「一つとなる約束」9/21 隅野徹牧師


  9月21日 聖霊降臨節第16主日礼拝

「一つとなる約束隅野徹牧師
聖書:エゼキエル書 37:15~28

 

 

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今朝は与えられた聖書日課の中から、旧約聖書の預言書、エゼキエル書37章15節から27節を選び語らせていただくことにしました。

エゼキエル37章の前半は、有名な「枯れた骨の復活の幻を、神がエゼキエルに見せる」箇所です。2023年の5月に瞳牧師が語っていますが、「死者の復活の奇跡の業が神によってなされる」ことの預言として描かれます。

捕囚という苦しい出来事の中でも、神は民たちを見捨てられてはいない。神はエゼキエルに「枯れた骨の復活の幻」を見せ「必ず復活の命を与えられるのだ」という強い意志を示していました。

今回の箇所の15-28節は、捕囚のすこし前に分断された二つの王国・ユダとイスラエルを再び一つにするといった回復が描かれています。

先週の月曜日、宇部教会の合同式に出席してきました。

元の宇部教会、宇部緑橋教会が「合併」ではなく「合同して、一つの教会としてあらたに歩みはじめる」ことを覚える時に立ち会うことが出来て感謝でした。

世の中では、大が小を飲み込むような「合併、再編」が横行しています。地方の衰退、少子高齢化、情報・IT化が進むこの社会にあって「大が小を飲み込むことは、ある意味し方のないこと」だと受け止められています。

 日本のキリスト教会も例外ではないように思います。これから「小さい教会が大きい教会に合併される」ことは致し方ないこと、という流れがあるように思います。

 そんな中、規模や教会のこれまでの歩みが違う、二つの教会が「合併ではなく、お互いを尊重した合同しての歩みをなしていく」ということが始まったことの意義は大きいと思います。

 今回の箇所は、二つに分かれたものが「神によって一つにされる」ことが教えられています。旧約聖書ですが、この少し後に神自らが送られる「救い主イエス・キリストによる救い」が表された箇所であることが分かります。御言葉を深く味わってまいりましょう。

 まず15節から22節です。 ご覧ください。

預言者エゼキエルは神から「あることをするように」命じられます。

それは二本の木を取り、一方には、「ユダおよびイスラエルの子らのために」と書き、もう一方には、「エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれた全家のために」と書くようにとの命令です。

そして、17節に出てくるのですが、神は「そのように書き記された二つの木を、エゼキエルの手の中で一本の木とするように」と命じられます。

この行為をすることは、神から民たちへの「あるメッセージ」を示すためでした。

その意味は、19節以下に表れています。

最初の意味とは「分断された民と国をふたたび統一するという神の約束」です。二つ目の意味とは、「各地に離散した、諸国民の中から引き出し、一人の王の下に集結する約束」です。

エゼキエルが預言者として活動していた時期のすこし前、イスラエルの国は北イスラエルと南イスラエル、いわゆる「ユダ国」と二つに分かれてしまいました。そして北王国であるイスラエルはアッシリアに、すこし遅れて南王国のユダはバビロンにそれぞれ攻め滅ぼされ、捕虜として連れていかれるという悲しい歴史があったのです。

捕虜として連れていかれただけでなく、そこからもっと広い各地にユダヤ人は離散してしまったのです。

しかし、神は「自らの業によって、分かたれた民たち、遠くに散らされた民たちを再び一つにする」と約束されるのです。そして22節にあるように「二度と分かれることはない」と語られるのです。

さて23節以下では、「その約束がどのようにして成し遂げられるか」が語られています。

23節では神によって一つにされた新しい国は、異教の神に傾いてしまったその背信の罪から、神ご自身が救い清めることが約束されます。24節25節を見ると、その国は、新しいダビデが王として「すべての牧者」となるということが語られています。

この新しい王が「人間の王ではなくて」、ダビデの血を引く一人間としてこの世に来てくださった「神の独り子イエス・キリスト」を予見していることはまちがいありません。

26節以下では「その新しいダビデ」によって永遠の住まいが与えられることが語られます。

これも地上の「ある国」のことを指しているのではなく、「天の御国」を表していることは明白です。この場所は「中心に神の聖所があり」、神と人とが永遠にともにいることが表されています。

天国の情景を表す聖書箇所として有名なのが、聖書の一番最後の「ヨハネの黙示録21章、22章」ですが、今回の箇所のエゼキエル書37章後半の言葉が基になっていると考えられます。

以上、今日の聖書箇所として選んだエゼキエル37章の14節からを読みましたが、ここだけでは「キリストがどのようにして、別々の歩みをしている二つのものを一つにされるかについて」味わうことが出来ませんので、新約聖書からもう1箇所を開いて読もうと思います。

皆様、新約聖書P354をお開けください。エフェソの信徒への手紙2章14節から18節です。ここは、先日の宇部教会の合同式でも教区議長である鎌野牧師が語られた聖書箇所です。   (※ゆっくりとお開けください。 読んでみます)

人間はそれぞれ「違いをもって」生きています。その違いを受け入れて仲良くできればよいのですが、私たちの心は広くありません。お互いの違いから摩擦が生まれ、それが対立になり、それが進むと14節の言葉にある通り「敵意という隔ての壁」ができます。

エフェソ書でパウロは「ユダヤ人と異邦人との間にある壁」のことを言おうとしています。ユダヤ人と異邦人にあった「壁」の原因の一つとしてパウロは「律法」をあげています。

 律法とはユダヤ人にとって「正しさ」の象徴です。自分は律法に従っているから、正しく生きている、間違ってはいないと考えているのです。ユダヤ人は、唯一の神で主を信じない人々を“異邦人”と呼び、彼らを汚れた人間として忌み嫌いました。そうして「敵意という壁」が生まれていきました。

 私たちにも一人ひとり、自分の中に「これが正しい」と信じる考えがあるのだと思います。しかし自分の考えの正しさにこだわって、相手の考えを排除するとき、摩擦や対立、争いという「敵意」が生まれます。しかし人間の考える「正しさ、正義」は簡単に覆される、それは今放送されているNHKの朝ドラを見ていて痛感させられたことでした。

人間の考える「安っぽい正義」によって簡単に出来てしまう「敵意や壁」は、どのようにしたら壊せるでしょうか? 私には「愛以外にない」と思えます。

律法の規則と戒律を一語一句細かく守ることこそ大切だと主張するユダヤ人の指導者たちに対して、イエス・キリストは、「律法の教えの中心は、神を愛することと、隣人を自分のように愛することの二つだ」と教えました。15節の「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」という言葉のようにイエスは「愛することこそが大切だ!」ということを、その生き様を通して示されたのです。

そしてキリストは公生涯の最後、「十字架にお架かりになることで、究極の愛」を表されたのです。ご自分を陥れ、十字架刑に処そうとする人たちをも憎まず、「父なる神よ、彼らをお赦しください」と十字架の上で祈られました。

そして、復活された後、うらぎってしまったことで落ち込んでいる弟子たちのもとに現れ、彼らを赦し、立ち上がらせたのです。まさに敵を赦す愛をイエス・キリスト自らが表してくださったのでした。

15節の「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」という言葉は、十字架によって表した神の愛で、すべての人間を包んだという意味です。

ユダヤ人も異邦人もなく、自分の正義を主張し、争い合う人間を、神の愛で包んで一つにしたということです。だから、神の前には、15節にあるように「愛され、赦された罪人という一人の新しい人」がいるだけです。

このようにキリストによるならば「国籍、人種、もともとの宗教観の違い」は乗り越えられ、「敵意や壁を乗り越え、新しくされた人」が生まれるのです。今日の聖書箇所のエゼキエル書37章14節以下の預言は、このようにして実現するのだ、ということを心に留めましょう。

今日の話をまとめの話をし、閉じさせていただきます。

今日読んだ聖書箇所で私が最も大切だと感じること、それは…違いをもった人と一つになって歩むためには「私自身が、神によって新しくされた人だと認識することだ」と思いました。

自分の考えが間違っていないと我をはるのではなくて、「自分が赦された罪人だと意識し、神の前に遜る」そのことが「神の御手によって一つの枝とされる」ことにつながると信じます。

今日の箇所であるエゼキエル37章14節以下の「神によって一つとなる約束」ですが、その直前の箇所で「枯れた骨のような状態から神によって復活させられた命」が語られたあとに出てくる、その繋がりを考えることが大切ではないかと思います。

つまり私たちは古い自分に一旦死んでいる命であり、神にあって特別に新しく生かされていると捉えることが、隣人との平和を考える際に大変重要だと思うのです。

実際の世の中では「相手の方が悪い」「謝ってしまったら負けだ」と見なす考え方の方が多いのです。しかし「キリストの愛によって、私も特別に赦されているということへの感謝」を持つなら、キリストの愛が私たちの内に満ちて、相手を受け入れて「一つに歩もう」という思いが与えられると信じています。

どうか、そのようにして「平和を作り出す人として」歩んでまいりましょう。

(祈り・沈黙)