5月18日 復活節第5主日礼拝
「たとえ罪をおかしても」隅野徹牧師
聖書:ヨハネの手紙 一 2:1~11
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少し前に、ローマカトリックの新しい教皇が選ばれたことが大きなニュースになりました。キリスト教が社会に浸透していない日本において、「次の教皇が誰になるのか」関心を持たれたのは初めてのような気がします。それだけ多くの人にとって「教会組織のトップに立つ指導者が誰になるのか」によって、世界の情勢が大きく変わることを、身に染みて感じた人が多かったからだと思います。
規模は全く違いますが、私達山口信愛教会が所属する「日本基督教団西中国教区」のトップが誰になるのかの選挙も、この火曜日、水曜日の教区総会の中で行われます。今回の教皇選挙がそうであるように、教区も「だれが指導する立場になるのか」によって、教区全体の歩みは変わってきます。3人の者が教会を代表して、選挙に臨みますが、皆様もどうか教区総会の選挙に関心を持っていただきたいと願います。
その上で、主の豊かな導きがあるように、どうぞお祈りください。
さて、新しい教皇ルイ14世は、前の教皇の路線を引き継ぎ「戦争や貧困、飢餓の根絶」を早速訴えています。前教皇のフランシスコが、現在の経済システム、過度な商業主義に警鐘を鳴らし「他人を尊重する気持ちが欠如し暴力が増え、不平等が拡大していると懸念していましたが、それは「キリスト教界」にも、あたかも「経済力がすべてである」かのような拝金主義が入り込んできていることの表れではないでしょうか。その拝金主義が「弱者からの搾取、武器の売買での儲け」そして「紛争、戦争」につながっていると私は考えます。
今日の箇所のテーマの一つでもありますが、教会は祈っているから聖書を読んでいるから、その歩みは正しい…とは言えないのです。
現代の教会が「お金、経済力」といったものの悪影響をうけて「危うい歩み」になっているように、教会はいつの時代にも「すすむ道を間違う危険性」と隣り合わせであることを今日の箇所は教えます。
聖書日課で与えられた「ヨハネの手紙Ⅰの2章」から、教会につながる私たちが、その歩みを間違わないために何を大切にすればよいのか、をともに学んでまいりましょう。
まず、最初に今日の聖書箇所がかかれた背景の一端が分かる部分として、4節・5節を読んでみます。
神の掟を守る…という随分堅苦しい言葉がでているなと感じた方もあるかもしれません。しかし、この言葉をヨハネが語るのには理由があるのです。
実はその直前の「神を知っている」という言葉がカギになるのです。この神を知っているというフレーズは当時の教会で「頻繁に飛び交っていた言葉」なのだそうです。
「神を知る」というのは、「私は神について学んでいる、知識がある」と頭でっかちになった態度を指していたようです。 つまりは「神を心で信じ、受け入れること」よりも「神について、いかによく知っているか」という「知識偏重があった」のです。
先程、現代の教会、とくに欧米のプロテスタント教会は「拝金主義が、歩みを危うくさせている」と言いましたが、この聖書が書かれた頃の教会は「知識偏重、学問偏重」が教会の歩みを危うくさせていたのです。
その「学問偏重」が生み出したが「グノーシス主義」という「キリストの受肉を否定する」という考えだったのです。
確かに、神が「罪多き、私達人間とおなじ肉体をまとう」ということ、そして「十字架にかかって死なれたけれど、復活され、天に昇られた」というのは、学問では理解不能なことだと思います。
しかし、「学問で証明できない、理解できないから」といって、キリストの受肉そのものを「無かったこと、幻のようなこと」として理解してしまっては、教会の存在意義が全くなくなってしまいます。
このように「神を知ること、学ぶこと」をあまりにも重んじたために、道を誤った教会の信徒のために、ヨハネは「キリストを知るとは、本当は何なのか」を教えているのが今回の箇所なのです。
ヨハネは、「キリストを知るとは、頭で理解するだけでなく、キリストの愛と一体となることである」ということを、ヨハネの手紙全体で伝えますが、5節の言葉には、まさにそれが表れています。
神の言葉は、これまで語られてきた「神の掟・律法」だけでなく「神の御心全般を指す言葉」だと理解しますが、それを知ることは「神の愛の中に生きることなのだ」ということを教えます。 神の言葉は「ただ知識として知っているだけで留まることはない、生き方を変えるものなのだ」ということが、続く6節で語られます。
自分を罪から救うために、人間の姿をとり、私達と同じ人間として生きて下さったイエス・キリスト。この方が十字架にかかり死なれた後、私達に永遠の命を与えるために復活してくださった…それを知った者たちは、生き方が変えられる、そのような希望が語られると私は理解しています。
キリストのように生きなければならない、という命令ではありません。キリストによって「豊かに赦された恵みを知るものは」すこしずつ、キリストに似た者と変えられていくことを望んでいく、ということではないでしょうか。
私自身のことを話させてください。
若いころは、聖書が示す「キリストに似た者として生きていくことを」望んでいなかった時期が正直ありました。 先程もでましたが「知識や教養にあふれた人になること」だったり「稼ぐことだったり、財を持てる人」になることを目指すあまり、「自ら痛みを負って、隣人を愛する」といった、キリストの足跡にならう生き方を、正直「敬遠していた」ところがありました。
これでは、いくら洗礼をうけてクリスチャンになり、教会に集っていても、「今日の箇所がおしえるような、本当の意味でキリストを知る生き方」ができていなかったのは無理もないな…と、いまでは思います。
その後、年齢を重ね、たくさんの試練を経験する中で「キリストの足跡にならう多くの人から祈られ、助けられる」ということを知り、その背後で豊かに働く「キリストの愛、赦し、導き」といったものを実感したのです。
そして、「わたしも弱い者ではあるが、イエスさまのような生き方を少しでも追えるような、そんな人間に変えられたい」と思うようになりました。
いまだに私は、多くの罪やあやまちをおかします。それでも少しづつ「神と一体となって歩む人生」になっているのではないかと感じます。
大切なのは、「キリストのような歩みをする者に変えていただきたい」と思う気持ちです。現在がどうかとか、「可能か、不可能か」とか、人間の側があれこれ判断してしまうのではなくて「神によって、聖霊のはたらきによって、キリストに似た者に変えていただくことを望むか?志すか?」ということが大切なのではないでしょうか。
最後に「いまいったこと」と繋がった教えがなされている1節と2節を味わってメッセージをとじることとします。
1節と2節をご覧ください
最初の部分には「罪を犯さないようになるため」という目標、目的のようなものがでていますが、先ほどから繰り返しているように、人間がこの地上にいる間「何も罪を犯さない完全な人間になるのは無理」です。
聖書が教えるのは、わたしたちがすこしずつ「キリストに似た者に変えられる」ということですが、この部分にはそれが出てきています。
1節後半から「たとえ罪を犯しても」、という言葉を先頭に教えがなされますが、ここのおすすめが実に深いとおもうのです。
私は、ここを「次のような教えだ」と理解しています。私の解釈を紹介させてください。
「たとえ罪を犯しても、あなたのために罪の身代わりとなって下さった方がおられることを思い出すように。痛みを負ってあなたを罪から救い出して下さった、弁護者であり、正しいお方であるイエス・キリストによってあなたは生かされているのだ。
だから、そのキリストに似た者にあなた自身変えていただけるようにと、全知全能の神に祈りなさい。」
開かれなくて結構ですが、ヨハネによる福音書8章の「姦淫の罪で捕らえられた女性をイエスが赦される話」を思い浮かべます。
あの話でも、彼女を処刑しようとしていた人々が去り、イエスが「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたあとで「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われます。皆さんの中にも印象的な言葉として覚えていらっしゃるかたもおられるでしょう。
イエスは、姦淫の罪を犯した女性が、その直後から「罪を全く犯さない、完全無欠な人間になってほしい」と願われているのではないことはご理解いただけると思います。
彼女に期待されたことは、ヨハネの時代に「まちがった教えに揺れていた教会員一人ひとりに期待されたこと」とおなじです。そして、強欲がうずまく現代に生きる私たち一人ひとり、一つ一つの教会に期待されていることとおなじだと理解します。
わたしたちも、「イエス・キリストによって罪赦された恵み」を忘れず、そのイエスに似た者に少しでも変えられるように、祈り求めてまいりましょう。
わたしたちが犯す罪がすぐになくなるわけではありません。しかし、教会の歩みが「大きく主のみ旨から外れる」ということから守られると信じています。
(祈り・沈黙)