「わたしはいつもあなたと共にいる」1/4 隅野徹牧師


  1月4日 降誕節第2主日礼拝・聖餐式

「わたしはいつもあなたと共にいる隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 28:16~20

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 本年も聖書の御言葉から「私たちの生きていく指針」を得て歩んでまいりましょう。

新年一度目の主日礼拝で私が説教箇所として選んだのがマタイによる福音書の最後の部分です。

昨年は多くの方々が天へ旅立たれたり、また教会に来られるのが困難になったりし、随分礼拝出席者も少なくなりました。そんな現状の山口信愛教会の「新しい年の一回目」にふさわしい御言葉がここにあると感じたからです。

ここは「キリストの復活の物語」の箇所ですが、イエスが十字架にかけられ、復活された都エルサレムではなく「ガリラヤ」が舞台となっています。

ガリラヤとはガリラヤ湖の西側一帯の地域を指す地方の名称でした。そこには弟子たちの故郷があります。そして彼らが初めてイエスと出会い、召されて弟子となり、初めて宣教した場所があったのです。

つまり復活されたイエスと弟子たちの再会を「信仰の原点に帰った」という視点で描いているのです。わたしたちも、新年最初の礼拝で信仰生活の原点に立ち返るつもりで、神・キリストから私たち一人ひとりに託された「言葉」としてこの箇所を味わってまいりましょう。

「ガリラヤでの」復活のイエスと弟子たちとの出会いの場面の最初の16節、17節を見ましょう。

ガリラヤの山に登った弟子たちは、そこで復活したイエスに会ったのです。ただ会ったのではなく「ひれ伏した」のです。これは復活されたイエスを「神として礼拝した」ということを表しているのです。

会った場所が「山」であったのですが、山というのは、旧約聖書以来「神を礼拝する場所」という意味を持っています。

しかし17節で「その場面でもなお、疑う者もいた」ということが記されているのです。

マタイによる福音書には記されていませんが、他の福音書の内容からみて「この前にエルサレムで復活のイエスに会っている」ことは間違いないと思います。それなのに「疑った」とあるのです。その理由についてはいろいろ推測されてきますが…わたしは単純に「信じることと疑うことを行ったり来たりする、そんな人間の弱さが表されている」と思っています。

私たちを救うため、この地上に来てくださり、私たちとともに生きて下さった神の独り子、イエス・キリスト。このお方は私たち一人ひとりの罪を背負って十字架で死んでくださったあと、復活し、私たちのために「永遠の命に至る道」を開いてくださったお方です。

このお方は、天へと昇られ、天の上からご自身の霊である「聖霊」を送り、わたしたちと共にいて下さるのですが…「疑うことも」あるのが、私たち一人ひとりであると思います。

復活の救い主「イエス・キリスト」がわたしたちと一緒に歩んでいて下さることは「自分の心の中に聖霊が働かなければ、確信することができない」ものであります。聖霊は、自分の思いや考えで凝り固まっているとき、心の中に入ることができません。「変わらずに傍らにいてくださるイエス・キリスト」を感じるために、まずは「心謙って、畏れの気持ちをもって」神に心を向けましょう。

このように「弱さをもつ、わたしたち人間を投影して描かれたような弟子たちの姿」なのですが、続く18節19節20節からは「イエス・キリストは自らわたしたちに近づいてくださるお方」であることが描かれます。ここを味わって、メッセージの締めくくりといたします。

18節をご覧ください。ここを見ると「イエス自らが近寄ってこられた」とあります。山に登って礼拝はしようとしている…けれども、まだどこか疑っている、そんな者たちが持つ「微妙な距離感、溝」を復活の主は自ら近寄り埋めて下さるのです。愛と謙りに満ちたお姿を見て取れます。

そして言われた言葉が18節後半です。「私は天と地の一切の権能を授かっている」。

一言でいうなら!「私は万物の支配者で全知全能だ」ということをおっしゃっているのです

復活されたイエス・キリストは、私たちを苦しめ悩ませる死の力さえ打ち破る力ある方であるということが最も大きなメッセージだと私は思います。疑っていた弟子たちはどんなに励まされたでしょうか。

次に19節と20節の一つめの文です(※ここをよんでみます)

 「弟子」という言葉が出ます。これは「イエスの教えを聞き、信じ、主と仰いで歩む人々」のことです。そして「すべての民」という言葉が出ますが…これは文字通りの「世界のすべての人間」という意味とは少し違います

私達の罪のために十字架にかかり、死をうち破って復活されたイエス・キリストは愛のお方です。 あくまで私達が、「自分の意思で!」救い主と信じ、そのしるしとして洗礼を受け、新しく生きる者になってほしい、と望んでおられるのです。

先日、洗礼を受けられた奥津律子さんは、まさに「神・キリストの愛の招きによって、自らの意思で洗礼を受けることを決心され、そして新しく生きる者となられた」のです。さっそく教会の中に新しい風を吹かせて下さり、そして「新しい命をいただいたものとしての生き生きとした証し」を立ててくださって、本当に感謝します。

神・キリストの深い愛の招きは、奥津律子さんに続いて「洗礼に導かれる方々」をきっと生み出して下さるだろうと信じています。 

19節では「すべての民」という言葉をイエス・キリストがあえて使われています。

これは、「国籍、民族を超え、すべての人を救いたい」というイエス御自身の「愛による願い」なのではないでしょうか。 すべての人はキリストの愛による救いに招かれているのです。

新しい年、多くの方が「父と子と聖霊の名によって洗礼を受けられるように」教会全体で、心を合わせてお祈りしてまいりましょう。

わたしたち一人ひとりは皆、「神の子イエスが十字架で身代わりに死んでくださるに値しない小さき者」であります。しかし!それでも愛によって特別に救いに招かれていることを改めて覚えましょう。

その「喜び・恵み」を感じたなら、自分だけで留めるのではなくて、他の人にそれを分かち合ってまいりましょう。そして「年齢など違いを超えて、互いに愛の中に生きて」まいりましょう

そして20節の二つ目の文では「死に勝利されたイエス・キリスト」が「私達と共にいて、支えてくださる」ということが教えられているのです。

イエス・キリストはノルマ的に「信者を増やしなさい」とは全く仰っていません。その源泉は「愛です」 主が「すべての人を罪から救おうと愛をもって招かれたように」私たちにも愛をもって「まだイエス・キリストを知らない人を、愛をもって救いの道に導きなさい」と仰っているのです。

皆さんは、キリストを知らない人に対し、教会に誘われたりしたことがあると思います。また「キリスト教が何を大切にしているのか、聖書が何を教えているのか」など、当然お話しになった機会がおありだと思います。

その時の記憶を思い出して下さい。きっと「簡単に通じた」とか「簡単に誘えた」ということは全くないのではないでしょうか?

きっと、「簡単ではないから、もう伝えるのはやめよう…」という気持ちになった経験があるとおもいます。愛をもって「キリストのもとに人をお招きする」というのは本当に労苦の伴うものです。きっと、何年にもわたる「陰での祈り」があってこそ、はじめて相手が主のもとに導かれるものだと…わたしは実体験から思うのであります。

しかし、今日の箇所は大切なことを私たちに教えるのです。神・キリストは「自分だけで導きなさい」と命じておられるのではないのです。罪もある、欠けもある、そんな私達と共にいて、一緒になって「多くの人を罪から救い、ご自分に倣う生き方」に導こうとなさっているのです。  

弱く疑いやすい私たちに対し、「私と一緒に愛の業をなしていこう」と勧めておられるのです。そのために必要なのは「聖霊の働き」であり、その聖霊に満たされるためには「遜り」が必要です。 一年の初め、皆様どうか「こんなわたしをも神はお救い下さった」という「信仰の原点」にもどり、こころ新たに「主の業」を共に担わせていただきましょう。 (祈り・沈黙)