「そのまま受け入れるに値する」11/23 隅野徹牧師


  11月23日 聖霊降臨節第25主日礼拝

「そのまま受け入れるに値する隅野徹牧師
聖書:テモテへの手紙一 1:12~17

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 先週は、愛する野村登紀子姉を天へお送りしました。ここのところ天へお送りする人がたくさんあり、また体調のことなどで礼拝に出席できない方も増えていて「寂しさを感じる」山口信愛教会の現状です。

 でもこういう時だからこそ、教会をどのような場所として「神が立てて下さったのか」その基本・原点に立ち返りたいと願います。教会は「人間の楽しいあつまり」として立てられたのではなくて、「そこに集うものたちが、イエス・キリストの罪の赦し、永遠の命に与ったことを喜びつつ、支え合って歩んでいく場所」として立てられたことが聖書全体から分かります。

今朝の礼拝メッセージは、「聖書日課」のうち、Ⅰテモテ1章12節から17節を選びメッセージを語ることにしました。ここには、聖餐式の招きの言葉として読まれることの多い「イエス・キリストは罪人を救うためにこの世に来られた、という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」という言葉が出ます。

説教題にも付けさせていただきましたが、「神の独り子イエス・キリストが、罪人であるわたしたちすべての人間を救うためにこの世に来てくださった」その「真実な言葉」「教会の宣べ伝えてきた福音」を、代々の教会は「そのまま受け入れるに値するもの」として人々に伝えてきました。

イエス・キリストがこの世に来てくださったことをお祝いする「クリスマス」を前に、大切な言葉を皆様とともに味わいたいと願います。

今日の箇所では、使徒パウロが「自分自身のことを正直に告白」する言葉が並んでいます。「神を冒瀆する者」であり、「迫害する者」、「暴力を振るう者」、「罪人の中で最たる者」であったことが赤裸々に表されています。そんな自分を神さまが赦し憐れんでくださったことが語られます。このようなパウロを神は「忠実な者」とみなしてくださり、人々の「手本」となるように「使徒」の務めに着かせてくださったと語ります。そしてそのことを思う時、パウロは神に感謝せずにはいられない、ということを伝えようとしているのです。

このパウロがいう「罪深い自分が、キリストによって特別に赦されたことに対して、感謝せずにはいられない」という思いこそ、教会の業を前進させる原動力だ!ということが、今日私が最も皆さんにお伝えしたいことです。

最初に13節をご覧ください。ここでパウロは、自分がかつてどのような者であったかを告白しています。パウロはかつて、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。ナザレ人イエスが救い主であるはずがないと思っていたパウロは、イエスを神の子救い主だ信じる者を捕えては牢に投げ込んでいたのです。しかしそんな彼が復活の主イエス・キリストと出会いました。

パウロにとって、これまで激しく迫害してきたイエスがキリストだなんて全く考えられないことだったからです。とても許されるはずがありません。それでも「知らないで犯した罪だ」ということでで、特別に憐れみを受けた。本当なら神から裁かれて当然だった自分なのに、神が憐れんでくださったおかげでそれを受けなくてもいいようにしてくださったからです。

なぜパウロはこんなに赤裸々に「恥とも思える自分の過去」を書いているのでしょうか?それは…「こんなに悪いことをしていた者が救われたのは、神の恵み以外の何ものでもないのだ!」ということを明らかにするために他なりません。

14節をご覧ください。ここには、「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛とともに、あふれるほど与えられました。」と記されています

「主の恵み」とは、受けるに値しない者が神から一方的うけるものですが、パウロは神の教会を迫害していたわけですから本来なら滅ぼされても仕方ないのに、そうならないように神があわれんでくださったというだけでなく、「全く救われるに値しない者に対し一方的な救いの恵みが与えられたのだ」ということを言います。それが、今回の中心箇所であり、聖餐式の時の「招きの言葉」として朗読される15節のことばにつながっているのです。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、真実であり、そのまま受け入れるに値します。」とパウロは宣言しますが、その直後に続ける「私はその罪人の中で最たるものです」という言葉が表す通り、自分が身をもって体験し、心の底から「喜んでいるからこそ」出て来る言葉なのです。だからこそ「キリストを罪人を赦すためにこの世に来られたこと」が「真実で、そのまま受け入れるに値する言葉なのだ」ということを強く証ししているのです。

このようにパウロは「私ほど罪深い者はいない」…そう言っているのです。謙遜にそう言っているのではありません。それは過去だけでなく、今の自分をもそう捉えていることから分かります。ここには「罪人の中で最たるものです」別の訳では「罪人のかしらです」となっていますが「現在形!」で書かれているのです。つまり昔も今も、ずっと罪人のかしらだ、自分ほど罪深い人間はいないと宣言しているのです。

日々キリストとともに歩む信仰者は、「自分の罪の大きさ自覚するようになる」といわれます。ある牧師は「光に近づけば近づくほど自分の陰の長さに驚くように、神に近づけば近づくほど自分の罪の大きさに圧倒されてしまうのと同じだ」と表現していますが、私もまさにそう思います。神を知れば知るほど、近づけば近づくほど「自分が、自らの力では救うことができない罪人である」ことが分かるようになるのです。

しかしながら、私自身は「自分が罪人のかしらだ」と思えているかたいうと、正直思えていない自分があるなと感じます。「罪人だとはおもうが、あの人よりはマシだ…」と思ったり」することがどうしても無くならないからです。

でもパウロが「私は罪人のかしらです」といったこの告白は、きっと「他の人のことなど関係ない。ただ、こんな者が救われたのだ」という感謝と感激に満たされているとき、人と比較したり、人に不満を持つということから解放されるのではないか、と思います。

道のりは険しいですが、私もだんだんと「人がどうではなく」「自分の罪が赦されている、そのことを一番に喜べる者に変わりたいと願っています。

一人ひとりが「自分は罪人の中で最たるものだ。自分は罪人のかしらだ」と受け止める時、それが教会全体の力になり、福音宣教の一歩前進がなされることを信じています。

最後に16節と17節を読んで終わりましょう。(※皆様、目で追ってみてください)

この部分で、皆様に最も注目していただきたいのが16節の「手本」ということばです。

皆様、「手本になる人」という、優秀な人、人間的な成功を収めている人が思い浮かぶことでしょう。でも、ここで聖書がいっている「手本」は意味合いが少し違っています。そのことを少し掘り下げてメッセージを閉じさせていただきます。

この16節は、「最たる罪人である自分が、それでも神から恵み・あわれみを受けた理由」がパウロ自身の解釈として述べられています。

神の子イエス・キリストに反逆していたパウロが、それでも神から、そして御子キリストからあわれみを受けたのは、なぜなのかというと…それは「この後、イエス・キリストを信じ「罪を赦され救いに与り、永遠のいのちを得ようとしている人々の手本にしようとされた」という理解なのです。だからこそまず自分に対してこの上もない寛容を示してくださった、というのです。

あのパウロが救われたのだから、あなたが救われないはずがない!だから「あの十字架で死なれ、復活された神の子イエス・キリストが自分を罪から救い出す救い主だということを、そのまま受け入れるに値するのだ」ということを示すための「手本・見本」なのだ、といいます。 

今回この箇所を深く学んでいて「わたし隅野徹も、キリストは罪人を救うために来られたということが、そのまま受け入れるに値する」ということを示す手本として用いていただけるのではないか、ということを思いました。

努力して、手本になるのでありません。自分の罪を認め、その上でキリストを信じ頼るなら「だれでも救われます」し、だれでも「手本に成れる」のです。

ある意味で「多くの人の手本とする」そのために、神は特別に罪を赦し、救いの約束、永遠の命の約束を一人ひとりに与えて下さるのではないでしょうか? パウロだけが特別なのではありません。ここにおられる皆様も、「手本となってほしい」そのことを神は望んでおられるのだということを感じていただけたら幸いです。

わたしのような者でも、イエス・キリストは救うことができる。だから「イエス・キリストを、罪人救うためにこの世に来られた神の子救い主であることを、そのまま受け入れてみませんか?」そのように自分らしく証しすることができるなら、この教会にも新しい方々がつながり「天を指し示す教会」として歩むことが出来る。

そのように信じて一歩を踏み出す教会になることを願います。(祈り・沈黙)