4月25説教 ・復活節第4主日礼拝
「キリストについての聖書は必ずすべて実現する」
隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書24:36~53
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本日の箇所では、聖書を悟らず主のご復活を信じられなかった弟子たちが、主の証人として変えられていくことが記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。
1.復活の主は、確かに触れることのできる方である。(39、43節)
2.聖書全巻はキリストについて証するものである。(44節)
3.喜び復活の喜びに生かされて、聖霊の満たしを待ち望む。(49節)
1.復活の主は、確かに触れることのできる方である。(39、43節)
先週は、エルサレムからエマオへ向かっていた二人の弟子たちの傍らに、復活なさった主イエスが現れて共に歩んでいかれたことを聞きました。聖書の説き明かし、パンを裂いてくださったことでこの方は主だと分かった弟子たちは、いても立ってもいられません。もう夜でしたが、主のご復活を一分でも一秒でも早く知らせたくてエルサレムへ、仲間の弟子たちがいるところへと引き返しました。すると11人の弟子と仲間たちがもう集まっていて、同じように復活の主がシモン・ペトロに現れたと話をしていたのです。
エマオから来た弟子たちも自分たちの経験を話していると、彼らの真ん中にまさにその主イエスがお立ちになり、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったのです。弟子たちは亡霊だと思って恐れおののきましたが、主は復活の主イエスご自身であることを、手足をお見せになって弟子たちに示してくださいました。それでも弟子たちがまだ不思議がるので、主は弟子の差し出した魚を召しあがられました(参考:ヨハネ21:9)。これは復活を証明するためというよりも、彼らと食事の交わりを共にしたということです。十字架の時に主を見捨てて逃げ出し、復活の主が何度現れてくださっても信じることができない弟子たち。そんな彼らを、主が交わりへと招いてくださっているのです。
かつてファリサイ派の人々に、なぜ罪人などと一緒に食事するのかと批判された時、主は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)と言われました。また「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3:20)と、悔い改めてご自身を受け入れる者に与えられる永遠の命を、神との交わりの食卓として語っておられます。主イエスにとって食事を共にするということは、あなたを愛しているというしるし、もう一度親しく交わりをしたいという御心の現れなのです。
主はご自身の手足をお見せになり、さらに「触ってよく見なさい」とまで言われます。復活の主は、しっかり触れることのできる方です。主イエスを信じるとは、復活の主の手応えを感じながら生きることなのです。私は、主の手足に触れることを思いめぐらしていました。誰かの傷跡にふれる、などということができるでしょうか。また誰かに自分の傷を見せ、触れてもいいと言えるでしょうか。簡単には、とてもできません。長い時を経て信頼関係を築いている人であれば、できるかもしれません。しかしこの弟子たちに主がその御傷を示し、触れることをお許しくださったのです。それはどれほどの愛であったことでしょうか。十字架の傷跡に触れるということは、私たちの罪の現実を目の当たりにすることです。しかし同時に、それをはるかに超える主の愛によって赦されているという恵みの事実に触れることなのです。
弟子たちは今まで、主が一緒にいてくださるから大丈夫だと思っていました。ですから、主イエスが逮捕されると逃げ出したのです。目で見ている限り、人間はそういう者でしかありません。しかしそのような関わり方はもう終わります。そうであれば大切なのは、見ずに信じる信仰です。信仰とは目に見えないものを見て生きることです(ヘブライ11章)。反対に言えば、目に見えるものにとらわれずに生きることです。見えないものに目を向けようとしなければ真実は見えてきません。
私たちは主の十字架と復活によって実現した救いを、この目で見ることなしに信じて歩みます。復活して今も生きておられる主イエスは、目で見るという人間の感覚をはるかに超えたずっと確かなあり方で、私たちと共にいて下さいます。「触ってよく見なさい」というお言葉と矛盾していると感じるかもしれませんが、決してそうではありません。弟子たちが主イエスの手や足に触ったかどうかは記されていませんが、主イエスに霊的に触れたことは確かです(Ⅰヨハネ1:1)。聖霊のお働きにより、私たちは目に見える交わりよりずっと確かに、復活の主に触れるのです。
2.聖書はすべてキリストを証するものである。(44節)
44~45節をお読みします。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。…そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」主はすでに十字架と復活を三度も予告しておられましたが(ルカ9:22、44、18:33)、弟子たちはそれを悟ることができませんでした。そこで主イエスはエマオ途上で弟子たちにお語りになったように、聖書を解き明かされました。ご自身について(旧約)聖書に書いてあることはすべて実現すること。すなわち主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活し、主イエスの御名によって罪の赦しを得させる悔い改めが全世界に宣べ伝えられることです。そしてそのために弟子たちが福音の証人として遣わされるのです。
心の目を「開く」という言葉は、母の胎を最初に開いた子、という意味もあります。弟子たちを復活の証人とするために、主は真理を悟る霊的な理解力を、最初の子供が母から産まれ出るかのように開かれたのです。時が満ちると神は、命がけの激しい痛みを経て新しい命を産み出させてくださいます。聖書は勉強してわかるものではなく、初めて開かれる胎に長い時間がかかるように、痛みを持ちつつ生きる過程の中で開かれます。
旧新約聖書全巻は、キリストとその救いを指し示すために、神が多くの人を通して記されたものです。神の目的に従って聖書を読まなければ、その意味を理解することはできません。聖書は単なる座右の銘や歴史、文学の書ではなく、キリストという観点から霊的に理解すべきものなのです。旧約聖書の多くの御言葉がキリストによって実現していますし、旧約聖書の信仰者たちはキリストを前もって表す存在です。
代表的な人物でいえば、奴隷とされていたイスラエルの民をエジプトから脱出させ、神の約束の地カナンに導き入れたモーセです。彼は神の律法を授けられ、40年間の荒れ野の生活で神と民の間に立って御言葉を伝え、神に背く民の罪を執り成し続けた器です。キリストはモーセを通して付与された律法の完成者であり、御言葉の本質を語り生きられ、十字架に死んでよみがえり、信じる者を罪の奴隷から解き放ってくださいました。またダビデは人数に入れられない小さな羊飼いでしたが、イスラエルの王となるよう神に召されました。キリストの王としての側面を表す存在であり、旧約聖書は救い主を象徴的にダビデと呼んでいます。裏切りや自らの罪の裁きに苦しめられましたが、それらを通して彼は深い神との交わり、祈りに導かれます。主イエスの十字架上のお言葉のうちの4つは、ダビデが記したとされる詩編の言葉なのです。
46節で「次のように書いてある」と言いますが、続く言葉は旧約聖書の特定の箇所の引用ではありません。旧約聖書全体がこのことを告げているということです(イザヤ53章、詩編16:10、ヨブ19:25など多数)。
知識として知っているということと、心が開かれて、聖書の真理が自分の現実だと気づくこととは違います。私たちは霊的に無知であり、経験や思い込みで聖書を読んでしまいます。神が啓示してくださらなければ聖書を理解することはできないことをわきまえ、へりくだって聖霊の助けを願い聖書に聴きましょう。特に旧約聖書に隠されているキリストを示していただけるよう祈りつつ、お読みになってください。高く広く深い神の愛、その聖なることをいよいよ知り、御前に献身してまいりましょう。
主イエスは、メシア(救い主)とその救いについて、聖書に書いてある3つのことを告げられます。第一は「メシアは苦しみを受け」ること。第二は「三日目に死者の中から復活する」こと。第三は「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことです。私たちの罪が赦されるために必要なのが悔い改め、方向転換です。自分のために生きていた人間が神の方に向き直ると、赦しを受け取ることができるようになります。御子の受難と復活によって救いの道が開かれました。このメッセージは弟子たちを通して、生ける主そのものである主の名によって、これから世界中に宣べ伝えられていきます。この御言葉は今主に従っている私たちを通しても実現されます。私たちも神の救いのご計画の中に入れられているのです。
3.復活の喜びに生かされて、聖霊の満たしを待ち望む。(49節)
弟子たちがすべての人に主イエスの使信を届けるにあたって、エルサレムから始めよと命じられます。弟子たちが復活の証人とされて福音を宣べ伝える前に、主はこのように命じられました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(49節)これは聖霊が与えられるという預言です(使徒言行録1:4~5参照)。罪の赦しの福音があらゆる国の人々に宣べ伝えられるために、「高い所からの力に覆われる」、聖霊の力を着せられるのを待つよう勧められています。これは具体的には、ペンテコステの日に教会が公に活動を開始する時に与えられた特別な力を指します。それによって弟子たちは、世界中から集まっていた各国語を話すユダヤ人たちに、それぞれの言葉で救いについて語る力を与えられます。
イエスを主と信じ従う私たちの内には、すでに聖霊が住んでくださっています。私たちの人生がいかに弱く、罪深いものであったとしても、からっぽの自分をそのまま御前に差し出すならば、聖霊が神の器として清め満たしてくださいます。私という存在が神の大いなる力に包まれます。教会が聖霊の実を結ぶことを求め、聖霊の導きに従って歩み続ける時に、私たちも宣教のために用いていただくことができます(ガラ5:18~23)。あせって自分の力で何とかしようとしないで、神の力を待ち望む。主を信じる兄弟姉妹と共に、そして普段の生活の中でも「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえ」(53節)続けることです。
使徒1章によれば復活後40日たって、主イエスは弟子たちを祝福して天に上げられました。かつて主は
アブラハムに言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記12:2~3)アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、神の祝福を特権と考えて異邦人を軽んじ、神に背く道を進んでしまいました。しかし主イエスが証人として召された弟子たちは神の祝福を受け継ぎ、彼らを通して世界中に救いが伝えられていくことになります。
イースターからペンテコステに向けての今の時期、私たちは初めの教会に与えられた主のお約束に心を留めたいと思います。これまでの私たちの歩みを振り返り、至らなかったところを御前に告白し、赦しを求めましょう。そしてそれにも関わらずこの教会を愛し、支え、育んでくださる神に感謝をささげましょう。また、私たちの気づかぬところで神と教会に仕え、愛の業をささげてくださっている方々にあらためて感謝し、その務めを担うための必要が満たされるように、祝福を祈りましょう。私たち一人ひとりが、この福音書の言葉を聞いて、また新たに、主イエスご自身の手によって自分の土地、自分の教会から世界へと送り出される者となりたいと願います。
「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(52,53節)天に上げられるイエスを見て、弟子たちは主イエスを伏し拝みます。「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、ルカ福音書の中で弟子たちがイエスを礼拝したと言われているのはここだけです。弟子たちはここにきて初めて、主イエスとはどういう方であるかを本当に悟ることになったわけです。こうして、イエスが弟子たちに特別な形で姿を現す期間は終わり、目に見えない形で彼らとともに生き続ける時代が始まります。かつての神殿のように、今の礼拝堂で捧げられる礼拝には、神からの祝福と私たちからの賛美が満ちています。礼拝の最後には祝祷があります。主イエス・キリストの代理として、牧師が会衆を祝福します。祝祷は主が弟子たちになさったように、ここに集うお一人おひとりも神の救いという祝福を受けて、復活の証人として派遣されるということを表します。
エルサレムは主イエスが殺された場所であり、神殿は主イエスを実質的に十字架にかけた宗教指導者たちが支配する場所です。もう見える形で主はそばにおられません。しかし彼らは神殿に向かって喜びを抱いて帰って行きました。かつてユダヤ人から迫害を受けることを恐れて、戸を閉めて隠れていた弟子たちが、絶えず神殿で神をほめたたえるようになったのです。主は罪と死に打ち勝ち、聖書に書いてあるとおりまことによみがえってくださった。自分のような者が救われて、主イエスは救い主であると宣べ伝える証人とされた…。弟子たちは賛美が湧き出て、礼拝せずにはいられませんでした。これこそ、復活のイエスに実際に出会った証拠です。私たちにも恐れや試練があります。しかし復活の主イエスに出会い、主が共に生きてくださっている時に、どのような状況にあっても心の奥底に、何者にも奪い去られることのない喜びが与えられるのです。
人間の営みのみによって教会の働きが成り立っているのではありません。創立130周年、新年度を歩むにあたって、あらためて原点に立ち帰りたいと思います。課題に直面した時、悲しみが襲う時、人の知恵や言葉をおいてまず祈りましょう。何度でも、心を合わせて主を仰ぎ続けるのです。教会の宣教の歴史は祈り聖霊を待ち望むところから与えられ、今まで続けられてきました。主イエスは天にお帰りになった今も、父なる神の右に座して私たちのために祈り、再臨の日のために準備してくださっています。主がお与えくださった大宣教命令をしっかりと受けとめ、終わりの日まで主の救いを宣べ伝えてまいりましょう。
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