7月14日 聖霊降臨節第9主日礼拝
「あなたを愛する神」隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 43:1~7
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今朝は、聖書日課の中からイザヤ書43章1~7節を選びメッセージを語ることにいたしました。この中では4節の前半の「新改訳」の言葉がとくに有名です。
「わたしの目には、あなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している」
これは天地創造の神が、「預言者イザヤを通して、イスラエルの民」に伝えられた言葉ですが、イエス・キリストが来られ、新しい契約を結んでくださった時代を生きる私たち一人ひとりに向けても語られている言葉でもあります。
神が私たちをどんなに愛されているか、それを今回の箇所は「具体的にいくつもの面から伝えている」のであります。 私たちの日々の歩みには、いろいろと苦しみ、悩みが一杯です。 「神さまは、私のことを本当に大切に思って下さっているのだろうか?」と疑いの気持ちをもってしまうこともあるでしょう。しかし、そんな厳しい状況にあって「神は、ご自身がどれだけあなたを大切に思っているか」を伝えようとなさるのです。
イザヤ書43章は、ユダヤの人々が「バビロン帝国に捕囚で連れていかれていたとき」に神が預言者を通して語らせたことが記録されている箇所です。神を礼拝する場所であったエルサレム神殿が焼かれるなど、エルサレムが廃墟と化し、律法を授かった「神の民であるユダヤ人」が、捕虜として異国の地に連行されることが起こってしまう…「神は一体どこにおられるのか!」そのように叫びたくなるような状況で、神はご自身の愛を伝えておられるのです。
神の愛は、現代の日本人の間で「簡単に話されている愛」とはまるで違う「深さ」「重さ」をもったものだということが、今回の箇所からよく伝わってくる、そう私は確信しますが、皆様にそれが「分かりやすく伝わり」苦しみの中でも「神の愛を感じながら、歩んでいく力」が与えられることを願っています。
今回私はイザヤ書43章を通して、「2つの側面の神の愛について」お語りすることを示されています。
一つ目は「造っただけで終わらず、その後も共にいてくださる」ということに表れた神の愛です。
1節と7節で、神はご自分が「創造者である」ということを宣言されます。特に7節の「わたしの栄光のために創造した」ということが記されていることが大切なポイントです。ここで直接語られているイスラエルの民たちだけでなく、私たちはみな「神の作品として造られ、。造り主である神の栄光を表すために生きているのだ!ということが分かるのです。
1節の最後には「わたしはあなたの名を呼ぶ」とあります。これは一人ひとりを「違いをもったかけがえのない存在」として大切にしてくださる神の愛が表れています。
機械で製造した「同じ規格のもの」は製造番号があっても、個々の名前はありません。
神がつくられた私たちは「それぞれに名がある一人ひとり」であり、その名を神に呼んでいただけるのです。そこに優劣はありません。金子みすゞさんの詩のように「みんな違ってみんな良い」そんな神の私たちへのメッセージが聞こえるようです。
データで評価されるドライなこの世にあって、神の私たちへの愛のまなざしをかんじとりましょう。
さらに、神は私たちをただ造ってそれで終わりなのではありません。愛をもって守り導く…それが2節に記されます。【※2節を読んでみます】
ここでは「水の中を通り、川を渡り、火の中を歩く」というシチュエーションがでています。これは、当時の爲末らえる民族が体験した、もしくはこの先で体験するであろう「苦難や危険の象徴的表現」だろうと考えられています。「火」や「水」は試練や迫害を指すものとして聖書中で出てきます。
開かれなくて結構ですが詩編66:10では「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。」という言葉が出て、まさに「試練」が火で譬えられます。
そして、続く詩編66編12節では「我らは、火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して豊かな所に置かれた」という詩人の信仰告白がなされます。このように、私たちの人生には必ず試練があり、それは「火の中、水の中を通るような苦しいもの」ですが、しかし神はそこに共にいまして、最善へと導きだして下さるお方です。
イザヤが2節で預言している「火」や「水」とは、文字通りのものというより、試練を比喩的に指すものであり、試練のときも決して見放すことのない、神の「私たちに伴われる愛」を表しているのです。
私たちも「まるで火の中、水の中を通っている」と感じるような試練にあっているときも、愛をもって私たちを造ってくださったお方が、必ずそばにいて、最善のところに導こうとされているのだということを思い出しましょう。
残りの時間、「もうひとつの側面の神の愛について」お話しします。それは「大切なものを犠牲にしてでも、私たちを買い戻そうとされるほどに大きな愛」です。
1節に「わたしがあなたを贖う」という神の言葉が預言されます。贖うという行為は、人手に渡ってしまった自分のものを買い戻す行為です。神は「他の者の所有となっているイスラエルを買い戻すのだ」と宣言されます。
3節に「具体的なこと」が出てきます。神のなさろうとしてる贖いは、「エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする」というほどに大きいということです。ここで挙げられている国の名がどこか、神が一体どのようにして「差し出されようとされるのか」をこえて、大事なことは「神にとって大切ものを差し出してでも、イスラエルを救い出したい」と願われているという、その愛の大きさが表れている、ということです。
どうして、そこまでして下さるのか…その理由は4節にでています。
4節の2段目からを読んでみます。
「わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」
イザヤは「神の民として選ばれ、愛されたイスラエルの民が、その神から離れ、道徳的に腐敗した生活を送ったことが、捕囚という大きな苦しみにつながったことを知っています。そしてそこからの「神の愛による回復の預言」を語ります。
神から離れ、神に背いた「イスラエルの民たち」は、バビロンに攻められ、都を焼かれ、捕虜として捕らえられていきました。普通なら、それで「ジ・エンド」です。
しかし!そんな「自ら神のもとを離れていったイスラエルの民を」神は、買い戻すとイザヤは預言したのです。
注目すべきは「国々を代償」にするという3節で語られたことに加えて「あなたの身代わりとして人を与える」という預言がでることです。
イスラエルという国を買い戻すのに「国々」ということが挙げられるとともに「単数形で表された人」が身代わりとして与えられるのだ!とイザヤは預言しています。
神からの預言を授かったイザヤは「イスラエルが再び、神のものとなるために、身代わりとなって差し出される一人の人」と聞いても、具体的な誰かがイメージ出来ていたかどうかは分かりません。
しかし!新約時代に生きる私たちにはこの「イスラエルを買い戻すために、神が与える一人の人」というのが、イエス・キリストのことだということがはっきりと分かるのではないでしょうか。
もちろん「一人の人間となって、この世に来られ、十字架にかかり私たちの贖いを成し遂げられたイエス・キリスト」を通して買い戻され、神のものとなったのは「イスラエルの民たち」だけでなく「異邦人であるわたしたち」もそうなのです。
神がその独り子であるイエス・キリストを差し出してまで、すべての人間を「買い戻そうとされる」つまり「罪から救い出そうとされる」のはなぜかというと、それは4節の一行目の言葉に表れているのです。
「わたしの目には、つまり神の目には、わたしたちは値高く、貴いからだ」という理由なのです。新改訳でいうところの「わたしの目には、あなたは高価で尊い」からなのです。
イスラエルの民たちも、そして私たちも「愛の神に造られ、愛の神に導かれながらも、そこから離れて行ってしまう」弱くて罪深い者たちです。しかし!そんな者たちをも神は愛し、守り、導かれるのですが、その愛が究極的にわかるのが、4節3行目にある「あなたの身代わりとして人を与える」という神の業です。つまり「独り子を十字架にかけてまで、私たちを救おうとなさる神の業」を見つめるときにこそ、「神の愛の大きさ」が迫ってくるのではないでしょうか。
このように、今日は「イスラエルの民たちだけでなく、私たちへの神の愛がいかに大きいか」ということを皆様と味わってまいりましたが、イザヤは「ただ神の愛がどんなに大きいかを理解してもらいたい」ために、言葉を紡いだのではありません。
今日は時間の関係で読むことが叶いませんが、8節以下では、民たちに「神の生ける証人」となって「神の人々を集めよ」ということが語られます。その大きな目的のために、「まず今日の箇所で、あなたを思う神の愛がいかに大きいか」ということを語っているのです。
私たちも今日の礼拝を通して「神の愛の大きさ」が味わえたと思います。これを「ただ感じて終わりではなく」まだ神を知らない周りの人々に証しする役目があるからこそ、「神はその愛の大きさをイエス・キリストを通して私たちに知らせて下さっている」のだと私は感じます。
このあと皆様で唱和する教会標語の「キリストの愛に心燃やされる教会」ですが、この中の「心燃やされる」というところに強調点があります。「ただ神の愛をしって終わり」ではなく「愛を知って、心燃やされて、何をするのか」それが本当に大切だと感じます。
困難な時代であり、それぞれにも困難な課題があることでしょう。しかし、そんな中でも「キリストを通して表される神の愛に心燃やされて」まいりましょう。(祈り・沈黙)