6月1日 復活節第7主日礼拝・聖餐式
「すべてのものを満たすため昇られた方」隅野徹牧師
聖書:エフェソの信徒への手紙 4:1~16
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日本基督教団の聖書日課で今日選ばれている箇所はいずれも「キリストの昇天」に関して教えられている部分です。
先程のこどもメッセージ語った通り、神の独り子イエス・キリストは十字架にかかり、3日後に復活され、40日弟子たちとともにこの地上で過ごされたあと、天に昇られた…と聖書に書かれていることをご存じの方が多いと思います。
しかし…その「天に昇られたキリスト」が、今どうされているのか、そして「今を生きる私たちとどう関わって下さるか」に関しては、深く考えたことがない、という方もおられると思います。
聖霊降臨を記念してまもる「ペンテコステ礼拝」を来週に控えた今週、イエス・キリストの昇天といまの私たちのつながりについて、エフェソ4章から御言葉にきいてまいりたいと願います。
今回選んだ箇所のメインテーマは何かというと「私たち一人一人が神から違う賜物を聖霊の力によって受け取っている」ということです。1か月前にお語りしたコリントの信徒への手紙Ⅰ12章で見たのと、同じような内容です。
しかし、今回の箇所のエフェソ4章は同じ使徒パウロが書いているのですが、コリント12章には書かれていないことが出ます。それが今日私が中心的に皆様にお語りしたいと考えている主題である「キリストの昇天」です。
いま聖書をお開きでしょうか? 8節をご覧ください。この節の括弧の中は旧約聖書、詩編68編19節からの引用です。パウロは9節で「これは、イエス・キリストのことを予め預言したものである」ということをはっきりと述べて、続く10節で「この方は昇天され、高く挙げられたのだ」と語っています。
イエス・キリストが十字架上で死なれ、葬られたあと、復活されただけでは私たちを罪から救い出し、永遠の命を与えるという業は完成しません。
その後キリストが天に昇られ、神の右に座しておられ、そこから聖霊を送り、私たちを導いておられるからこそ、私たちの生きている日々には希望があるのだということをお話しします。重点的に見るのは8節から10節の3節だけに絞りますが、「ともに「キリストの昇天について」思いを巡らし、御言葉にきいてまいりましょう。
まず、はじめに「キリストの昇天について」基本的なことを共有したいと願います。キリストはわたしたちの罪のために死なれ、陰府に降り、三日目に甦らされました。それによって、わたしたちの罪の贖いがなされたのです。
その後イエス・キリストは復活の体をもって40日弟子たちと共におられました。それから、先程のCSメッセージでお話ししたように、弟子たちの見ている前で天に上げられました。「天」とはご復活の主が神と共におられる所であり、神の御支配が行われている所なのです。
実はイエス・キリストは、十字架にかかって死なれる前「ご自身が弟子たちから離れて天に上げられることの意味」について、弟子たちに教えておられます。それがヨハネによる福音書16:7にあります。お開きにならなくて結構なので、お聞きください。
「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」
神の独り子であるイエス・キリストは、ご自分が天に上げられることがあなたたちにとって益なのだと仰るのです。それは「天に昇ることによって、弁護者を送ることができる」という希望でした。弁護者とは神の霊である「聖霊」です。
つまり…イエス・キリストは天に昇り、父なる神の右に着かれることによって、父なる神と共に、全能の力「聖霊の力」をもって、わたしたちを導いてくださっているのです。 その当時の弟子たちだけではありません。時代をこえて「わたしたち皆」を導くのです。
キリストの地上の生涯、十字架の死と復活は、パレスチナという「広い世界のごく一部分で」、そして時間の限られた間に起こった出来事だということが出来ます。
歴史の中に神がご自身を現わしてくださったということは、制限された時間と空間の中で「限定して御自身を現わされた」ということに他なりません。
ある牧師がいっておられる表現をそのまま用いさせていただきますが「イエス・キリストは限られた命に死なれた後、限りなき命として復活された」のです。
その後、キリストは天に昇られましたが、これによって天の上から、キリストの心と力である「聖霊がおくられれ」、全世界の信じる者がすべて、「昔も今も未来に生きる人にも、時代を超えて」、信じる者と共にいてくださることが可能になったのです。
いまの話を頭に入れつつ、今日の聖書箇所に戻ります。
1~7節、そして11節から16節で「ひとりひとりに違ったかたちで、聖霊によって賜物が与えられる。そのことによって、キリストの体である教会全体が成長していく、一つになっていく」ということが語られます。それは聖霊の力によってのみ可能なのであります。
その「わたしたちに与えられる聖霊の賜物」は、「キリストの昇天があってから豊かに与えられるものなのだ」ということが8節から10節で語られるのです。
8節をご覧ください。
詩編の言葉が引用され、「キリストが天に昇られて、罪に囚われていた人たちにも、ご自分の愛の力に満たすために、賜物を分け与えられた」ということが述べられます。
これは神の霊であり「神の心そのものである、聖霊」なのですが、それがキリストの昇天によって豊かに与えられる、という約束がなされた言葉なのです。
そして続く10節、はるかに高い天に昇られた救い主キリストが、聖霊を「時代を超えてすべての人に送られる」理由が教えられます。それは、「すべてのものを満たすため」なのだ、ということです。
キリストがもろもろの天よりも更に高く、つまり神の国にまで上られることで、今、わたしたちの目には見えない「遠く離れたお方となっている」ように思ってしまいますが、しかしそうではないのです!
キリストは、わたしたちがいずれ行くことができる場所、別の言い方で「キリストと相まみえることが出来る場所である天にいてくださり、聖霊を送り、私たち一人ひとりの心の中に住んでくださるのです。
この聖霊の力によって「すべてのものを、神の力、愛の力で満たしてくださっている」のです。
つまり、キリストの力は、聖霊によって「地上であっても、その無限の力によって、至る所に満ちている」ということが教えられるのです。
11節12節には「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」とあるように「多様性がありながらも神・キリストの愛の力よって一つの奉仕の業をなしていくのだと教えられます。そして13節、「信仰と知識において一つのものになっていくのだ」ということが教えられます。
キリストが天に昇られたあと、天から送られる聖霊によって、教会という共同体、そしてここにつながる一人ひとりが「頭であるキリストに向かって成長していく」ことが出来るという希望が語られているのです。
先日から繰り返し語っていますが、私たちは、この地上にいる間に「完璧にキリストに似た人、完全に成熟した人間になること」はできません。しかし高い天から、その天に昇られたイエス・キリストによって信じるものすべてに「聖霊の賜物」が与えられ、少しずつ「成長をつづけ」成熟していくのです。
私たち一人ひとりは罪を持って生きていますし、周囲の出会いが与えられ、関わる必要のある人一人ひとりも皆そうです。 相手を愛せないどころか、憎んでしまい、対立してしまう…なかなか一つになれないのが私たちの現実の日々です。
しかし!そんな私たちが互いを受け入れ、キリストにならって愛し合い、一つとなって支え合うためにキリストは十字架にかかり復活され、そして高く天に挙げられたのです。
キリストの力がどんな時にも私たちをいっぱいに満たしてくださるのです。そのことをいつも心に覚え、謙って聖霊の力に満たされてまいりましょう。
わたしたちがいつか、キリストを相まみえる時にいくことのできる場所が「天だ!」と聖書は教えますが、その場所におられるキリストから私たちへ「聖霊の恵みの力」が与えられていることを忘れないで歩んでまいりましょう。
(祈り・沈黙)