「ゆだねられた良いものを次の世代へ」2/15 隅野徹牧師


  2月15日 降誕節第8主日礼拝

「ゆだねられた良いものを次の世代へ隅野徹牧師
聖書:テモテへの手紙Ⅱ  1:3~14

開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今日の説教箇所として選んだテモテの手紙Ⅱの最初の部分です。この聖書箇所は、パウロが手紙をおくっている「テモテ」に対して、「あなたの信仰がおばあさんのロイスから引き継がれ、豊かに育ったことを感謝していますよ」と伝える内容となっています。

最近とくに感じることが多いのですが、人間は「自分の能力や努力だけで生き抜いていける」のではありません。まわりの人から「育ててもらって」生きていけるのですが、とくに親や祖父母からたくさんのよいものをもらい、それによって今の自分があることを感謝せねばならない…ということを思います。

家族や友人関係の祝福を与えてくださっているのは「創造主である神」に他なりません。神を通して「まわりの人々に感謝すること」は、これからの教会の形成を考える時「大切なポイント」であると理解します。

「個人化」が進む世の中にあって、キリスト教界もその影響を受けつつありますが…しかし「信仰生活は到底一人だけで育めるものではない」ということ聖書は根本的に教えます。今日の箇所もそうです。これからのひととき「神にあって、よいものを他のひとから受け継がせていただいたことに感謝する」ということを考えながら、御言葉を味わっていただければ幸いです。

最初に少しだけ「テモテとその家族」についてお話しさせてください。

テモテは、パウロのすこし後に「誕生まもない、異邦人教会の教師となった人」なのですが、初めて登場する使徒言行録16章によると、父はギリシャ人、母は「ユダヤ人だった」ことが書かれています。そして今回の箇所では、テモテにとって「祖母にあたるロイス」もクリスチャンだったことがわかります。聖書が書かれた時代には珍しい「三代にわたるクリスチャン一家」だったことが分かるのです。

今の日本でも「神様」という言葉が、簡単に飛び交い、「聖書の教える神さまについて」簡単には人に説明できない…と感じることが多いのではないでしょう?

しかしテモテの頃はまだ「新約聖書のない時代」です。「神が唯一の方であること」そのお方が「世界の全てを創造され」そして「人間を罪から救い出すために、キリストをこの世に送ってくださった。十字架で罪の贖いをして下さった後、復活して永遠の命へつながる道を開いてくださった…」そのことを伝えるには「今よりも何倍もの苦労があった」と予想できます。

そんな中で、テモテは「先生役だったパウロから」そして母や祖母からよいものを受け継いだ。だから「その信仰のルーツ原点に帰りなさい」と最後の13節、14節で教えられます。

さてテモテの家族では「神はどんなお方であるのか」をどんな言葉で大切に語り継いだか」が、今回の箇所の10節から12節であらわされていると理解できます。ここを読んでみます。

ここで書かれている「イエス・キリスト」がどんな方か、という言葉…それはテモテの家だけのオリジナルというよりは、初期のクリスチャンたちが「自分の子孫にキリストがどんな方なのか」語り継ぐ際に用いた言葉だとされています。

10節では「神がおくってくださった私達の救い主キリストは死を滅ぼし、永遠の命を現わして下さる方だ」ということです。そして12節では「永遠の命へと移される日」つまりは「天へと召されるその日まで」守り導いてくださるお方だということです。 

全ての人間はいつかこの地上での命を終える時がきます。しかし、クリスチャンは自らの死に絶望することはない!ということが次世代に語り継がれたのです。

それは神の独り子イエス・キリストが「私たち一人ひとりのすべての罪を背負って十字架で死んでくださった」その後、復活された…そのことが「信じる者には、命と不滅の命が与えられる」ことだと明らかにされたからです。

クリスチャンは、地上での生活だけに目を向けて生きるのではなく、神から与えられた使命を全うできるよう、天の御国に目を向けつつ日々を歩むようになるのですが…それこそが、「次世代に語り継いだ、生きた希望」なのです。

しかし、最近私がよく感じることですが「永遠の命」は「キリストを救い主として信じさえすれば簡単に得られるもの」ではないことが、今回の箇所にも表されています。

8節をご覧ください。キリストを信じる歩みには「苦しみや忍耐」が必ず伴うものです。「楽なまま、わがままし放題」では天国には行けないのです。だから9節にあるように「神の聖なる招き、恵み、そして神が私たち一人ひとりに対してもっておられる計画」を心から受けて、苦難の中でも「神が共にいて下さる」ことを信じて歩むことが大切です。

最後にメッセージ締めくくりとして前半の3~7節を見ます。

このときテモテは「苦しみの中」にあったことが分かりますが、使徒パウロはどのような言葉でテモテを励ましたのでしょうか。読んでみます(※よむ)

5節には、テモテが「3代にわたる信仰継承で大切なものを受け継いでいる、心に宿っているのだ」とパウロは言います。 そして6節7節では「その受け継いでいるよいものを、再び燃え立たせなさい」と勧められています。

パウロが言わんとしていることの中心は「おくびょうになってはならない」「涙を流してはならない」ということではありません。そうではなく「あなたは一人ではない!」ということが中心だと私は思うのです。

「あなたの信仰はあなたの努力で宿ったものではない。お祖母さんやお母さんの祈りと愛によって育てられたことを確信している」とパウロは言っています。

代々のクリスチャンは周辺のいる一人一人の協力に目を留めること、そして「その方たちとの出会いを与えられた神に感謝すること」を大切にしてきました。そのことによって「わたしはひとりで生きているのではない。出会いの与えられた方々とともに生きている」ことを実感するのです。

そのようにして「苦難のなかで」天を見上げて歩むことができることを覚えましょう。

そしてもう一つの大切なことを覚えましょう。それは「わたしたちには、大切なことを伝える、そして受け継ぐ大切な役割がある」ということです。

歳を重ねると大きな仕事、目に見える働きをすることが次第に難しくなります。身体的な衰えもやってきます。信仰を継承する、ということのために、「直接口で伝える」ことはやった方がいいことは間違いありませんが、それも「思うようにできない」ことがあるのかもしれません。

しかし、そこで終わるのではない、ということが今回私には黙想をする中で強く示されてきました。 私たちはこの地上にいる間も、そして天にいってからも祈りの器として用いられるのではないでしょうか。身体が動かなくなった方ほど、そして「相手と簡単に会えないときほど」祈りは深くなるとよく言われますが、「祈ることで、相手を支える器」として永遠の命を生きるものとされる、ということが希望として与えられている、そのように私は思います。

テモテの祖母にあたるロイスがどんな生涯をおくったのかは正しくは分かりません。この手紙が書かれた時点で「地上の命を生きていたのか」も分かりません。しかし私はロイスが天に昇ってからもテモテの働きのために、また世々の教会のために一生懸命祈ったのではないか…ということが思い浮かんできました。

その祈りがテモテの活動の裏でどんなにか用いられたか、そのことを聖書は教えています。

信仰を持って生きるということが簡単にできる時代ではありません。クリスチャンとして神のみ旨に生きようとすれば必ず「困難」はあります。けれども私たちはひとりぼっちでその「困難」を乗り越えるのではない、ということを今回の箇所は教えている…そのように心に刻んでくだされば幸いです。

わたしたちは、父母や祖父母から、あるいは信仰の先輩から「キリストによる永遠の命の希望」を受け継いでいます。その希望は、困難の中にあって「わたしたち一人ひとりを支えることができる」こと、「ひとりではない、祈りによって支えられているのだ」ということを思い出せる力になると信じています。

(祈り・沈黙)