2月23日説教
「イエスは、この上なく愛し抜かれた」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書 ヨハネによる福音書13:1~15
本日は、キリストに罪を清められた者として愛し仕え合うことが記されています。3つの点に目を留めて御言葉にあずかりましょう。
1.すべてごぞんじの上で、主は弟子たちをこの上なく愛し抜かれた。(1~2節)
2.主イエスにかかわっていただくことから赦しが始まる。(8節)
3.主がしてくださったように、互いに愛し仕え合う。(14節)
1.すべてごぞんじの上で、主は弟子たちをこの上なく愛し抜かれた。
今週水曜日から受難節に入ります。一足早いですが十字架に向かわれる主イエスの御言葉に共に聴き、その御跡を歩ませていただきたいと願います。
過越祭の前、最後の晩餐の席でのことです。主イエスは、父なる神のもとに帰る十字架の時が近づいたことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました。主イエスの教えや行動に反対するユダヤ教の指導者たち、また主流派であるファリサイ派の人々の敵意はピークに達していました。「この上なく」には「最後まで」と、「極限まで」という二重の意味が含まれています。人の本性は、ぎりぎりの状況に立たされた時に現れます。私たちはそのような時取り乱し、余裕を失って自分のことしか考えられなくなるものです。しかし十字架の死が刻一刻と迫る中で、日常的に接していた弟子たちは主の愛をますます強く深く感じ取っていました。それは主の愛がまぎれもなく真実であったということです。主イエスの愛の最大の現れは十字架にありますが、ヨハネはそれと同じものをこの時感じていたのです。
ところでこの上ない愛とは、いったいどんな愛なのでしょうか?それは、イスカリオテのユダと主イエスの関係から見えて来ます。イスカリオテのユダは、主イエスをユダヤ人指導者に引き渡す弟子です。それが主イエスの十字架の直接的な原因となるのです。ユダが裏切ることを、主イエスはごぞんじでした。知っておられたなら、彼を告発しおさえることもできたでしょう。しかし主は「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」(10節)と、裏切る者がいることを暗にほのめかしながらも名指しはせず、ユダが罪に陥るのを踏みとどまるよう促されました。彼がとうとうサタンの手に堕ちた時も「しようとしていることを、今すぐしなさい」(27節)と言って、出ていくにまかせました。
ユダだけでなく弟子たちはある意味で皆、主イエスを離れ去る者でした。3年間主と共に過ごし、その御言葉と御業、愛に触れながらも、御心に対して全く無理解で、自分のことしか考えない弟子たちでした。ユダだけがことさらに悪くあげられることが多いのですが、神の目には、外に現れ実行された罪も心に隠した罪も、同じく重いものです。この後主イエスが逮捕される時には、弟子たちは皆自分を守るために主イエスを見捨てて逃げ出しました。しかしそのような弟子たちであっても、主は彼らを極みまで愛し抜かれたのです。主の十字架の苦しみは、十字架刑そのものの悲惨さはもちろんですが、それ以上に、愛する弟子たちに裏切られる苦しみが大きかったのではないかと感じます。しかし主は、弟子たちそして私たちをも、罪と弱さを知りながら愛してくださいます(ローマ5:6~8)。
2.主イエスにかかわっていただくことから赦しが始まる。
さて十字架の時が迫っている中で、主は弟子たちと過越の前に、夕食を共にされました。過越祭とは、イスラエルの民がエジプトから救い出されたことを記念する祭です。かつてイスラエルの民は長い間エジプトで奴隷とされ苦しめられていましたが、神はモーセによってご自分の民イスラエルを救い出し、約束の地カナンに導いて下さいました。エジプト脱出の時に小羊がほふられ、家の入口に塗られたその血がしるしとなって、イスラエルの民は神の裁きを免れました。神の裁きがイスラエルを「過越した」ことから、過越の祭と呼ばれるようになりました。それ以来イスラエルの民は年に一度、家族やグループごとに集まり、神の救いのみわざを覚えて共に食事し、祈りと礼拝をささげてきたのです。
さて大切な祭の時にも関わらず弟子たちは、他の福音書によれば、誰が主を裏切るか、誰が一番えらいかという議論をしていました。弟子たちをご覧になっていた主は、夕食の席から立ちあがって上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました。そしてたらいに水をくみ、なんと弟子たちの足を洗って手ぬぐいで吹きはじめられたのです。当時は座りながら足を投げ出し、体を横にして食事をしていたと言われます。道は舗装されたものではなく、サンダルを履いていましたので、家に着くと足はほこりや泥だらけでした。普通はその家の奴隷が主人の足を洗ったり、子供が両親の足を洗ったりと、下の者が上の者の足を洗いました。一行が入った家には僕がいなかったようで、弟子たちは誰もほかの人の足を洗おうとはしませんでした。しかし主はここでご自身の方から、弟子たちの足を一人ずつ洗い始められたのです。
弟子たちは驚き、気まずい思いでなすがままに足を洗われていましたが、ペトロの番が来た時、彼は沈黙に耐え続けることができずに言いました。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。」(6節)聖書のもともとの言葉では、「あなた」が「私の」足を、と強調して語られています。それほど、通常ありえないことだったのです。私があなたの足を洗うのが普通なのに、ほかでもない主が、小さき私の足を洗ってくださるのですか…?とまどうペトロに主は、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」(7節)とお答えになりました。十字架と復活の後聖霊が降り、弟子たちは主イエスの洗足の本当の意味を理解するようになります。私たちもまた御言葉や出来事の意味を、その時がくれば聖霊がはっきり示してくださるのです(ヨハネ14:26、16:13)。
ペトロは足を洗っていただく気にはなれず、「わたしの足など、決して洗わないでください。」と断ります。すると主は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と厳しくお答えになりました(8節)。主が弟子たちの足を洗うという行為は、主イエスの十字架による罪の贖いを象徴しています。主がペトロに厳しく語られたのは、人間の罪の贖いにおいては、神が主導権を握っておられるということです。神が人の罪を拭うという方法でしか、罪赦され、神と共に生きる道はひらかれません。主イエスに足を洗っていただくとは、私たちの心の奥底にある汚さ、罪を洗い赦していただくことです。ペトロは恐れ多くて「足を洗わないでください」と言ったのだと思いますが、救いにおいてはそうではいけません。それは「主の恵みは必要ありません」と言ってしまうことなのです。
「かかわり」と訳される言葉は、相続財産を共有するという意味があります。主イエスを救い主として受け入れ、十字架の血潮によって洗いきよめていただいた者は、キリストと共に神の国を受け継ぐ永遠の命が約束されています。ただ共にいてくださるというだけでなく、主を信じて洗礼を受ける時、キリストの死と復活に私たちもあずかり、罪に死に永遠の命によみがえることができるのです(ローマ6:4~8)。
主イエスとのかかわりが失われると聞いてびっくり、もっと主と深く結びつきたいと願ったペトロは、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と願いました。無邪気で一途な主への思いを感じます。洗足の意味ははっきりわからなかったとしても、そのような自分を出せるところが彼の魅力でした。主はペトロに、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」と言われました。
既に体を洗った者とは、主イエスを信じ罪赦された者を指しています。それに対し「足だけ洗えばよい」とは、何を意味しているのでしょうか。足は神と共にこの世の旅路を歩む、現実の信仰生活といえます。それは自分の信仰の歩みですが、隣人に福音を伝える足でもあります。イエス・キリストを信じ神の子として誕生することは、一度だけです。それは神の子としての歩みのスタートであって、洗礼を受けたら成長する必要はないというのは間違いです。
私たちがキリストに似た者となるように成長させようと、神は願っておられます。それは御言葉を通して、実際に聖霊の導きに従うことによって与えられます。ヨハネ17章で御子は、主イエスに従う私たちがこの世から取り去られるのではなく、世にあって悪い者から守られるように、聖なる者(神のために生きる者)とされ、私たちを通して主を信じる者が起こされるように祈ってくださっています。救い主を受け入れても、私たちはこの世にある限り、常に罪の誘惑にさらされています。神の喜ばれない選択をしてしまうことがとても多いです。御言葉によって日ごとに自分の内を照らされ、清めていただきましょう。
イスカリオテのユダはこの後主イエスを引き渡しますが、主イエスに有罪判決が下ったと知って自分の犯した罪に気づきます。彼はその罪を自分で洗い償おうとしましたが、かないませんでした。しかし主は私たちに、自分で罪を償うよう求めておられるのではありません。私たちの足、人生の一歩一歩を主に差し出して洗っていただき、喜んで主と共に歩き出すことが御心なのです。
3.主がしてくださったように、互いに愛し仕え合う。
14節をお読みします。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」洗足の第二の意味は、キリストに従う弟子たちが互いに愛し仕え合うということです。模範とは、後に続くものが見倣うべきありかたです。まことの弟子であろうと願うならば、教師が示した模範を大切にするでしょう。主イエスが洗足を通して弟子たちに示されたもう一つのことは、「しもべとして仕える」という生き方でした。
「仕える」というと、下にあって弱い印象を持つかもしれませんが、仕えるとは相手を愛するために自らの権利を手放し、何にでもなれる「強さ」です。本当に強い人は弱くなることができる人、あえてそれを選ぶことができる人です。キリストに罪の自我を砕かれ続ける中で、私たちは仕える者へと訓練されていきます(Ⅰコリント9:19~22)。
主イエスから赦し、奉仕、愛の交わりを受け取って初めて、私たちは互いに仕え合うことができます。ここで「互いに足を洗い合う」と言われています。つまり自分が一方的に周りの人の足を洗うだけでなく、自分も周囲の人に洗っていただくということです。私も周りの方に赦され、愛の奉仕に支えられてあることを忘れないようにしたいと思います。
キリストに似た者とされる、それが人間に与えられた神のご目的です。それは努力してキリストの真似をするということではありません。似るといえば親子の関係が思い浮かびます。親は言葉によっていろいろなことを子に教えますが、子は多くの場合親のふるまい、あり方を吸収します。こんな子に成長してほしいと願うなら、まず親が変わらなければならないとよく言われます。自らを省みると悔い改めだらけですが…。共にすごすというのはとても影響力が強いものです。そして私たちが御言葉や祈りにおいて主と共にすごすほどに、生き方もまた主に似たものとされていきます。
私たちははじめ、神にかたどって創造されました。そこには平安、愛、喜びが満ちていました。罪のために神のかたちは損なわれましたが、その姿が回復されることが救いなのです(Ⅰヨハネ3:2~3)。神が私たちを神の子とするために、どれほど大きな犠牲を払って愛してくださったか。それが本当に分かったなら、神の御心を悲しませることを、平気で続けられるはずはありません。また罪を犯してしまったこんな情けない私ですが、神に喜ばれるものになりたいです…と、おのずからキリストを模範とする歩みを求めるようになるのです。
しもべとして隣人に仕えて生きる時、多くの限界に直面させられます。けれどもそのたびに私たちは、本当の自分自身と向き合い、「主よ、私を洗ってください。愛を注いでください。」と神の助けを求めます。それこそが弟子の歩みです。私たちが十字架の主イエスに倣い、現実のただ中で赦し仕え合う時に、キリストがそこにおられます。祈りましょう。