7月20日 聖霊降臨節第7主日礼拝・創立記念礼拝
「ただ一人の仲介者」隅野徹牧師
聖書:テモテへの手紙一 2:1~7
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今朝は今日の礼拝は「山口信愛教会の創立記念礼拝」として持たせていただきます。
いまから128年前の1891年、明治でいうと24年、アメリカ人宣教師のミス・ケイト・ハーラン女史らが、英語や裁縫の学校を開いて、青年男女を集めて、この山口で布教を開始しました。そして同じ年1891年の7月20日、まさに134年前の今日!12人もの青年がイエス・キリストを救い主だと告白し、洗礼を受け、最初の教会員が誕生したのです。
山口信愛教会では、この1891年7月20日を教会の創立日として記念しています。
前にもお話ししたことがありますが、建物が立った日や「与えられた日」ではなく、キリストを「自分を罪から救い出してくれる救い主」として信じて公に告白し、そして洗礼を受ける人が起こされた「その日を」創立記念日にしているのです!
この「どこを創立記念日としているか」ということは「山口信愛教会とはどんな場所か、何のために誕生した所か」ということを私達に再確認させてくれます。
キリストを信じて罪から救われたい、と願い「洗礼を受ける人が起こされてはじめて!」つまり「教会員がうまれてはじめて!」教会は教会として立つことができるのです。
山口信愛教会は「毎週一回、仲が良い人たちと会いたいという理由で、なんとなく人が集まる集会所」ではなくて、「罪から救われて、神と共にいきたい」という思いを持った人たちが集う場所として、また「そのような思いを新たに持つ方が、つながる場所として」134年間、主なる神がその歩みが続くことを許してくださっている場所なのです。
134年まえの「教会創立を覚えて」礼拝を持ちます。4つある聖書日課の中から「Ⅰヨハネ2章1~7節」を選びメッセージを語ることにしました。
教会が教会として歩んでいくために大切なことを心に刻みましょう。
まず導入として、この聖書箇所の背景をお語りします。
テモテへの手紙は、当時の教会を「異端の教えから守るように」とパウロが「若い牧会者テモテ」にむけて書いた書簡が聖書の言葉になっています。2章は、テモテに対し「牧会者として何を大事にしていくべきか」その基本的な指針が語られています。
1節から3節を読みます。
ここでは祈ることの大切さが語られています。
祈ることですが1節では「願い」「祈り」「とりなし」「感謝」と四つのことばで言い換えられています。祈り以外に「願うこと」「執り成すこと」「感謝すること」という言葉がでますが、これらが「どういう祈りをするのか」について教えてくれているように私は感じます。
つまり、祈りとは「日々神からあたえられているものに感謝をささげ」そして「こうなってほしい」という自らの願いを神に対して伝えるものです。
そして「執り成す」ことなのです。執り成しとは「神とある人との間を取り持つ、仲介する思いを神に伝えること」です。
2節でパウロは、特に、王たちと高い地位にあるすべての人のために祈ることを勧めます。この時代、王位にあったのは「自ら神のように振る舞い、多くの命を傷つけ殺した皇帝ネロ」でした。しかし、そんなネロのためにも「執り成しの祈りをする」ように勧めるのです。
そのことは「神の御前に良いことであり、喜ばれることだ」と3節であります。
(ちょうど今日は選挙があります。そのこともあり…)この先の日本、また世界の行く末を案じていらっしゃるかたも多いと思います。
私たちは、クリスチャンとして「国家や為政者のやることに対して、流されるのではなく、神の御心から外れていないか、しっかりと見張り、自分なりの考えをもっておく」ことが大切です。
しかしそれを行動としてどう表すかはとても難しいです。
2週前のメッセージに語ったように「同じ人間に対し、嫌悪したり軽蔑したりする」ということを神はお許しにはならない、「すべての人間と神にあって和解することを求めておられる」ことをいつも心に留めるなら…人に何か言うことよりも何よりも、まず「執り成しの祈りをささげる」ことになるのではないでしょうか。
このテモテの手紙がかかれた時代、教会で異端の教えが流行ったのは、ネロの迫害などによって「世の中に生きづらさ」が満ちたことも要因だと私は考えます。
そのために「現実主義的な」聖書本来の協議を曲げるような教えが氾濫してしまったと考えます。
その後の教会の歴史では、世の中が混乱した時に、教会の教えが歪んでしまう、曲がってしまうということが実際、繰り返されています。
そのような混乱の中で、教会を牧するテモテには「為政者に対し色んな感情があった」と考えるのが普通ではないでしょうか…
しかし、パウロはテモテに対し敢えて「王たちや、高官のためにも祈りをささげなさい」と勧めているのです。
わたしはこの言葉はまさに今のわたしに語られている!と感じました。
人のせいにしないで、人に不満をいうのではなくて、まず神に心を向け、落ち着いて祈ることこそ、今の自分に必要なことだと示されました。またそれは「134年の歴史で経験したことを生かしつつ、山口信愛教会がこの先に向けて歩んでいくために必要なことであるとも示されています。
世界の為政者や、日本の政治家に対して様々な感情があります。その人たちのために祈るなんてとてもとても…と思ってしまうこともありますが、しかし大切なのは2節の後半にあるように「わたしたち」つまり「主にある信仰の友たち」が、信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活ことです。
自分の感情は一旦わきに置いて、まず神に心を向けて「為政者たち」もちろんそれだけでなく「世界中の人を一人でも多く覚えて、祈りたい」と思います。
次に5~6節を味わいます。後に回す4節は最後によみます。
(※では5~6節をよみます)
パウロは、「神は唯一です」と断言しています。唯一とはこの方だけという意味です。
神はただ一人であって、聖書の神以外には存在していません。日本では昔から八百万の神といって八百万の神々がいると信じられ、曖昧な方が受け入れられやすいのですが、聖書は「神はただ一つである」とはっきり伝えています。
そして今回の箇所の5節には、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです、とあります。この神の御許に行くことができるための仲介者も唯一であるということです。
神と人との間をつなげることができるのは、人間となってこの世にこられた神の子イエス・キリスト以外にはいません。イエス・キリストは人として私たちと共に生きて下さったあと、私たちの罪を負って十字架で死んでくださいました。その後復活され、天に昇られ、罪深い私たちが罪から救われ「天にて永遠の命を生きることのできる道」を切り開いてくださいました。このような仲介者は他にはいない…聖書全体で証されている子の真理が、今回の箇所Ⅰテモテ2:5~6で表されているのです。
さて先週、平野正行兄弟の転入会式を執り行い、「山口信愛教会の教会員としてお迎えできたこと」は大変大きな喜びでしたが、その転入会式の「式文」の中心に据えられていたのが「日本基督教団信仰告白」です。この信仰告白を告白する人が仲間に加えられるだけでなく、教会の歩みが「主の御心が外れないためにも」中心に据えられてきたものなのです。
最後にそのことを皆様とともに少しだけ学びつつ確認したいと願います。
皆様、交読文の中に挟まれている「黄色い紙に記された、日本基督教団信仰告白」をお出しいただけますでしょうか?
2段落目の言葉に注目しましょう。「主イエス・キリストによって啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父子聖霊なる 三位一体の神にていましたもう。」という言葉が出ますが、これを私たちは「信仰告白」として唱え続けてきた教会なのです。
つまりは「八百万の神がいる」と信じられているこの日本の山口で「神は唯一だ」ということを告白し続けたのが山口信愛教会の歴史であるといって過言ではないのです。
134年の間、激変の時代にあってこの告白に立ち続ける、これを「ぶれずに」伝え続けるのがいかに大変だったかは、皆さんすぐに想像がつくと思います。
その原動力はなにだったのでしょうか?
私は思います。もしも「自分のことだけを考えて生きていく」なら、「唯一の神だけを信じて」ぶれずに生きることは難しいのではないか、と…
やはり、イエスが「教えの中心だ」と示された「神を愛し、隣人を愛す」ということがあってはじめて、「ぶれずに、神と共に歩み続けることが可能なのだ」と、私は確信しています。
最後に4節を今日のメッセージのしめくくりとしてご一緒にお読みしたいと思います。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる、その神の御思いを受け止められる…だからこそ、教会の歩みは、続くことが許されるのではないでしょうか。
山口信愛教会も、134年目の歩みを迎えることが出来ました。この先もその歩みを止めず、道から反れないために、「神は…すべての人が救われて、真理を知るように望んでおられる」ことを忘れずに行きましょう。(祈り・沈黙)