「神からの言葉を授かる」1/18 隅野徹牧師


  1月18日 降誕節第4主日礼拝

「神からの言葉を授かる隅野徹牧師
聖書:エレミヤ書 1:4~1

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 今日の礼拝は、聖書日課の中から旧約聖書の預言書エレミヤ書の最初のところの「1章」を選びました。この箇所では「小さな自分がそれでも神の証し人として用いられる」ということがテーマになっています。

 先週木曜日の「聖書研究会・祈祷会」でエフェソ書3章を皆さんと読みましたが、その時にも「私たちが、自分なりの言葉でキリストの福音を周りの人々に伝えることが大切だ」ということを多くの方が感想として述べられていました。

 「わたしはパウロにはなれない。でもパウロが伝えることができない人に、私たち自身は福音が伝えられることができる」という感想だったり、「神の救いの計画について、わたしたちは全てが分かるわけではないし、理路整然とした説明ができるわけでもない。でも、自分がキリストによって罪から救われたということをありのまま語れば、そこに聖霊が働き、相手にキリストを証しする者として用いていただけると思った」などという感想が分かち合われ、私も大変感謝の思いをもったのであります。

エレミヤ書は「エルサレムがバビロンによって陥落する前後」の、暗黒の時代に書かれたものです。しかし、そのような「苦しい状況にあって」神を証しする者として立てられたのです。

わたしたち山口信愛教会も「信徒の減少、とくに信仰の継承が上手くいかない…という大変に苦しい状況」にありますが、その様な中にあるわたしたちへ語られたメッセージとして、この箇所を受け取っていただけたらと願います。

最初に今日の箇所の背景について、少しだけお話しさせてください。今日はエレミヤ書1章の「エレミヤが預言者として召命を受けた箇所」ですが、その前の1~3節がその時の時代背景を表しています。エレミヤが預言者としての召命を受けたのは、ヨシヤ王の13年です。その頃、南イスラエルユダはアッシリアの支配下にありました。アッシリアは当時の中東世界を支配した大帝国であり、ユダ王国はアッシリアの属国のような感じで国の安全を維持していました。貢物を納めるだけでなく、アッシリアの神々を神殿に祭り、拝む…というようなことが横行していたのです。

しかし、アッシリアの勢力が次第に衰退し、代わりに台頭して来たバビロニア帝国いわゆる「バビロン」が新たな脅威となり始めたのです。戦争の危険がユダの平和を脅かす…そのような時代にエレミヤは預言者の召命を受けました。

そのエレミヤの召命の出来事が4節以下です。4節と5節を読んでみます。

神は、エレミヤに対して「あなたを母の胎から生まれる前から聖別していた」と語られています。しかし、これは「エレミヤ」だけ特別なのではありません。ここにいる私たちも同じように「神から聖別された命なのだ」と捉えていただけたら幸いです。  

召命とは、「自分が神によって生かされ、使命を与えられている」ことを知る出来事です。

もともと神は「私たち一人ひとりに対して用いようとされと計画をお持ち」なのですが、その「計画にはっきりと気づかせていただける時」、私たちは「神と共に歩もうとする」新しい旅立ちができるのです。

続いて6節をご覧ください。

エレミヤは召命を受けますが、預言者として立てられることをためらいます。理由は「若くて、経験不足、語る言葉を知らないから」というものでした。そんな自分が預言者となって「王や指導者に意見を述べる」ということはとてもできないとおもったのでしょう。

しかし神はエレミヤにこう返されます。「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」

「私があなたと共にいて、必ず救い出す」と神は約束されるのです。だからこそ、あなたは語ることができるのだと神は励まして下さるのです。

 そして9節、「見よ、私はあなたの口に、私の言葉を授ける」と仰るのです。預言とは先のことを予め語る意味でなく、神から言葉を預かるとの意味です。霊を吹きこまれて、預言者エレミヤは「自分の言葉や思いを語る者」から、「神の言葉を告知する者」に変えられ、苦境の中で、それでも「神を証しする者に変えられた」のです。

さて最後の10節をご覧ください。エレミヤに与えられた使命は諸国民に対する預言です。それは「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」と言われます。

「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」とは、これからバビロンによる軍事侵略があるという意味です。エレミヤ書のこのあとの箇所には「災いが来る前に、悔い改めよ」とエレミヤが繰り返し語った様子が記されていますが誰もエレミヤの預言を聞こうとはしません。しかし、悔い改めた民には慰めが、予めエレミヤを通して回復の預言が語られました。それが、「あるいは建て、植える」という言葉です。

 エレミヤの時代、民たちは「豊穣の神など偶像崇拝」にはまり、神からの「悔い改めて、正しい道を歩みなさい」という厳しい言葉に対して耳を傾けませんでした。まだ経験の浅い、若い預言者が「悔い改めと招きの言葉」を託されたのです。

 エレミヤの気持ちになってみましょう。

「簡単ではないから、伝えたくない…」そう思って当然だと思われるのではないでしょうか。

しかし!今日の箇所は大切なことを私たちに教えるのです。神は「自分だけで語りなさい」と命じておられるのではないのです。経験不足で、欠けもある、そんなエレミヤと共にいて、そしてもちろん「ここにいる私たち」と一緒になって「多くの人を罪から救い、ご自分に倣う生き方」に導こうとしてくださるのです。  

弱い私たちに対し、「私と一緒に愛の業をなしていこう」と勧めておられるのです。私たちに託された「神からの使命」は楽にできる者ではありません。でも神はわたしたちに丸投げなのではなく「いつでも共にいて下さり」「わたしがあなたがたを立てたのだよ」といつでも声をかけてくださるのです。

こころ新たに「主の業」を共に担わせていただきましょう。

 最後のまとめに、今日の中心箇所である7節、8節に関連した自分の証しをお話しして閉じさせていただきます。

 7節と8節を改めて読ませていただきます。

先週も、私が大学時代に加入していた「KGKキリスト者学生会」の話をしましたが、実は今日の箇所も私がクリスチャンになりたてだった大学生のときの「忘れられない御言葉」なのです。

大学三年生の時の私は、洗礼を受けてまだ2年しかたっていない経験不足ながら「他の3人の学生」とともに、学生代表の「運営委員」という重い務めに就かせられました。その最初の仕事が「1年の活動標語と、その標語聖句を考えてくる」というものでした。私が何を選んだかは覚えていないのですが、同じ大学の同じ年の女子学生が、このエレミヤ書1章4節以下、つまり今日の聖書箇所を選んできたのです。

その子とは日頃、「見たドラマの感想や、好きな音楽の話」ばかりしていましたが、その子が「エレミヤ書」を選んできたことに対し大きな衝撃を受けたのを今でも覚えています。

当時の私は「エレミヤ書が聖書のどこにあるのか」さえ分かっていませんでしたが、

今どきの「普通の大学生」に見えていたその子が「しっかりと聖書を読んでいたこと」を見て、刺激を受け、それから旧約聖書を少しずつ読むようになったのでした。

そして肝心の標語は7節8節から取ったのを覚えています。「若者に過ぎないと言わず、主と共に一歩前へ」奇しくも、この標語を決めた直後に「オウム真理教のよる数々の事件がおき」、クリスチャン学生の伝道に対して「強い拒否」だったり「危険人物よばわりされたり」と色々大変でした。しかし、神から与えられたこの「エレミヤ書1章」の御言葉に励まされ続けました。今振り返ってみると、状況が悪い中でも「大学生たちのなかで、自分の言葉でキリストの救いの恵み」を語ることができたと感じます。

2026年の山口信愛教会には、そこまでの逆風はないと思います。確かに宗教に対する警戒感だったり、信仰を持つことを馬鹿にするような空気はあるでしょう。でも、今年度だけで80人を超す新来会者が来てくださっているのです。私たちが神の福音を語る相手とは、たくさん出会わせていただいているのです。

あとは「経験がないので、証しする言葉がない」という恐れの気持ち、恥ずかしい気持ちのなかで「神が共にいて下さる」ことを思い出すことではないでしょうか。「神・キリストとともに生きる幸い」をご自分の言葉で証ししてみてください。

(祈り・沈黙)