「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」3/27隅野瞳牧師

  月27日 受難節第4主日礼拝
「わたしはあの男に何の罪も見いだせない

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書18:38b~19:16a


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 本日の箇所では総督ピラトを通して、罪なき主イエスを十字架に追いやる罪の深さを見ることができます。3つの点に目を留めて、神の言葉に耳を傾けましょう。 

1.何の罪もない方が十字架につき、死ぬべき者が赦された。(38,40,4,6節)

2.救いと裁きについて一切の権限を持つ王の王、この人を見よ。(5,11節)

3.自分の罪に気づかない愚かな私たちのために、主は十字架に向かわれる。(15節)

 

 これまで過越祭を背景に、十字架に進み行かれる主イエスの御言葉にあずかってまいりました。ヨハネ18~19章には、主イエスの逮捕から始まって、アンナスとローマ総督ピラトによる尋問、それに続く主イエスの十字架刑と死、埋葬について記されます。本日の箇所は主イエスとユダヤ人との間で揺れ動き、最終的にはユダヤ人の訴えに屈するピラトが描かれています。

さて過越祭には、各地から巡礼に集まった大群衆がエルサレムを埋め尽くします。ローマの支配からの解放を求めて、新しい指導者を待望する民族主義的な思いが強まる時期です。ですから祭の治安維持のためにローマの一隊がカイザリアからエルサレムへ進駐しており、総督ピラトも滞在中でした。

過越祭の前に祭司長たちは主イエスを逮捕し、亡きものにしようとたくらみました。主イエスはユダヤの最高法院に連れて行かれ、神を冒涜したため死刑と判断されました。ユダヤ人たちは石打ちではなくローマの十字架によって処刑するために、総督ピラトに引き渡しました。神を冒涜したという宗教的な罪ではローマが取り合ってくれないので、ユダヤ人たちは主イエスを「自分を王と自称した」ローマに対する反逆者として総督に訴えたのです。しかしピラトが主イエスと対話して明らかになったのは、主イエスの王国はこの世界に属するものではなく、ローマに対する反逆の意図などないということでした。

 

1.何の罪もない方が十字架につき、死ぬべき者が赦された。(38,40,4,6節)

「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(38節) イエスには死刑にしなければならないような罪状は認められないと、ピラトはユダヤ人たちに言いました。けれども過越祭に一人の囚人を釈放する慣例があるから、もしお前たちが有罪と考えるのであれば、その慣例によってイエスを釈放してはどうかと妥協案を持ちかけました。

しかしユダヤ人たちは強盗バラバの釈放を求めたのです。「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。」(40節) 他の福音書の並行箇所には、バラバの罪が暴動と殺人であったと記されています。おそらくバラバはローマの支配に抵抗するテロリストの幹部であったのでしょう。こういう運動はわかりやすく、群衆の心に訴えます。群衆はバラバのように力によって解放を成し遂げる救い主を求めており、それとは真逆に見える主イエスに失望したと考えられます。

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:21)ピラトは主イエスを何とか助けようとして恩赦の慣例を持ち出しましたが、結果はバラバを釈放することになってしまいます。ところがこの出来事が、主の十字架によって、死ぬべき者であった私たちが赦された恵みを示すことになりました。バラバは私たちの代表なのです。バラバはバル・アッバ、「お父さんの子」という意味です。主イエスは神のことをアッバと呼びました。主イエスを信じる時に、死ぬべき罪人の私が赦されるだけでなく、天の父の子とされ、御子と共に「父よ」と呼ぶことのできる親しい関係に入れていただけるのです。

ピラトは主イエスを門の外にいるユダヤ人たちに見えるところまで連れて行き、兵隊たちに鞭打たせました。兵士たちは主イエスに茨の冠をかぶせ、王の服に見、立てた紫の服をまとわせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って平手で打ちました。ピラトは、侮辱されボロボロになった主イエスを見せることで、ユダヤ人たちに「もう十分だ」という思いを持たせ、イエスを釈放しようとしたのです。

 

2.救いと裁きについて一切の権限を持つ王の王、この人を見よ。(5,11節)

兵士たちに打たれた主イエスをピラトは引き出して「見よ、この男だ」((5節)と言いました。しかしユダヤ人たちは惨めな姿のキリストを見た上で「十字架につけろ」と叫びました。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。」と言うピラトにユダヤ人たちは、自分たちの律法によれば、主イエスが神の子と自称したという罪を犯したので死罪だと迫りました。

 ピラトの言葉は「見よ、この人だ」という方が元の意味に近いです。この言葉を読みますと、イザヤ書53:12「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」が思い浮かびます。キリストの十字架は、イザヤ書52~53章の預言の実現です。かつての面影もないほどに傷つけられた主イエス。その方を前にしながら、なおも狂ったように叫ぶ人々。自分の罪深さも神の愛も知らずに、神の名を用いてさえも正義を主張する私たちの姿がここにあります。しかしキリストが打ち砕かれたのは、私達の罪を負うためでした。

ユダヤには、重い罪を犯した者に対して石打ちの処刑がありました。しかしユダヤ人たちは石打ちではなく、十字架刑を求めていました。木にかけられた死体は神に呪われたものでした(申命記21:23)。ユダヤ人たちはこの「木」を十字架に置き換え、ローマ法に基づく十字架刑は、神によって呪われた者に対する処罰と見なしていました。つまり「十字架につけよ」は、「永遠に神から見捨てられた者として扱え」という叫びなのです。しかし主イエスは十字架で私たちが受けるべきだった呪いを受けてくださいました。そのことによって私たちは神に受け入れられ、神の救いの祝福に与るものとされたのです(ガラ3:13)。

群衆の中には数日前に、「ホサナ」と叫びながらなつめやしの枝を持って主イエスを歓迎し、エルサレムに迎え入れた人々もいたでしょう。しかしこの時の状況は、ユダヤ人権力者たちの声に同調しないならば命の危険もあるようなものだったと思います。群衆は自分で判断することなく大きな波に飲み込まれ、主イエスを「殺せ」と叫びました。彼らは自分の罪も、さらし者にされたこの主イエスが、ほかでもない自分たちのためにこれから死んでくださることも知りませんでした。

主イエスこそ、罪のないまことの人であり神である方です。ピラトは傷だらけのみじめな主イエスを示します。しかし私たちは主が私たちの罪のために虐げられたことを知っているがゆえに、この人こそ私たちの王であると告白します。私たちは誇りをもって「この人を見よ」と、イエス様を知らない多くの人々に呼びかけるのです。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(Ⅰコリント1:23)

「神の子と自称したからです。」(7節) これを聞いたピラトはますます恐れました。主イエスとの対話において、既にこの男がただならぬ存在であることを感じていたのでしょう。ピラトは主イエスのところに戻って尋ねました。「お前はどこから来たのか」。しかしこの問いに主イエスは答えようとされませんでした。主イエスとは誰かという問いは、私たち一人ひとりが聖霊によって悟らされることだからでしょう。

「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」とピラトが言うと、主イエスはV.11神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。とお答えになりました。この世的に見るならば、ピラトはその権限をローマ皇帝から受けたのです。しかし、ピラトも彼を訴えているユダヤ人たちも、実はもっと大きな神の権威のもとに許されてあるのです。神の権威によって遣わされた主イエスに対して、ピラトは本来何の権限も持ちません。神がお許しになったから、彼はその地位と権力に留まることができているのです。

ピラトが今主イエスを裁いているのは、ユダヤ人たちが主イエスを彼に引き渡したからです。総督の地位と権力を与えられている彼は、主イエスを裁いて、釈放するか十字架につけるかを決めなければなりません。意図的であれやむを得ずであれ、無意識下であれ、罪を犯したことは事実であり、その責任は問われます。特にユダヤ人たちは神の選びの民であり、律法を与えられて神の御心を知らされていました。またユダヤ人たちは主イエスの御言葉を聞き、その行いを見た上で、主イエスを殺そうとしました。ですから主はv.11わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。と言われたのです。

ピラトはイエスを釈放しようと努めましたが、ユダヤ人たちは叫びました。王だと自称しているイエスを無罪とするなら、あなた自身が皇帝の支配を否定する者とみなされる、と脅したのです。この言葉にピラトは恐れを覚え、主イエスを裁判の席のあるガバダというところに連れ出しました。

「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」(14節) 「過越祭の準備の日」とは、過越の晩餐のために、犠牲の小羊を屠る、その用意が始まる時刻です。まさにその日に主イエスの裁判が行われ、十字架につけられたのです。過越の小羊が殺されることを通してイスラエルの民のへの裁きが過ぎ越されてエジプトから解放されたように、主イエスの十字架の犠牲によって、神が私達を無罪とし救いを実現してくださったことを、ヨハネは示すのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ2:29)それこそが、御子イエスの王としての権限でありました。罪があれば、自分の罪のために死ななければいけません。罪がない御子だからこそ、その死によって私たちの罪を取り除くことができるのです。

 

3.自分の罪に気づかない愚かな私たちのために、主は十字架に向かわれる。(15節)

ピラトは主イエスを裁判の場に引き出して、ユダヤ人たちに「見よ、あなたたちの王だ」と言いましたが、彼らは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫びました。「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言ったピラトに対し、なんと祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えたのです。

主なる神を王とし、自分たちは主の民であるという信仰にユダヤ人たちは生きてきました。ですから彼らは異邦人による支配に激しく抵抗し、神の民としての誇りを守ろうとしてきたのです。それなのに、神への礼拝を司る祭司長たちが、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言ったのです。これこそ神への冒涜です。自分の欲望を達成するために、簡単に神を利用し、捨て去ってしまう。「わたしたちには律法があります」と語りながらも、現実は主を主としていない腐りきった現実が明らかになりました。それが心からのものでなかったにせよ、言葉に出すことは責任を伴うことであり、神を自分から退けたことになるのです。ピラトの言う「罪」は、ローマ法のもとでの犯罪、犯行、罪状のことです。しかし祭司長たちは神の前に霊的な罪人であったのです。

こうしてローマの総督ピラトによって、主イエスの十字架刑の判決が下されました。ピラトは主イエスに罪が無いことは分かっていましたが、ユダヤ人たちの声に従わなければ、彼自身がローマ皇帝への反逆罪として訴えられてしまいます。彼は主イエスを自分の保身のために、ユダヤ人たちに引き渡しました。

 世界は、私たちを超える悪しき力に動かされています。油断すれば、世の大きな流れの渦に呑み込まれてしまいます。御心に生きることが難しい世にあって、何らかの決断をしなければならない時も来るでしょう。しかし流されてではなく、祈りのうちに主に問うことから始めなければならないと思います。

「殺せ。殺せ。十字架につけろ。…そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。」(15~16節) 主イエスを十字架につけるよう求めた者は直接的にはユダヤ人たちですが、彼らを扇動していたのは、祭司長など宗教の専門家たちです。信仰をもつ人間の責任、神様の意志を知っている者の責任を思わされます。

そして先ほどお話しましたように、名前の出てこない人たちが、ここにはたくさんいます。この裁判を遠くから見ていた人たち、この成り行きを快く思っていない人たち。しかし、そこで何も言えなかったのです。主イエスの十字架への道は、ユダヤ人支配者たちの嫉妬だけではなく、真理を見つめないままに世の大きなうねりに翻弄されてしまった人間の愚かさ、弱さ、罪によるのです。

使徒信条で、イエス・キリスト以外に固有名詞が出てくるのは、母マリアとポンテオ・ピラトだけです。使徒信条というのは、これ以上削ることはできない最小の形で、キリスト教の信仰を言い表したものです。アブラハムもモーセもイスカリオテのユダも出てこないのに、なぜピラトの名前が出ているのでしょうか。いろいろな理由があると思いますが、まず歴史上確認できる彼の名前によって、主イエスの十字架という出来事が歴史上確かに起きたことであったということを確認するためです。このピラトによって主イエスの十字架は決定され、実行されたということです。上に立ち、正しい道を選択することや命を救う権限を持っている者の責任の重さが現れています。

ピラトはローマの総督、異邦人です。ユダヤ人の訴えに基づいて総督ピラトが十字架刑を執行したとは、ユダヤ人だけでなく異邦人も主イエスを十字架につけたということです。つまり、聖書を知っていた者も知らなかった者も、すべての人が罪を犯し救いを必要としているのです。私達が大事な選択をする時に、私たちの心に神の声が呼びかけ、真理はここにあるとはっきりわかることがあります。しかし私たちは人の声に、サタンの声に追い詰められ、聞き従ってしまいます。その時私たちもピラトと同じく、本位でなかったにしても主を十字架につけたのです。

しかし私たちは、殺気立ったユダヤ人たちの前で「この男には罪を見いだせない」と3度もピラトが告白したことを、しっかり心に留めたいのです。そしてこの私をも愛し、真の信仰告白に至らせてくださる主により頼んでまいりましょう。主の執り成しに支えられて。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

 

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