはずの隣人と自分との和解を実現するため」です。

人間となって下さった主イエスは、私たちの罪を全てご自分の身に引き受けて、十字架にかかって死んで下さいました。このイエスの十字架の贖いによって、神は私たちの隣人を大切にしない、そして神を大切にしないという罪を赦して、和解の手を差し伸べて下さったのです。

このように自分が「御子キリストによって」神から特別に赦されていることを心から受け入れることによって、「特別な赦しを与えて下さっている神に感謝し、神を愛して生きる」ことができます。それだけでなく隣人を愛し、受け入れる人として新しく生きることができるようになります。そして「自分に反感、敵意を持っている兄弟と和解して、つまりその兄弟をも愛することができるようになっていく」のです。

私たちの決意や努力によってできることでもありません。しかしイエスの十字架の死による神の愛を信じて、神と和解して、神との良い交わりを与えられていくことだ、それは可能になります。

分断と憎しみ合いが連鎖する、この世の中にあって、私たちは、キリストによる神の和解の恵みを受けていることをいつも忘れずに歩んでまいりましょう。そしてキリストの愛を、少しでもまだ知らない方に伝えてまいりましょう。(祈り・沈黙)