
3月15日 受難節第4主日礼拝
「これに聞け」 隅野瞳牧師
聖書:マルコによる福音書 9:2~10
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本日は、主イエスが弟子たちに栄光の姿を現されたことについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.天の現実を見せるために、主は私たちを招かれる。(3節)
2.旧約の時から、神は御子による救いを計画しておられた。(4節)
3.十字架に向かうキリストに聴き、従う。(7節、8:34)
1.天の現実を見せるために、主は私たちを招かれる。(3節)
「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(2~3節)
本日の箇所には高い山の上で、主イエスの姿が変わったことが記されています。それを見たのは弟子たちのうちのペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。高い山の上というのは非日常的な空間、聖書では神と出会う場です。内容は8章から続いています。主イエスが弟子たちに、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになると弟子たちは、洗礼者ヨハネやエリヤなど偉大な信仰的指導者だと言っている、と
答えました。それでは弟子たちはどうかとお聞きになると、ペトロは神によって「あなたは、メシア(救い主)です」との告白が与えられました。
その後主イエスはご自身が祭司長や律法学者たちによって殺され、三日後に復活するとお話しになりました。ペトロが「主よ、そんなことがあってはなりません」といさめると、主イエスは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とお叱りになりました。そして、ご自身が十字架に向かわれること、自分を捨て、自分の十字架を背負って従いなさい、そこにこそまことの命があるのだと言われました。
それらの出来事から6日の後のことです。主イエスは御父との交わり、休息、使命を確認する時である山の上の祈りの場へと、三人の弟子たちを連れて登られました。すると主イエスの姿が変わり、天でのお姿があらわされました。さらし職人も及ばぬほどに白いとは、面白い表現だなあと思います。日本では綿が一般的ですが、イスラエルでは主に羊毛を洗い、漂白し、繊維にする技術を持つ人だったようです。当時の最高峰の白さ、清さを表しますが、それをはるかに超える、この世にはない輝きが表されています。
弟子たちが、主イエスの天でのお姿を見せていただいたのは、何のためだったのでしょうか。それは、これから彼らを通して教会が建てられ、それは苦難を通らねばなりませんが、必ず復活につながっていることを示すためです。全能の主がすべてをご支配なさっていることを信じ、御言葉により頼んで進むためです。
主イエス・キリストは、まことの神でありまことの人となられた方です。御子はもともと、霊なるお方として天におられました。私たちを罪から救うために人となり、へりくだって十字架に死なれましたが、御父は御子をよみがえらせ、高く挙げられました(フィリピ3:6~10)。主イエスが病を癒し、貧しい者やさげすまれている者を招かれ、十字架にかかってくださったこと。これ以上に大きな愛はありません。しかし御子がただの人間であったならば、その死によって、人が根本から造り変えられることはありません。しかし私たちが信じる主イエスはよみがえられた方、神です。だから私たちを救うことができるのです。罪がどれほど恐ろしい力を持つかをご存じで、その死に打ち勝たれた全能の主なのです。
よいカウンセラーは過去や現在の悩みを聞くだけでなく、未来人なのだと読んだことがあります。相談する方の未来を見てきたかのように、その方の可能性、回復への道筋を示すことができるのです。それ以上に神は、私たちに天の現実を見せてくださいます。普段は気づかないけれども、必要な時に私たちを備えさせるために、神は御言葉によってご自身の栄光、復活の希望を見させてくださり、やがて私たちも完全にその恵みにあずかることを約束してくださいます。それは私たち自身、また主に従う中で苦難を通る次の方々のためです(Ⅱペトロ1:16~19)。主イエスがすべてを御手のうちに導き、勝利してくださる方であると信頼いたしましょう。
私たちにとって山の上は、日常を少し離れて神の前に信仰の友と出る礼拝です。一人では耐えられない苦しみだからこそ、友がいるのです。主が復活された日曜日ごとに集められて、私たちは復活の主、全能の主、聖なる、愛に満ちた主の御前にひれ伏します。賛美をささげ、御言葉に力づけられて、私たちは主の御心を行うために、それぞれの日常に遣わされていくのです。
2.旧約の時から、神は御子による救いを計画しておられた。(4節)
「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(4節)
主イエスとともに預言者エリヤと、神の律法をイスラエルの民に伝えたモーセが現れました。「律法と預言者(と詩編)」とは、旧約聖書全体を表す言葉です(マタイ7:12、ルカ24:44)。
なぜ弟子たちはエリヤとモーセがわかったのでしょう。おそらく天においては、この人が誰かと教えられなくても、わかるようになるのだと思います。いつか私たちもモーセやパウロ、顔を知らない信仰の先輩たちにお会いして、お話ができるのだと思うと楽しみです。ルカ9:31の並行箇所では、主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期、十字架と復活について、彼らが話していたとあります。これはイエス・キリストこそが、全ての歴史を通して神が約束された救い主であり、聖書全体も一貫してキリストの苦難と栄光、神の救いのご計画を示していることを意味します。主イエスの十字架と復活は突然起こったのではなく、神の確かなご計画の実現です。
神は準備する方です。私たちも小さな準備をしますね。たとえばうどん会をするなら、注文をして代金をお支払いし、ねぎを切ったりだしをとったり、うどんを湯がいて盛り付けたり。今食べたくなったからいきなり30食を出してと言われても無理ですよね。前々からの心配りと労苦があるからこその一杯です。
大切なことほど、長く入念な準備がいります。神の御子が人となり、十字架にかかってよみがえり、救いを成し遂げられるには、どれほどの備えが必要でしょうか。あらためて考えますと、なんと驚くべきことを神はなしてくださったのかと感じます。神がこんなにも備えてくださったのは、私たちを愛しているからです。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1:4~5)初めてこの御言葉に出会った時、衝撃を受けました。私の存在どころか、この世界が始まる前から神は私たちを愛し、救おうとご計画されていたとは。聖書を読む時に、神の目線というものを知ります。その中で世界や私を見ると、このあたたかなまなざしの中で、自分をせいいっぱい生きようと、与えられた今日に感謝し、人の幸いのために仕える者となるのです。
神はただ事業計画をして実行したのではなく、私たちを愛されました。ですから私たちは教会のことも家族や職場のことも、誰かの救いと喜びのために準備するのです。「水をくんだ召し使いたちは知っていた」
(ヨハネ2:9)今度は主とともに準備に携わり、お客さんの時には知り得なかった、救いの歴史に驚き、恵みを味わいましょう。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはエリヤのため、もう一つはモーセのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、わからなかった。」(5~6節)
ペトロはこの場に圧倒され、興奮して、主イエスとエリヤとモーセのために、仮小屋を建てましょうと言いました。自分が信じて従って来た主イエスが今、栄光に輝く姿で目の前におられるのです。それはこの上ない喜び、感激です。ああ、このお方についてきてよかったと。やはり主イエスは栄光に満ちた力ある神の子であられるのだと。大切な客をもてなしたい、このすばらしい状態がずっと続いてほしいという思いがあったのでしょう。私たちも特別な伝道会などで、すばらしいメッセージや演奏をいただき、ともに交わり賛美する喜びをいただきます。日曜日の礼拝も特別の恵みがありますね。しかしそれが終わって普段の生活に戻ると、恵みが消えてしまったように思うことはないでしょうか。
3.十字架に向かうキリストに聴き、従う。(7節、8:34)
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子、これに聞け。』」(7節)
すると神の臨在を現わす雲が彼らを覆い、主イエスが神の愛する独り子であることが宣言されました。「これに聞け」とは「主イエスに聞き従え」という意味です。イエスの洗礼、宣教の始めにみ声をもって励まされた御父は、エルサレムへ十字架の道を歩もうとされる御子に再び声をかけられました。そして弟子たちに、主イエスが神の子であると宣言なさったのです。その愛する子を神は、罪深い私たちのもとへとお遣わしになりました。御子の側でも、御父を心から愛して、救いのご計画に自らお従いになりました。
主イエスに聴く…主が六日前に弟子たちに言われたことは何だったでしょうか。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。
弟子たちは主イエスが「栄光の救い主」であるはずだと思っていました。主イエスについていけば、やがて王となられた時によい地位につけてくださるだろう。そしてローマの支配から解放し、ダビデ・ソロモンが治めていた時のような、力ある豊かな国を実現してくださる。そうペトロを代表する弟子たちは考えていたのです。主イエスがモーセやエリヤと話し合っているのを目撃したペトロは、仮小屋を三つ建てましょうと言いますが、これもまた「栄光の救い主」だけを見ている状態です。自分たちだけが恵まれて、平安ならばよい、苦しんでいる人がいるという現実を見たくないということです。
しかし主がご計画された神の国は、ご自身を信じる者が救われて教会が生まれ、キリストが歩まれたように現実のただ中で歩むこと。痛みをもって愛し合う中にあるのです。「誰かがやってくれる」という他人まかせではなく、一人ひとりが聖霊によって造り変えられて、自立した信仰者となるように。キリストは何の罪もないのに、私たちの罪とその裁きをご自分のこととして耐えがたく思い、担ってくださいました。
私たちが自分の十字架を負うとは、主を信じ宣べ伝えるゆえに、負うべき重荷です。それは人それぞれですが、いずれも「わたしではなく、主が何を願っておられるか」を問うものです。与えられた責任を果たすこと、人の痛みや重荷を自分事にすること。大切なのは、キリストのためにその道を歩むと自分で選び、従っていくことです。労多く、くやしい思いや悲しみ、恐れもあることです。けれども主が先に歩まれた道です。そのみ跡を私たちはお従いしていきます。主に信じ従う者は必ず十字架を通りますが、主とともによみがえります。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ2:19~20)と喜んで証しする者にならせていただきましょう。
気がつくとモーセとエリヤはいなくなり、イエスだけがおられました。彼らは天に生きる者であります。いつもの風景に戻り、主イエスももとのお姿に戻っておられました。大切なのは、主イエスは地においても変わらず、今の弟子たちとともにいてくださるということです。
「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(9~10節)
このような特別な体験をした弟子たちに、主イエスは口止めをなさいました。復活の時が来るまでこの三人の中だけで、分かち合うに留めなければならないのです。それは十字架と復活を経なければ、この出来事の本当の意味がわからないからです。これほどの体験をしたら、自分たちは特別なのだと誇りたくなるでしょう。しかし御子の神のご性質が示されたのは、主がこれからお建てになる教会、その土台となる者として、彼らがローマやユダヤ人からの迫害に耐え福音を宣べ伝えるためであったのだと思います。
主イエスの栄光のお姿について語ってはならないのは、主イエスの復活までであって、それ以降は、大いにそれを語ってよいのです。人の子が死者の中から復活するとはどういうことだろう、と祈りのうちにあたためながら待ち、時が来ると彼らは新しくされて、恐れなく語り出しました。主の復活の後、彼らは禁じられても迫害されても語り続け、今私たちにも福音が伝えられているのです。
復活の主にお会いした方はぜひ、ご自身の信じる主がどのようなお方かを伝えてください。そしてこれから主にお会いする方は、その時が来ることを待ち望み、まだわからなくても御言葉を心に留めて思いめぐらしてください。
私たちはそれぞれ自己中心や憎しみ、弱さという本当の姿を持っています。しかし主イエスは違うのです。むしろ本当のお姿を知れば知るほど、そのすばらしさに驚き、ひれ伏し、主を信じてきてよかったと喜びにあふれます。主イエスは私たちのすべてをご存じの上で、救ってくださる方です。そのままの自分で神に立ち帰り、あなたを信じますとお迎えする時に、私たちは罪から救われ神の子とされます。私たちは内側から新たにされ、この栄光の主のお姿へと、愛そのものである方のように生きる者へと変えられていきます。この主をお一人おひとりが心に受け入れ、それぞれの場所で主に従って歩むことができますように。
