10月10日 聖霊降臨節第21主日礼拝・神学校日礼拝
「イエスの与える食べ物を刈り入れるために」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書4:31~38
説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。
今日は神学校の働きを覚えて1年に一度まもる「神学校日礼拝」です。
山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいますが、9月に有名な「サマリアの女」のお話しの箇所を3回に分けて読みました。その中で飛ばして読んだ4章31~38節を今回の「神学校日礼拝」の聖書箇所として選びました。
題に「イエスの与える食べ物を刈り入れるために」と付けた通り、今回の箇所は前半の31~34節で「イエスの与える食べ物について」教えられ、後半の35節~38節では「イエスの与える食べ物の刈り入れ・収穫」について教えられます。
初めに、この「食べ物」と「収穫」のことで、少しだけ私の「神学校入学」の時の話をさせて下さい。
私は2003年春に、勤めていた旅行会社を辞めて、神学校へ入学しましたが、その「献身」の思いが与えられたのは、1年前2002年春でした。その1年の間は、「自分の献身の思いが確かかどうか」を確認するよい時間になりました。
牧師・伝道者がどんな仕事なのかよく分かっていない同僚や友人にはよくこんなことを言われました。「牧師になって、本当に食べていけるのか?」中には本当に心配して「霞を食って生きていくつもりか?」というようなことを言ってくる人もいました。
実際には大変なことはたくさんありましたが、食べることに事欠くということは経験していません。家族も支えられています。山口信愛教会をはじめ、前任の二教会の皆様が必死に牧師家庭を養って下さっているおかげです。改めて感謝を申し上げます。
美味しいものをしっかり食べさせていただき、立派な牧師館に住まわせていただき、何一つ不自由なく生活させていただける今の生活にただ感謝しかありませんが、実をいうと!献身を決意したときはもっと厳しい生活状況を覚悟していました。食べ物でいうなら「3食、納豆ご飯でも、食べられるならそれでも感謝する」そんなことを思っていました。その思いを支えていたのがヨハネ6章27節の言葉でした。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
目には見えない食べ物にこそ本当の喜びが隠れている。そして「美味しいものを食べる喜び」もあるのだけれど、その喜びを超える「神にあっての収穫の喜びがあるのだ」ということを聞き、信じていたからこそ、私は飛び込んでいけたのだと思います。
美味しいものがいただけることに「少し慣れてしまっている私が」、今日の神学校日礼拝で「もう一度献身の原点に帰ること」を思い出させていただき感謝です。
献身者、つまり神学校入学者が激減した今日この頃です。献身者不足は個人の問題ではなく、また「単に若者が減っているから」ではなくて、日本のキリスト教会全体の問題であると私は理解します。
献身者が生まれる、また受洗者が生まれるときは、教会全体の空気が「活気に満ちたものになっているときだ」とよく言われます。今日私たちは「イエスの与える食べ物の刈り入れ・収穫」について本気で考え、霊的に高められるときにしたいと願います。
まず31節~33節を読みます。
イエスが「サマリアの女」と対話されていた時、弟子たちは食べ物を買いに町へ行っていました。その弟子たちが帰って来て、「先生、食事をどうぞ」と言いました。するとイエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃいました。弟子たちはこのお言葉にとまどい、「別のだれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言ったのです。
ここで弟子たちが思っている食べ物とイエスがいわれる食べ物は明らかに食い違っています。サマリアの女の箇所でも、「私はあなたに、永遠の命に至る水を与えることができる」とおっしゃったイエスの言葉を、女は最初「目に見える水だ」と勘違いするという場面がありました。ここの弟子たちの勘違いもそれとほぼ一緒です。
言葉の意味がわからない弟子たちにイエスがその本当の意味を示されたのが34節です。(※ここも読んでみます)
分かりにくいですが、ここでイエスがおっしゃっていること、それは「ご自分与える食べ物とは、父なる神の御心を行い、父が自分に与えて遣わして下さった使命を果たすことだ」ということなのです。
今回の箇所の少しまえのヨハネ3章16節、信愛教会の礼拝では8月にとりあげた「聖書の中で最も有名な聖書箇所」ですが、次のような言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここに、天の父なる神が独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになった「御心」が表れています。
「人間は皆、神と隣人に対して罪を犯していて、その罪のゆえに本当は裁かれ、滅ぼされるしかない。しかし御子イエス・キリストを信じることによって、滅びから救われて永遠の命を得られるようになる」それが「神の愛の御心」です。この目的のためにイエス・キリストはこの世に遣わされたのです。それを行うことからこそイエス・キリストは、神の子、救い主なのです。
私たちにも同じことが言えるのです。「神がご自分の御心を行い、ご自分の業を成し遂げる者としてこの世に送って下さった御子イエス・キリスト」に倣って生きることが、本当の意味で充実した、喜びのある人生なのです。その生き方を「本当の食べ物」としてイエスが表しておられることを、まず受け止めましょう。
つづいて後半の35節から38節です。ここでは、イエスが与えられる「本当の食べ物」を受け取った人が、イエスを救い主だと信じる、そのことを「刈り入れ・収穫」という言葉で表しておられるのがここです。 まず35節を読みます
イエスが弟子たちに話された「刈り入れまで、まだ4か月ある」という言葉。これは、当時のイスラエルの実際的な格言なのだそうです。どういうことかというと「種まきをしてから、刈り入れまでは4か月かかる。その間は焦らないでいこう」というような意味だそうです。しかしイエスは仰います。「刈り入れの時期はすぐに来るのだ」
これには次のような意味があります。「目に見える食べ物の収穫がいつ頃になるかは、人間が予測を立てることができる。しかしイエスの与える食べ物によってイエスを救い主だと信じることによって生まれる収穫は人間が予測できないが、確かに豊かな収穫に与れるのだ!」
続く36~38節でイエスは「イエスの与えた食べ物がもたらす収穫」について、更に教えられます。(※では、この3節を読んでみます)
ここで教えられることの一つ目は、神はご自分で収穫されるのではないということです。「収穫のために」何人もの人を遣わすのだということです。
二つ目は、その収穫のために遣わされた多くの人が、時空を超えて共に収穫の喜びに与るのだ、ということです。
山口信愛教会でこの先なされる「救いの喜び」は、洗礼を受ける当人の喜びだけでなく、教会全体の喜びです。そして忘れてはならないのが、すでに天に旅立った方々にとっても「大きな喜び」なのです。
今年は創立130周年なので、この教会を信仰によって引っ張ってこられた多くの方々を思い出す機会があり感謝です。
この先、山口信愛教会で受洗者が与えられることは、今の時代の教会の功績では全くありません。それまで種をまいた人々の苦労が時空を超えて実る…それが「イエスの与えた食べ物がもたらす収穫」なのです。時空を超えて、先に旅立った方々とともに喜びあえる。これもまた天国の前味なのではないでしょうか。
以上が今日の箇所の流れでしたが、最後に「神学校日礼拝」としてメッセージの締めくくりをさせていただきます。 再度35節にご注目下さい。
ここでイエスは「すぐそこに!収穫のときが来ている」ということを話されるのですが、これは数週前にみた「39節以下の出来事」をあらかじめ預言されたものです。39節から42節では、サマリアの多くの人々が、女の証言を聞き、「ここに救い主がおられるかもしれない」という求めをもって、イエスのもとを訪ねてきた。そしてイエスの話を聞いて、多くの人が心から救い主として受け入れたという感動的な出来事が記されていました。
イエスは、ユダヤ人と断絶し、神の恵みから離れていたサマリアで、一人の女性に対して「真の水、まことの食べ物」を与えられました。それが、すぐに「実りとなり、収穫を待つ状態」となったのです。人間のだれが想像できたでしょうか?
私たちは、「種をまいても、実際に収穫にあずかるのは当分先のことだ」とか「種をまいても、どうせ無駄になる。私が収穫に与ることはない」などと諦めたり、冷めた態度でいないでしょうか?
私たちはこの世の様々な知識や自分の経験にすがり続けるなら、神の救いのみ業など見えて来ません。たとえ実現すると受けとめられても「それは遠い先のことだ、自分とは無関係だ」としか感じられなくなります。
しかし!イエスの食べ物に目を向けるとき、つまり「父なる神の御心を行い、父が御子キリストに与えて遣わして下さった使命、十字架での犠牲の死を果たす」ことに目を向けるなら、この世界が「本当はキリストによる救いを待っている状態なのだ、まるで色づいて刈り入れを待っている畑のようだ」と、違った見え方になると信じます。実は罪からの救いを待ち望んでいたサマリアの人たちと同じように、今コロナ禍にある日本の人々の多くも「本当は、罪から救われたい」と待ち望んでいると思うのです。
皆さまぜひ!共に収穫の喜びにあずかりましょう。そして最前線で「収穫のために働く」献身者がたくさん生み出されるように、神学校の働きのために祈ってまいりましょう。(祈り・沈黙)
≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫