「御言葉を聞いて受け入れる人」2/1 隅野徹牧師


  2月1日 降誕節第6主日礼拝・聖餐式

「御言葉を聞いて受け入れる人隅野徹牧師
聖書:マルコによる福音書 4:1~9,13~20

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 聖書日課から選んだ今日の説教箇所ですが、多くの方が「すでに話の展開をご存じの箇所」だと思います。 少し前に、私はノンクリスチャンの友人と聖書の話をする機会が与えられたのですが、その友人が、話の流れの中で向こうから「この種まきの譬え」の話をしてきたぐらい、有名な箇所です。

どんな風に話してきたかというと…「キリスト教はなんでもかんでも神任せにしないところがよい。聖書の種まきの譬えは、きく側がどんな態度でいるかによって、結果がちがうことを教えている。そういう相手に考えさせるところがキリスト教の良さだと思う」という内容ですが…さっと、ここの箇所がノンクリスチャンの人に思い浮かぶぐらい、馴染みの箇所なのかもしれません。

私も、聖書を真面目に読み始めた大学生時代から、何度もこの箇所を読み、またこの箇所を題材にした説教を聞いてきました。大体こんな説教・メッセージが語られることが多かったように思います。

石だらけの所に蒔かれるとは、16、7節にあるように、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で苦しいことが起こると、すぐにつまずいてしまう」ということを表している。わたしたちの信仰も、深い所でしっかり神様につながり、いつも神様からの養いと導きを受けていなければ続かない、ということを覚えていましょう。

そして茨の中に蒔かれるとは、18、9節にあるように、「御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」ということです。この世の快楽に心が覆われてしまっていると信仰は育ちません。わたしたちにとっての「茨」となっているものを刈り取って、神の言葉が芽生え育つ場所を確保することを考えましょう。

私たちはよい土地となって「神の御言葉」による実りをもたらすために「御言葉を素直に聞く耳をもって、柔らかい心を持つものにならなければいけない」…そのような感じのメッセージを何度も聞いた気がします。

皆様はいかがでしょうか。

しかし「自分はこの良い土地になかなかなれない」とか「聞く耳はもっているつもりだが、実りなど何ももたらしていない気がする」などと思われている方はおられないでしょうか?実は私もそんな疑問を少し前から抱くようになっていました。

イエス・キリストはたくさんのたとえ話によって人々を教えていかれましたが、それは「人生訓や処世術ではない」ということをここ数年強く思うようになりました。この箇所も同じだと思うのです。「聞く耳をもちなさい」ということのためだけに、譬えを語られたのではなく、もっと大切なことを教えるために「種まきの譬え」を語られたのではないか、ということを強く思うようになりました。

イエス・キリストは「わたしたちに何を伝えるために」この譬えを語られたのか、残りの時間、そこに注目してメッセージを語りたいと願います。

わたしは今回、メッセージの準備をしていて8節がとくに目に留まりました。

「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。

一生懸命に種を蒔いても実にならないことの多い私たちの現実とはちがって「三十倍、六十倍、百倍の実りが与えられる」とあるのです。

その種を実らせる「良い土地」とは何なのか…「ただ聞く耳をもって、心を柔らかくするだけで」百倍の実りをもたらす土地に、私たちは成れないのではないか…そんなことをこの箇所を読んでいてふと感じたのです。

さて、13節以下でイエス・キリストは「この種まきのたとえ」の解説をしておられますが、14節に鍵となる言葉が出ます。それが「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」という言葉です。三十倍、六十倍、百倍の実りを生むこの種とは、神の言葉なのですが、それは「聖書にかかれた具体的な教えの数々」という意味を超えているのではないか、とわたしは気づかされたのです。

極端な話になりますが、いくら聖書の言葉を「知識的、学問的に」たくさん蓄えていても、あること抜かしてしまえば「百倍の実りをもたらす」ことはないように思います。

神にあって「豊かな実りをもたらすために、私たちが抜かしてはならないもの…」それは「イエス・キリストを自分の救い主だと信じるその思い」なのではないでしょうか?

もっとはっきりと言えば「イエス・キリストの十字架と復活の恵みに、自分も与りたい」という思いを持つことがないならば、聖書が教える豊かな実りはないと言い切れると確信します。

この種まきのたとえで「種が蒔かれるとは、神の言葉が語られ、聞かれること」だと教えられますが、蒔く人は「神ご自身」であり、「神の言葉」として蒔かれる種とは「キリストご自身だ」と私の胸に迫ってきたのです。

有名なヨハネによる福音書1章14節「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」という言葉と、「種まきのようにして、神の言葉がわたしたちのところへ届く」という今回の箇所の内容が、重なりました。

神の言葉である「種がまかれる土地」とは私たち人間一人ひとりを表しているのはいうまでもありません。神の言葉としてこの世に来てくださった、私たちの間に宿られた救い主イエス・キリストをどのように受け入れるかによって、大きな違いがでるということなのではないでしょうか。

15節では、「神の言葉である、キリスト自身が来られても、その人が踏み固められた道端のような心でイエスに向き合うとすれば、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」、つまりは「心の中に全く入っていかずに失われてしまう」ということが起こってしまうことが教えられます。そして16、17節では「神の言葉であるキリストが来られても、石だらけのところのような心でキリストと向き合うならば、根が張っていないのでだめになってしまう」ということが起こりうることも教えられます。

18節、19節には「神の言葉であるキリストを一旦は喜んで受け入れても」、茨が生えているような土地のような心であれば、「色々な欲望が心に入り込み、キリストに向き合うことを妨げてしまうので、実りにならない」ということが語られます。

はっきりいって、わたしたち一人ひとりは、ここまで出てきた「神の言葉であるキリストを迎えられない、実をもたらすことができない悪い土地のどれにも当てはまるのではないか…」と思われるのではないでしょうか?私も正直にいってそうです。

でもここで終わらないところがこの話の「ミソ」だとおもうのです。「良い土地になることなど到底できない」「神の言葉として私たちの間に宿って下さった、キリストをよい状態でお迎えできない」そんな私たちが集まったこの世の中でも「神の言葉の種は、30倍、60倍、100倍の実をもたらすのだ」という希望が、イエスご自身によって語られているのだ!ということに希望を持っていきましょう。

 メッセージのしめくくりに、もう一か所、私がこの箇所と強く結びつくと感じた箇所を開いて、その言葉を味わってメッセージを締めくくりたいと思います。

 その箇所とは、12月に天へ凱旋された山田雅子姉の愛唱聖句であるヨハネによる福音書12章24節です。

 皆様、新約聖書のP192の下段をお開きいただけますでしょうか。

 24節だけでなく、前後の箇所も読みます。23節から26節を読んでみます(※よむ)

 地に落ちて多くの実を結ぶ種。それが「十字架の上で死に、わたしたちの罪を贖い、その後復活されたイエス・キリストご自身である」ことがこの箇所からはっきりと分かります。

 キリストという種は「落ちて死ぬことで」多くの実を結ぶのですが、そのためには「土地」が必要です。それは「道端」ではなく「石がごろごろしている土地」でもありません。もちろん「茨が生い茂っている土地」でもありません。

 そうではなく、「種であるキリストと一体となろうとする土地」で、種は死に、そして新しい命がうまれ、実がなるのです。

言い方を変えれば、「キリストの生き方に従って生きようとする者」の命の上で、キリストという神の言葉は生きて働き、永遠の命という「豊かな豊かな実りがもたらされるのだ」ということが今回強烈に私へ示されました。

自分が良い土地であろうとして、努力するというよりも、まずは「種と一体になろうとすること」を大切にしましょう。キリストの死と一体となり、そして「まるで土の中で発芽が起こるように」復活の命と一つになりましょう。この後行われる聖餐式はまさに「わたしたちが、十字架で死なれ、復活された、キリストと一つにされていることを想起するため」のものです。

わたしたちを愛するがゆえに「天の父なる神」が「言葉であるキリストという種を蒔いてくださった恵み、つまりはキリストを、「インマヌエルの主として」いつでも遣わし続けてくださっていること」を覚え、わたしたちを通して少しでも「神の業がおこり、永遠の命という実り」がなるように祈ってまいりましょう。(祈り・沈黙)