4月20日 復活節第1主日礼拝・イースター礼拝
「かねて言われていたとおり、復活なさった」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 28:1~10,16~20
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イースターおめでとうございます。イースターは世界中で「喜びの日」としてお祝いされますが、その理由とは…国籍・人種を超えて「すべての人を救うために」人間となってこの世に来てくださったイエス・キリストが、すべての人間の罪をあがなうために十字架にかかって死なれた後、その死の力をうちやぶってくださって復活してくださった、そのことを「自分のこととして喜び祝う」からです。
さて…先週の月曜日、ここ「山口信愛教会会堂」にて、保井卓さんの洗礼式を執り行うことが出来ました。
長期の入院を伴う、大変な治療が続く卓さんでしたが、皆様のお祈りによって退院することができ、そしてご本人の体調が整ったタイミングで急遽最小限の人数での洗礼式の機会が与えられました。まさに「神が導いてくださった、保井卓さんの洗礼式」でしたが、ちょうどそれがイースター前の「受難節だった」こともあり、私の心にも新たな示しがたくさん与えられたのでした。
とくに示されたのが「洗礼は、キリストの十字架の死と、復活の命に与る、神の業であり、聖霊の業だ」ということです。
今日の聖書箇所には、十字架にかかり、死んでくださったあと、復活されたイエス・キリストが私達に対して、復活の主は「あなたのために、わたしは十字架で死に、そして復活したのだ」というメッセージが表れている…そのように私は思います。御言葉を味わってまいりましょう。
さきほど2か所聖書箇所を読んでいただきましたが、前半部は「こどもメッセージ」で語りましたので、いまから語ります礼拝メッセージでは後半部分の16~20節に絞って語ります。
今回選んだ「キリストの復活の記事」には、他の福音書とは違う大きな特徴があります。弟子たちは、復活した主イエスとのエルサレムでの再会したことが「ルカ、ヨハネ」には描かれていますが、マタイはそれを描いてはいません。前半の10節でイエスが弟子たちに「ガリラヤで会うことになる」と言われたあと、実際に後半部分で「ガリラヤで再会した」ということが描かれています。
ガリラヤとはガリラヤ湖の西側一帯の地域を指す地方の名称でした。そこには弟子たちの故郷があります。そして彼らが初めてイエスと出会い、召されて弟子となり、初めて宣教した場所があったのです。
つまり、マタイによる福音書は、復活されたイエスと弟子たちの再会を「信仰の原点に帰った」という視点で描いているのです。
イエスに受け入れられ、弟子となった時の喜び、そしてイエスに従って宣教した時の情熱が呼び覚まされたことでしょう。
そんな「ガリラヤでの」復活のイエスと弟子たちとの出会いの場面の最初の16節、17節を見ましょう。(※ご覧ください)
ガリラヤの山に登った弟子たちは、そこで復活したイエスに会ったのです。ただ会ったのではなく「ひれ伏した」のです。これは復活されたイエスを「神として礼拝した」ということを表しているのです。
会った場所が「山」であったのですが、山というのは、旧約聖書以来「神を礼拝する場所」という意味を持っています。
しかし17節で「その場面でもなお、疑う者もいた」ということが記されているのです。
マタイによる福音書には記されていませんが、他の福音書の内容からみて「この前にエルサレムで復活のイエスに会っている」ことは間違いないと思います。それなのに「疑った」とあるのです。
その理由についてはいろいろ推測されてきました。
わたしは単純に「信じることと疑うことを行ったり来たりする、そんな人間の弱さが表されている」と思っています。
聖書は、クリスチャンが「一度信じたら二度と疑うことがない、強い者」として描いてはいません。ある牧師が「疑いながらも、礼拝しているのが、教会に集う者たちの実態である」と言っていますが、私もそう思います。
私たちは、復活の主が共にいて下さることを「疑うことも」あります。そして「主の復活が喜べない」こともあります。しかし私たちがどうあるべきかでなく、「私たちがどうであるかを超えて、変わらずに傍らにいてくださる復活の主」を感じましょう。
この後の18節19節20節からは「復活されたお方がどんなお方であるのか」が分かります。私たち一人ひとりに対しても「近づいてくださる、復活の主」であることを思い浮かべながら、メッセージを味わいましょう。
18節をご覧ください。ここを見ると「イエス自らが近寄ってこられた」とあります。礼拝はするけれども、まだどこか疑っている、そんな者たちが持つ「微妙な距離感、溝」を復活の主は自ら近寄り埋めて下さるのです。愛と謙りに満ちたお姿を見て取れます。
そして言われた言葉が18節後半です。「私は天と地の一切の権能を授かっている」。
一言でいうなら!「私は万物の支配者で全知全能だ」ということをおっしゃっているのです。 復活されたイエス・キリストは、私たちを苦しめ悩ませる死の力さえ打ち破る力ある方であるということが最も大きなメッセージだと私は思います。疑っていた弟子たちはどんなに励まされたでしょうか。
次に19節と20節の一つめの文です(※ここをよんでみます)
「弟子」という言葉が出ます。これは「イエスの教えを聞き、信じ、主と仰いで歩む人々」のことです。そして「すべての民」という言葉が出ますが。これは文字通りの「世界のすべての人間」という意味とは少し違います。ですから!世界中すべての人を弟子としなければならない、という極端な命令ではありません。
私達の罪のために十字架にかかり、死をうち破って復活されたイエス・キリストは愛のお方です。 あくまで私達が、「自分の意思で!」救い主と信じ、そのしるしとして洗礼を受け、新しく生きる者になってほしい、と望んでおられるのです。
先日、洗礼を受けられた保井卓さんは、まさに「神・キリストの愛の招きによって、自らの意思で洗礼を受けることを決心され、そして新しく生きる者とされた」のですが、その深い愛の招きは、今回の箇所の言葉とぴったり重なると私は思います。
さらに深く掘り下げるなら、19節の「すべての民」という言葉を復活の主があえて使われていることの意味です。これは、「国籍、民族を超え、すべての人を救いたい」というイエス御自身の「愛による願い」なのではないでしょうか。 すべての人はキリストの愛による救いに招かれているのです。
そこには「人間的な評価の、優劣」はありません。 私たちは人間はすべて、神の子イエスが十字架で身代わりに死んでくださるに値しない「小さき者」ですが、特別に救いに招かれていることを改めて覚えましょう。
そして、その「喜び・恵み」を感じたなら、自分だけで留めるのではなくて、他の人にそれを分かち合ってまいりましょう。そして「国籍や人種を超えて、互いに愛の中に生きて」まいりましょう
最後に20節の二つ目の文を読んで、メッセージを閉じます。
ここでは復活のイエスが「私達と共にいて、支えてくださる」ということが教えられているのです
イエスは世界のすべての人を罪から救おうと愛をもって招いておられます。しかし、それを「ご自分だけでなさる」のではないのです。罪もある、欠けもある、そんな私達と一緒になって「多くの人を罪から救い、ご自分に倣う生き方」に導こうとなさっているのです。
19節、20節で「すべての民をわたしの弟子にし、洗礼を授け、ご自身の教えを守るように導く」ことを求められています。しかし!ただ「上から目線の命令をなさる方では全くない」ということが分かるのです。 わたしたちを独りぼっちにされることはなく、いつも共にいるといってくださるのです。
暗く、希望の見えない世の中です。そんな中で、私たち一人ひとりが「神の独り子キリストが復活し、いまも天の上で生きて、私たちの心の内に働いてくださることことを希望にして、日々歩んでまいりましょう
「神の子は愛のゆえに、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった。そして死の力をうち破って、復活してくださり、永遠の命の希望を与えて下さった。 この方にこそ真理がある。」と私たちが自分の中で信仰告白を繰り返し、少しずつでも証しすることで、世界は少しでも明るくなる。私はそう信じています。
「神の子、救い主の、死を打ち破る復活」を日々噛みしめて生きていきましょう。そのとき復活の主は共にいて下さることを強く感じられるはずです。また他者にも愛をもって関わることが出来る、原動力になり、愛は少しずつ世界に広がっていくと信じています。(祈り・沈黙)