6月17日説教
「イエスの救いは私の思いを超えて」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書 ルカによる福音書8:40~56
主イエスが会堂長ヤイロの家に向かう途中、ヤイロの娘の訃報が伝えられました。しかしこれを聞いた主は会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と、まるで彼の代わりにご自身が信仰を言い表すかのように語られました。主は娘の両親と三人の弟子以外を外に出し、娘が安置されている場所に入りました。主は今、非常に重い死という現実に向かわねばならない両親を守られます。この事実に向き合い、よみがえりの主に引き上げていただくしか、ここを越えることはできないからです。主が娘の手を取り呼びかけると、娘は起き上がりました。両親が主を信じた告白は書かれていませんが、主は両親の無言の叫びに信仰を見てくださったのです。主の御言葉は、私たちが「これがすべて」と考えている現実を、超えます。再び目を覚ますという確信があるゆえに、主は「彼女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。命と死を超越する主イエスにあっては、死はこの世から永遠の命の世界への眠りです。それは一時的なもので、再臨の日には朽ちない神の国を受け継ぐ体によみがえります(Ⅰコリ15:17~20、Ⅰテサ4:13~17)。
永遠の時間の中ですべての被造物にとっての幸いを、神は行われます。そして同時に私たち一人ひとりを、まるで世界に私しかいないように、命がけで愛してくださいます。それが御子を人としてこの世に送り、十字架にかけ、復活させて私たちを救うというご計画です。何者も十字架の愛を阻んだり私たちを絶望に陥れることはできません。そればかりか、私たちをより強く主に結びつけるものに変えられます(ロマ8:31~39)。死と死を超えて生きる復活は、私たちの力尽きる時に、理解するというより鮮やかに見えるものとして、私たちに現されます。私たちは主の前に、何一つ飾ったり隠す必要はありません。自分を今苦しめているものや、怒りや弱さをそのまま持って、私たちは御前にひれ伏します。信じますと言える状況でなかったとしても、主は「あなたの祈り、あなたの信仰は、私が誰よりも知っている。」と受けとめてくださいます。主が命を与え、信仰に導かれますから大丈夫です。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」神の平安のうちに、遣わされていきましょう。