「主イエスの家族」8/31 隅野瞳牧師

  8月31日 聖霊降臨節13主日礼拝
「主イエスの家族」 隅野瞳牧師
聖書:マタイによる福音書 12:46~50

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 本日は私たちに与えられた家族の恵みについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。

1.神は家族をお造りになり、祝福された。(創世記2:18,24)

2.信仰によってすべての人が、神の家族とされる。(50節)

3.家族になる中で、ともに育てられる。(ルカ10:37,エフェソ4:16)

 

1.神は家族をお造りになり、祝福された。(創世記2:18,24)

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。…こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:18,24)

主イエスは群衆に囲まれてみ言葉を語っておられました。そこに主イエスの母マリアと兄弟たちが、話したいことがあってやって来ましたが、あまりにも人が多いために近づくことができませんでした。マルコによる福音書の並行記事では、多くの病を癒された主イエスに対して律法学者たちが、あの男は悪霊のかしらの力によってこれをやっているのだと言っています。そこで家族は主イエスを取り押さえに来たのでした。宗教指導者たちとの間にこれ以上波風を立てないように、主イエスの身を案じたのです。本日の箇所にヨセフが出てきていないのは、おそらくもう亡くなっていたからだと言われます。

聖霊によってマリアが主イエスを産んだ後、マリアとヨセフの間には、普通の形でこどもが産まれました。ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという弟と、2人以上の妹がいたということです(13:55)。長男として家を守っていた主イエスはおよそ三十歳の時に家を出て、神の国の福音を宣べ伝え始めました。主イエスはご自身の使命に向かわれましたが、兄弟たちは主イエスを信じていませんでした(ヨハネ7:5)。御子はご自身とその使命について理解されませんでしたた、それでも家族を愛されたのです。

 すべての命、特に夫婦や家族を掛けがえのない存在として大切にすることは、創世記から始まっている主の御心です。十戒には⑤あなたの父母を敬え⑦姦淫してはならないとあり、これは家族を守るための戒めです。家庭は両親がこどもを養育するとともに、生きた信仰を伝えていく場でありました。奇跡としてここに生まれ結ばれ、出会わせていただいた家族との間に、主は神の国を映し出そうとされます。

家族のためを思ってこうする。しかしそれが神の御心と違うこともあります。家族は主が出会わせてくださった特別な存在であり、一時ともに過ごすことが許されていますが、私が自由にしてよい所有物ではありません。神のものです。神に家族をおまかせする時に心配から解き放たれ、自分の思いを超えて、主がその家族を最も幸いな道に導いてくださいます。初代教会の信徒たちの中には、一人も貧しい人がいませんでした。財産を持つ者がそれを売って、その代金が必要に応じて分配されたからです。信愛教会の皆様は、牧師は神の国全体のものという信仰に立って、私たちを安岡教会に送り出してくださっています。感謝です。牧師もまた、兄弟姉妹は主の羊なのだという思いをもって、お仕えして参りたいと思います。

どんな家族であっても完全ではなく、欠けがあります。ですからそれぞれが主によって造り変えられ、新しい家族となっていくことが必要です。家族だから自然に愛せるだろうというのは違います。一番近い人たち、自分をよく知っているし自分も彼らを知っていると思っている。だからこそ難しい、うまくいかないのが家族です。けれどもあきらめることはありません。時間をかけて本当の家族に「なっていく」のです。神は家族を変えることがおできになります。

聖書は家族の中にも、罪があることを示します。アダムとエバが主に背いたことから始まり、せっかく授かった息子カインは、自分の兄弟アベルをねたんで殺してしまいます。父の祝福をめぐって兄弟エサウとヤコブは別れ、ヨセフ12人兄弟の確執、王位継承の問題からダビデは息子アブサロムに命を狙われる身となるなど、挙げればきりがありません。放蕩息子のたとえもです。しかし彼らを通して聖書は、すべての家族が主によってあるべき姿に造り変えられていくし、主はどの家族をもお見捨てにならないと教えてくれます。聖書は家族という目の前にある存在、自分が罪人であることを隠せない人たちを通して、神に出会い、悔い改め、赦しに導かれるようにしてくださいます。 

 

2.信仰によってすべての人が、神の家族とされる。(50節)

家族は血縁や結婚などによって成り立つ、一番小さな社会の単位です。イスラエルの人々は家族を重んじていました。子どもたちの誕生と成長を神の祝福の命令と考え、安息日には親族が集まって過ごします。主イエスはこのような背景に生きている人々に対して、さらにすばらしい家族があることをお示しになりました。家族が話したいと外に立っていると伝えられると、主イエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」と言われました。そして弟子たち(マルコでは周りに座っている人々)を指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と語られたのです。これは実の家族を軽んじたのではなく、神の国の家族関係とは、信仰によるものだということです。

私たちは信仰によってキリストとつながるだけでなく、同じ信仰をもつ者たちと霊的な家族関係に入ります。この教会だけではなくすべての教会、天にある兄弟姉妹たちともつながって、キリストの体を形作っています。人は自分の力によって神の子となるのではありません。私たちは信仰によって、主イエスが長子である神の家族の一員に迎え入れられます。神の家族には人種や性別、立場などの壁はありません。

神の家族を考える上で重要なのが、ヨハネ19:25~27です。十字架の上で御子は、そばで見守る母マリアのこれからの生活と、霊的な支えに心を配られました。御子はこの世の家族を大切にされたのです。それと同時に、マリアを託したのは兄弟たちではなく、愛する弟子と呼ばれるヨハネでした。彼は主のお言葉を受け止め、マリアを家に引き取りました。

主イエスはなぜ母の今後をヨハネに頼んだのか。十字架の場所に兄弟たちがいたとは一言も書かれていない、そこに理由があるようにも思います。十字架に家族が近づくなら、身の危険があるのは明らかです。普通は恐れて近づけないし、兄が十字架につけられるのを見ているなど、とてもできなかったはずです。母マリアには特別に、そこに留まる力を神が備えられたとしか思えません。そしてヨハネもその時、母マリアとともに十字架のそばにいました。実の家族であっても、最も助けが必要な時に、いつもそばにいられるわけではありません。しかし苦難の時に主は、信仰の家族をおいてくださるのです。 

 家族とは居場所です。衣食住、一緒の時間をすごす、何かあった時に助けてくれる。どれも大切な家族の要素ですが、何よりも、自分がそのままでいられるところです。そこにいるために、何の理由も功績もいらない。神の恵みそのものと言える場所です。地上の家族と同じく信仰による家族である教会も、主によってこのあるべき姿へと回復されていきます。信仰の家族は、ともに主を礼拝します。神様って本当にすごいお方ですね、御言葉は力ですねと、ともに体験し語り継ぎます。

 家族は、お金を払ってサービスを受ける関係ではありません。自分ができることはして、難しいことは助けてもらってやっていきます。分かち合うことがうれしいし、ただ一緒にいたいからいるのです。初代教会の始まりは聖霊に満たされて、人々はこの関係に生きていました。神の命と愛が流れて、日々教会に加えられる人があったのです。同じ聖霊を受けている私たちもまた、主の喜ばれる姿に変えられることを願おうではありませんか。私の持つどんなものを分かち合うことができるでしょうか。目に見えるものだけでなく、時間やみ言葉を分かち合うこともすばらしいことです。

主はあなたにも、私の家族になってもらいたいと語りかけておられます。主の家族になるには、天の父の御心を行うことです。それは、神がお遣わしになった方である主イエスを信じることです。神の独り子主イエスを通してこそ、私たちは神の御心を知って行なうことができます。主イエスは私たちが神の子、神の家族になるためにこの世に来られ、十字架にかかってよみがえり、私たちを罪から救ってくださいました。主が私たちを兄弟姉妹と呼んでくださるとは、なんという喜びでしょう。

また信仰によって私たちは主イエスの「母」でもあるというのです。それは、次の人が神によって新しく生まれるために、「お言葉どおり、この身に成りますように」と御旨に従う者。若い世代の方を愛し、彼らも主の尊い器であることを覚えて、祈りによって送り出し支えていく者ではないでしょうか。長く信仰の道を歩み教会を支えてこられた先輩方を通して、私たちは育てられ、謙遜にまっすぐに信仰に歩むことを学びます。

母マリアと兄弟たちは外に立っていました。彼らはまだ、主イエスの言葉を神の言葉として聞いていませんでした。マルコ2:1~には、四人の男が病の中にある人を床にのせて主イエスのもとに来たことが記されています。群衆に囲まれて近づくことができませんでしたが、四人はあきらめることなく、主イエスがおられる家の屋根をはがして、床を釣り下ろしました。私には関係ないという視点からではなく、求めをもって御言葉に耳を傾けた弟子たちや群衆のいる内側に行き、自分事として主に出会うことが大切です。

母マリアと兄弟たちのその後はどうなったでしょうか。使徒言行録1:14では、主の約束を信じて使徒たち、女性の弟子たち、そして母マリアと兄弟たちが、心を合わせて熱心に祈っていたとあります。そして祈り続けた彼らに、聖霊が注がれたのでした。マリアと兄弟たちにも信仰の目が開かれ、家族であったイエスは神の御子救い主であること、よみがえり、天に昇り、今も生きておられることを信じたのです。

ヤコブはペトロやヨハネと並んで、初代教会の柱と目され、エルサレム教会の長老として重要な務めを果たしました。ヤコブの手紙は彼が記し、短いですがユダの手紙は兄弟ユダが書いたとされています。それぞれの文の初めには、「イエス・キリストの僕」ヤコブ、ユダとあって、確かな信仰に彼らが立てられたことがわかります。これは私たちにも起こることです。イエス・キリストは私の主、救い主だと誰かが知る時が来ます。そこに居合わせる人は幸いです。私たちは御名をあがめて喜ぶのです。

 

3.家族になる中で、ともに育てられる。(ルカ10:37,エフェソ4:16)

「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

家族になるというのは、隣人になることです。律法の専門家に「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねられると、主は善いサマリア人のたとえを語られ、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われました。隣人が誰か限定するのではなく、あなたが隣人になりなさいと。キリストの十字架はユダヤ人と異邦人、人と人との間の敵意の壁を取り壊し、一人の新しい人に造り上げ。両者は今や神の家族となりました(エフェソ2:14~)。神の家族はあらゆる部分が補い合い、分に応じて働いて自身を成長させます。家族ですから、皆がそれぞれの役割を果たしていくわけです。支える者が実は支えられ、育てられているのです。

新しく探しに行かなくても、すでに私たちの周りに、隣人を必要とする人はいます。これまで接してこなかっただけです。まずその人のために祈り、声をかけましょう。一緒にいて楽な人だけで固まっていることに気づいたら、そこから少し離れて、違うところに目を向けてみてください。一人でぽつんとしている方、帰ろうとしている方がいないでしょうか。

これまでいろいろな教会に行かせていただき、たびたび、ここに主がおられる、神の家族だなと感じることがありました。どうしてこんな私を喜んでくださるのだろう、と驚くほどに愛があふれていました。ほっとできて、失敗してもあたたかい。それはどの人に対してもそうで、誰をほめたたえることも軽んじることもせず、新しい人も当たり前のようにそこにいられる雰囲気がありました。交わりが閉じていないのです。礼拝が終わったらすぐにこの世のスイッチに切り替わるのではなく、み言葉のことも自然と話にのぼります。

 主イエスの周りには弟子たちがいました。それだけでなく弱い人(貧しい人、病人、こどもや女性)、罪人と言われた人(徴税人、異邦人)、主イエスを敵対視するファリサイ派もいました。みもとに来ようとする誰をも拒まないのが主イエスです。主はさまざまな理由で来られない人のところに、ご自身から会いに行かれました。主に従う私たちにもそれが求められています。

神は、私たちが愛し合う中にご自身を現されます。どんなに聖書の知識をもち伝道の技術に秀でていても、私たちが愛し合わなければ、人は主イエスに導かれません。神の家族である教会は、さらに加えて新しい人をこの家族に招く使命を持っています。私たちは主の家族が加えられるために奉仕する者なのです。

主によって新しくされると、心から、地上の家族に感謝し、愛せるようになっていきます。今一緒に生活している、あるいは遠くに住んでいる家族のために祈り福音を伝えましょう。その人の祝福と、主イエスを信じ救われるように。目に見える家族も霊的な家族である教会も、もっともっとすばらしい家族になっていけます。主が私たちをそのように変えてくださいます。

 誰かが苦しむなら、家族ですからつらい思いになります。具体的に力になれないことも多いです。けれども私たちは無力ではありません。その方また背後にあるご家族や友人と共に喜び、共に泣くのです。誰かが祈っていてくれる、一緒にいてくれる。それは大きな力です。私たちを通してインマヌエル、共におられる主イエスがわかります。私たちは万事が益となるよう共に働かせてくださる神を信じ、苦しんでいる方の癒しを、助けを、これからも祈ります。永遠の命の約束を見失わないように励ましあいながら。私たちはともに主を信じ礼拝する家族です。

 主が私たちを、あたたかく開かれた神の家族としてくださいますように。主が私たちにしてくださったように、つながり続け、分かち合い、条件をつけずに愛する者とならせてください。