「この方がわたしたちの主」12/21 隅野徹牧師


  12月21日 降誕前第1主日礼拝・クリスマス礼拝

「この方がわたしたちの主隅野徹牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 1:1~4

画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 

 皆様クリスマスおめでとうございます。メリークリスマスという言葉も「クリスマスおめでとう」と訳せる言葉です。 クリスマスの何がおめでたいのか…今日私たちは礼拝内で奥津律子さんの洗礼式を行います。「ご本人だけでなく、ここに集う全ての人にとっておめでたい」ひと時となるのですが、これは「クリスマスがおめでたい理由」と密接に関係するのです。ひととき、短く「聖書からのメッセージ」を語ります。

 選んだ聖書の個所は、ローマ書の冒頭の部分です。使徒パウロが「ローマの信徒」へ向けて書かれた手紙が聖書の言葉になっています。

 今回の個所の1節と2節で2回出てくる言葉があります。それが「福音」という言葉です。

  福音は英語で「ゴスペル」という言葉です。この「ゴスペル」という言葉は「あるジャンルの音楽を表すもの」として独り歩きしている感がありますが、もともと「グッドスペル」が変化したと言われています。つまり福音は「良い知らせ・おめでたい知らせ」という意味です。

その「良い知らせ」である「福音」とは一体何か…それが表れているのが今日の個所です。 まず1節と3節の一つ目の文をお読みします。

この部分では「福音について」が2つのことが教えられています。

一つ目は「この手紙の筆者である使徒パウロ」は「福音を伝えるために」神から選ばれ、召されて使徒になったということです。そして二つ目は「福音とは神の御子、イエスキリストに関するもの」であることです。

とくに2つ目の方の「神の御子に関することが喜ばしい知らせ」ということが「クリスマスを祝う意味と大きく関係してくるのです。

3節最初にでる「福音、つまり喜ばしき知らせは御子に関するもの」という言葉は簡単にスルーしてしまいそうな短い言葉ですが、実は意味深い言葉なのです。

聖書が指し示す神は「目には見えないお方」です。目には見えない神はどんな方かわかりにくい、だからキリスト教は信じられない…という声があるのも事実です。

しかし、聖書は神について「御子をこの世に送られるお方」だとはっきり表すのです。御子というのが、クリスマスに「人としてこの世にお生まれ下さったイエス・キリスト」なのです。

 つまりは「大切な御子を、私たちのために差し出されるお方が唯一の神である」というところに「喜ばしい知らせ」があると聖書は証言しているのです。

さて、今日の箇所の残った箇所では「神が御子を送られる」ということがどんなに「喜ばしい知らせ」であるのか、さらに深く教えられます。

こんどは2節3節をゆっくり読みます。

ここでわかること。それは「神がきまぐれのようにして突然、御子をこの世に送られたのではない」ということです。「イザヤやエレミヤなどの預言者」を通して、ずっと昔から約束されていたということです。

その約束は預言者の時代に神が初めて考えられ、計画されたのかというと、そうではないのです。神は「天地を創造されたとき」から「人間を救うご計画」は始まっていたと聖書は教えます。人間は完全ではありません。皆が「弱さをもったもの」として生まれてきます。罪を犯し、創造主である神の御心に反することを最初から行っていたことを聖書は証言します。

3節の二つ目の文をご覧ください。

「御子は肉によればダビデの子孫から生まれ…」とあります。これは神の御子キリストが「肉体をもった人間として」アブラハムやダビデの子孫である「ユダヤ民族の血をひくものとして」お生まれくださったことを示すものです。 

 神は、特別な選びによって「アブラハム」を選び、その子孫を「救いの基」としてくださったのですが、それも「人間を救う計画」の一つなのです。

その「アブラハム」の子孫さらに先に進んで「ダビデの子孫として!」神の御子を誕生させてくださったのです。「罪深く弱い人間のひとりひとりを何とか救おう」と、神が大切に思われていることの証しです。

まさに私たちにとっての「良き知らせ、喜ばしきしらせ」があるのです。

最後に4節を味わって、クリスマス礼拝のメッセージを閉じます。

ここでは、神の御子キリストは、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」と語られています。間違って理解しそうですが…これは「人間だったイエスが復活して神の子となった」と言っているのではありません。

イエス・キリストは人間の姿となってこの世に来てくださいましたが、もともと神の子であることは間違いありません。ですので、この4節の言葉が語ろうとしているのは、「普通の人間の姿をとり、わたしたちとともに歩まれたあのナザレ育ちのイエスが「力ある神の子であることが明らかになった」ということです。

とくにこの中での「力ある」という言葉が大事です。一見すると「歴史上の一偉人にすぎないと」捉えられることが多い、ナザレ出身のイエス。しかし!そのお方が「神の子としての力を帯びた方である、ということが「死者の中から復活するという、いわゆるイースターの出来事」によって示され、明らかになった!ということを聖書は証言するのです。

ここで言われている、イエスがお持ちである神の力、が「私たちにとっての喜ばしきこと、めでたいこと」とつながるのです。

その力とは…ずばり「死に勝利する力」なのであります。

聖書は、わたしたち人間は「自分がどんなに充実した人生を送ったと感じても」罪をもっているので、死から逃れることができないと教えます。その罪というのは、私たちがあれこれの悪いことをしている、ということであるよりも、もっと根本的な意味です。私たちに命を与えてくださる神との間の「本来の関係」が失われていることです。神を神として敬い、感謝し、礼拝するのでなく、自分が主人になって生きている私たちは、神との正しい関係を失っているのです。

そこで神は、その独り子であるイエス・キリストは「私たちと同じ肉体を持った一人の人間」としてこの世にお送り下さったのです。私たちと同じ人間として「この世でのあらゆる苦しみを経験して生きて下さったあと」罪を全て背負って十字架で死んで下さいました。しかし、死の後、神が「御子キリストを復活させてくださった」のです。

イエス・キリストが復活して下さったことによって、このお方を救い主として信じるすべての人間に、肉体の死を越えた先に与えられる新しい命、復活と永遠の命の約束が与えられたのです。

今日の4節の言葉にでる「復活によって力ある神の子と定められた」というのは、死から私たちを解放して、新しく生かして下さる…イエスがそんな力ある救い主であることが明らかになった、という意味です。クリスマスにこの世へと来てくださったイエス・キリストが、その後成してくださった「十字架と復活によって」、力ある神の御子による救いが実現したのです。これが、福音、よろこばしきことの中心です。

このあと洗礼式が執り行われますが、洗礼を受ける方は「聖霊の働きにより」神の御子イエス・キリストと結び合わされ、キリストと一つとされた新しい命を生きるのであります。

ローマの信徒への手紙の先の章である「8章の1節」には、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と書かれています。洗礼を受けてキリストであるイエスと結ばれ、一つとされている者は、罪に定められることはありません。つまり神との良い関係を持っていない者として神から切り離されてしまうことはなく、たとえこの地上で肉体の命を終えても「天で永遠の命をいきることができるようになる」のです。

奥津律子さんは、まさに今日「人間を罪から救うため、この世にお生まれになり、その後十字架の死と復活の業を成して下さった力ある神の子」によって、新しくされ、天への希望をもって歩む日々がはじまるのです。

会堂にお集まりの皆様も、ぜひご自分と神の御子キリストとの関係を見つめていただければ幸いです。「神が大切な御子をわざわざこの世に送って、十字架にかけてまで罪から救おうとなさるほど、皆様は愛されている命!」なのです…それだけ神は愛してくださっているということをクリスマスの今、心に刻んでいただければ幸いです。  (祈り・黙想)