8月4日 聖霊降臨節第12主日礼拝・平和主日礼拝・聖餐式
「神の熱意が平和をなしとげる」隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 9:1~6
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先週は、古賀牧師夫妻をお招きして幸いな「創立記念特別礼拝」をもつことができて本当に感謝でした。続いての今日、8月の日曜日は、日本基督教団では「平和主日」として礼拝を持つことになっています。
先週、古賀牧師から「信仰の襷をつなぐ」ということをお聞きし、私たちは大きな励ましをうけました。私自身も「山口信愛教会の信仰の先達の歩み」を聞き、「この教会が大切にしてきた信仰の襷を、新しい方々に繋いでいかねばならない、という思いを新たにしました。
そして、「襷をつなぐ」ということでは、私が「キリスト信仰」とともに「新しい方々に繋がねばならない」と思っている「大切なこと」があります。それは「戦争の悲惨さ」です。
何度かお話しましたが、私の祖母は1945年8月6日に広島にいたため原爆に遭っています。その話を少しさせてください。
祖母の家は爆心地から少し離れたところにあったため、家族が命を落とすことはありませんでしたが。しかし、市の中心地から被爆した人が次々に助けを求めては来るものの、大した処置をしてあげることができずに、多くの人が苦しみながら死んでいくのをただ見取ることしかできなかったようです。
私は物心ついた頃から、夏が近づくとこのことを繰り返し繰り返し聞かされていましたし、小さい時から、トラウマになるほど「被爆の資料や写真」を見させられていました。おかげで、戦争がどんなに悲惨な結果を招くのか、ということや「核兵器がどんなにおそろしいもので、この世から一刻も早く失くさねばならない物なのか…そのことを心に深く刻んで、成長できたことは感謝でした。
祖母はよく「アメリカが憎い、恨めしい」と言っていました。あれだけの地獄絵図を見たのですから、そう思っても仕方ないところはあります。しかし、アメリカが原爆投下に至ったその背景には、旧日本軍の軍部の暴走など、日本の側にも原因があったことを皆さんは良く理解されていると思います。
また核兵器が、この地球上からすべて無くなっても、それで平和かというと、違うと思います。人間は手元にある兵器をみんなが一斉に手放し、捨てたとしても、9・11事件に代表されるような、私達の生活手段である、飛行機や鉄道、車によって、テロという形の新たな「戦闘」も行われています。人間の悪賢さというか、愚かさというか…そんなことを感じずにはいられません。
どうすれば平和な世の中が訪れるのか、そのために自分は何ができるのか…思春期のころ、私はそんな疑問をもっていました。そして、その答えは聖書の中からしか見出すことができないという、一つの答えに行き着いたのであります。
今回は先ほどお読みいただいた、イザヤ9章のほかにも、いくつかの箇所を引用しながら「聖書が教える本当の平和とは何か」ということ、そのために私達が大切にしていくこと、について考えたいと願います。
さて御言葉を味わい読む前に、「平和」とは何か、ということを思い巡らしたいと願います。 皆様ならどのようにお答えになるでしょうか?
世の中の多くの人は、国家間同士の戦闘がない状態と答えるでしょう。あるいはもう一歩進んだ答えとして「国家だけでなく、人々の間に争いがない状態」と答える人が多いことでしょう。
しかし、「たとえ表面上争いがなくとも」、ある人が「力でほかの人を押さえつけていて、まったく抵抗できなくしている」、そのことで「戦いや争いがない」状態が保たれているなら、それを平和な状態と呼べるのでしょうか?
聖書の教える平和な世界、状態というと、私は…先ほど子どもメッセージでお語りした「人間が罪に堕ちる前の、エデンの園の情景、そしてこの世のすべての悪がほろぼされた終末の世界を描いたヨハネの黙示録」が真っ先に思い浮かびます。
そして、「救い主の到来」を通して「新しい時代の情景を描いた、捕囚期の預言者たちの記した書」にも「平和な情景」が描かれます。
皆様、今旧約聖書のP1074をお開きでしょうか? ここは5節6節にはっきりと書かれているように「イエス・キリストがこの世に遣わされ、平和がもたらされる」ことが預言されている箇所です。
なぜイエス・キリストの到来が平和につながるのか…そのことが1~4節に出ています。
1~4節を読んでみます。
ここでは、「力で人を押さえつけて、抵抗できなくしている戦のその道具が、焼き尽くされるのだ」と預言されます。軛や鞭、軍服、兵士の靴といった「人を力で支配する道具」がなくなるのです。 「一方の人が一方の人を力で抑え込む、支配する…」そういう時代は終わるのです。
それは1節にあるように「闇の中にいるような感じで生きている人、死の影の地に住まわされていると感じるような苦境にいる人」に光が差し込むような感じですし、まるで収穫があったとき、戦利品を分け合うような喜び楽しみがあったような感じだと預言されています。
これらが成就するのが「神によって与えられる男の子」が民全体に与えられることによって、なのです。
そのことがはっきりと預言されているのが、クリスマスに読まれることも多い5節と6節です。
何回か読んだことがある、と感じたかたもおられるのではないでしょうか?有名な「キリスト誕生の預言」です。 しかし…私が今回皆さんに注目して読んでいただきたのは、5節ではなく、むしろ6節です。
6節の最後に「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」という言葉が出ます。この言葉が指し示すように「平和は、人間の努力によってつくられるものではなくて、主なる神の熱意によって、与えられ、成し遂げられることである」ものであると、聖書は教えます。
人間が一生懸命考えて「良い状態の社会を作り出そう」と努力しても、結局、争いや戦いは消えない…。それは情報社会となり、科学技術が進み、「政治学や社会学」も進歩したはずの、この21世紀で戦争が起こり、しかも「泥沼化している」という現状から明らかになった…と私は思うのですが、どうでしょうか。
私は「神がともおられること抜きに、真の平和はない」ということを聖書が教えていると確信しています。創世記2章の「人間が罪に堕ちる前のエデンの園」は、神と人、そして「アダムとエバの関係に表れている隣人との関係」も平和でしたし、動物や自然との調和がとれていたことが表されています。
しかし、人間が「神に背く」という罪を犯した創世記3章以降で、もともとあった平和が次々とくずれていく様子が聖書には記されています。これは創世記だけでなく、旧約聖書にある「イスラエルの歴史の記録」全体から理解できることです。
しかし「平和から遠い存在となった人間」を見捨てられないのが「主なる神の熱意」です。神は、人間を愛し、大切に思う故に、自らの側から平和の使者を送られたのです。
それがクリスマスに人となってこの世にきてくださった「イエス・キリスト」に他なりません。神から遠ざかっていき、「平和を崩していった」罪深い人間たちを救うため、愛する独り子イエス・キリストをお送りくださった…まさにこれ以上ない「熱意によって」私たちの間に平和をつくって下さったのです。
父なる神にいつも祈り、いつも「その御心をたずねながら」この地上を生きて下さったイエス・キリスト。弱い人間の肉体をまとっての歩みでしたが、いつも天の父なる神と一体となって歩まれ、神から離れることは全くありませんでした。
その神と一体と歩まれ、神の御心を行い続けられた「御子イエス・キリスト」が私たちすべての人間の罪の身代わりとなるために、十字架にかかって死なれたのです。
そのキリストを「父なる神は復活させてくださった」のです。それによって、罪深い私たちも、イエス・キリストを信じることによって、その復活の力にあずかることができるようになったのです。
人間は罪を犯し、神から離れて以降「平和からかけ離れた状態になり」人間の力ではどうすることもできない状態に陥ってしまいましたが、神自ら「愛する独り子をおおくりくださる」ことによって、敵をも受け入れ、愛する方であることをお示しになりました。 そして「この罪人をも受け入れる愛」によって平和が成し遂げられていきことを教えられたのです。
そろそろメッセージを締めくくりますが、最後にお伝えするのは「キリストがこの世に来てくださった後の今現在、闇の中に光は差し込んできたものの、本当の平和にはまだ遠い」ということと、その平和の完成に向かって私たちがなすべき務めがあるということをお話しします。
私が購読している中国新聞の先日の紙面に「三次市の専法寺の梵住職」の文が載り、私の心に響いてきました。 この方は広島カープで最近まで活躍なさった梵英心先週のお兄さんですが、この方は僧侶でありながら、2019年広島でのローマ教皇の説教を熟読なさり、そこから学び取ったことを文章にしたためられました。
その中で特に強調されていたのが、教皇の説教の冒頭部分でした。「私は言おう。私の兄弟、友のために。あなたのうちに平和があるように」
梵住職は「教皇は自分ではなく、他者の平和を願われた。社会の中で他者と交わりながら生きるわたしたち。他者にとっての平和が実現してこそ、私にとっての平和が訪れる。平和とは、他者に対して大いなる慈悲の心を持って接するところに生まれる」
そのように言われていますが、それは、今回の箇所で教えられている「神にあっての平和」と重なるように思います。そしてこの預言の実現として「平和を作り出すものとして」この世に来てくださった神の子イエス・キリストの生き方と全く重なると私は思います。
自分や、自分の属する国、また「自分と同じ考え方に生きる人」の平和だけを願っても、それは平和でありません。私たちは「平和の君」としてこの世に来られたイエス・キリストの歩みに「少しでも倣いながら」、他者を愛し、その平和を願い祈る者として生きてまいりましょう。 (祈り・沈黙)