
12月7日 降誕前第3主日礼拝
「キリストこそわたしたちの太陽」隅野徹牧師
聖書:詩編 19:1~15
画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)
Loading...
先週はアドベント礼拝でした。今日はアドベント第二礼拝、「降誕節第二礼拝」です。今朝、聖書日課の中から私が説教箇所として選んだのが旧約聖書「詩編19編」です。
ここの6節7節には「太陽」のことが出てくるのですが、この「太陽」と「クリスマスを12月25日に祝うようになった起源」に関係があるので、選ばせていただきました。最初にその話をさせてください。
聖書の中には、どこにもイエス・キリストが、12月25日に生まれたとは書いてありません。クリスマスが、12月25日に祝われた最古の記録は、西暦354年だそうです。もともと12月25日は、ローマの冬至祭が行われる日でした。「太陽が生まれる日」だと理解され、太陽神を崇拝するようなこともしていました。しかし4世紀ごろ、クリスチャンたちは「キリストこそわたしたちの太陽」として、この12月25日にキリストの誕生を祝うようになったのです。
このようにキリスト教は、異なる宗教の習慣を取り入れ、そこに新しい要素を加えながら、12月25日を「キリストの誕生を祝う日」としていったのです。
その背景には、今日の聖書箇所のように「大いなる力である太陽を神の被造物」として捉える「旧約聖書の理解」があります。そしてこの世を救うために来臨された神の独り子キリストを「太陽のような存在」として預言する聖書の言葉が根底にあるのです。
詩編19編はよく「自然啓示」つまりは「大自然から、創造主の業がみてとれる」ということを詠った箇所だと言われますが、それだけではありません。ここは「太陽のような存在としてのキリスト誕生の預言」がなされているのです。アドベント第二聖日のきょう、わたしたちも「太陽のような存在である主に感謝しながら」御言葉を味わいたいと願います。共に御言葉を味わいましょう。
詩編19編は前半の1節から7節で「太陽を含む自然啓示」がなされるのに対して、後半の8節から15節は、前半の内容を基にした「教え」がなされているのです。
まず前半の部分のうち1~5節前半を味わいたいと思います。ここは大切なので2~5節前半を私が朗読いたします。
ここでは「天」と「大空」とは違うものとして描かれています。当時、大空は天に張られている巨大な天井みたいなイメージで考えられていました。
このことを通して「神の被造物である大空を通して、神ご自身が声なき声を通して自らをあらわされる」と教えられているのです。わたしたちたちも、日常の細かい悩み事で、心が落ち込んでいるときこそ「大空を見上げて」みましょう。わたしたちの思いを超えた「神の御業、御心」が見えることもあるのではないでしょうか。
太陽のことが出て来る5節の中盤から7節はあとで見ることとし、後半を先に味わいたいと思います。 8~11節を目で追ってみてください。
前半部分の「神は被造物を通して、声なき声を通しても自らをあらわされる」と教えられるのですが、それだけではないことが教えられます。そうではなく神自ら「言葉を通してあらわされた」と書かれていますが、それが律法です。
律法は、厳しい戒律的なものというイメージが湧くかもしれませんが、決してそうではなく8節にあるように「神の知恵」という感じで「恵み」として語られます。とくに11節にご注目下さい。「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」とありますが、これは「律法の慕わしさ」をいっているのでしょう。
しかし、それでも私たち人間はみな弱く、罪深いため、律法を完全に守ることができません。そのことが12~15節でみてとれます。(ここを目で追ってみてください)
13節の後半に「どうかわたしを清めてください」という言葉がありますが、これはわたしたち全てに共通する心の叫びではないでしょうか。13節前半にあるように、わたしたちは「神の御心がわからず、知らず知らずのうちに犯した隠れた罪」があります。そして14節にあるように「驕り、いいかえれば神を神としない傲慢さ」があります。そのなかでも…わたしたちが犯しやすい何より大きな罪は「ことばによって人を傷つけ、神の栄光を汚す」ということです。15節の前半の「どうか、わたしの口の言葉がみ旨にかない」とは、わたしたち皆に共通する「心からの願い」ではないでしょうか。
しかし、神はそんな「律法を守ることができない、私たち一人ひとりのために」罪を清めることをしてくださるのです。これまで①わたしたちがいきていくために必要な大地や自然を与え、ご自身をあらわしてくださる神を見ました。そして②つ目、わたしたちに分かる文字という「律法」というかたちで、ご自身の御心を示して下さる神をみました。しかし!それだけでなく「御心を行えず、罪を重ねるわたしたちのために、罪をきよめてくださる神」のお姿を心に留めていただきたいと思います。
では5節の後半から7節をお読みいたします。
太陽は熱と力を放つものとして神が創造されたものです。7節の最後にあるように「その熱からだれも逃れられない」とあるように、近づきすぎることも、そして、その光と熱を浴び続けることができないのが太陽です。
その太陽が「まるで幕屋が設けられるようにして」遮られる時があるからこそ、地球上の生物は生きていくことが出来るのです。「昼と夜」があり、「夏と冬」があるからこそ、そして7節の最初の言葉にあるように太陽が「天の果てを目指して」回っているかのように、天体たちを規則正しく回しておられるのは神なのです。
旧約時代の信仰者たちは、このように「太陽そのものを崇拝するのではなくて、太陽を形作り、その動きに法則性を持たせておられる、全能の神」をこそ信仰したのでした。
その後、新約の時代となり、「世を照らす光」としてキリストがこられましたが、信仰者たちは旧約聖書に何か所も出て来る「太陽をつくられたのが、創造主である唯一の神」という信仰を引き継ぎつつも「新たに捉え直した」のです。
それが「神の独り子としてこの世に来られたキリストは、わたしたち人間の心を温かくさせ、そして心をきれいに清めてくださる太陽のようなお方だ」という思いに至ったのではないでしょうか。
だからこそ、「冬至に太陽を拝む」のではなく、「本当の意味でわたしたちに温かくさせ、きよめてくださるお方であるキリストがこの世に来てくださったことを覚える」ことを大切にしたのです。
クリスマスは、「神が、ご自身はどんなお方であるのか」を何よりお示しになっていると私は思います。それは…クリスマスには「独り子をお与えになるほどに、神はわたしたち一人ひとりを愛しておられる」ということがわたしたち人間に示されているということです。
このように「キリストこそわたしたちの太陽」という題で語らせていただきましたが、最後に関連する聖書箇所をもう一か所開いて、メッセージを閉じさせていただきます。
新約聖書P441をお開きいただけますでしょうか。ヨハネの手紙Ⅰ1章5~10節を読みます。
神は光であること、そして「神の光の中を歩くなら」キリストによって罪からきよめられるのです。
太陽の光を浴びないと、わたしたちの体が健全に保てないように、太陽のようなお方として来られた「イエス・キリストというお方にわたしたちの心を照らしていただなければ、わたしたちは健全に歩むことができない、ということをこの聖書箇所は教えていると私は理解します。
世の多くのひとがクリスマスをキッカケとして「キリストという光に照らされて、人生が変えられるように」わたしたちも祈り願い、そして証ししてまいりましょう。
(祈り・沈黙)
