「世に命を与える神のパン」1/9隅野徹牧師

  1月9日 降誕節第3主日礼拝
「世に命を与える神のパン」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネの福音書6:22~33

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今朝の聖書箇所は、ヨハネによる福音書6章の22節からの部分です。新共同訳聖書では「イエスは命のパン」という小見出しが付いた箇所が22節から59節まで続きます。ここを3回に分けてお話しします。今回はその一回目です。

6章の1節から15節で「5千人の給食の奇跡」が描かれ、先週見た6章16節から21節では「嵐の湖の上で悩んでいた弟子たちのところに、イエスが水の上を歩いて近づかれた場面」が描かれていました。

今回の箇所は、6章1節から15節の「五千人の給食の奇跡」とも、そして16節からの「イエスの水上歩行の奇跡」ともつながっている箇所です。最初にこれらの箇所を振り返りながら、今日の箇所で「どんなことが語られようとしているのか」掴んでいただいたらと願います。

まず地理的なことを確認します。6章は「ガリラヤ湖、ティベリアス湖」の周辺が舞台です。

まず1節にはイエスが弟子たちと一緒に向こう岸に渡られます。そしてヨハネ福音書には出ませんが、多くの人々に「神の国について大切な教え」をなさったり、「多くの病人を癒される」奇跡を行われました。

その後、この場に残っていた5千人以上の人たちに対し、イエスは少年の持っていた5つのパンと2匹の魚で「給食の奇跡」を成されたのです。

そして16節~21節弟子たちだけで船にのって、これまた対岸の「カファルナウム」まで戻ろうとしていたのです。

15節に、5千人の給食の奇跡を見て、人々はイエスを王にするために連れて行こうとしたとあります。それは「自分に快適な暮らしをもたらしてくれる都合の良い指導者だ」と考えたからです。しかし、イエスはそれを望まれず山に退かれたのです。

一方の弟子たちは、「5千人の給食の奇跡」で、異様な高揚感につつまれていたのではないか、と理解されています。そんな弟子たちをイエスは「彼らだけで船に乗って対岸に向かうように指示されるのです。

弟子たちは5千人に食事を配る役目をしましたので、一番近いところで奇跡を目撃していました。「自分たちはあのすごい方の弟子なのだ!」という思いがあったと考えられます。しかしイエスが共におられないのです。弟子たちは自分たちだけで船を漕ぎ進めています。そんなとき湖に強い風が吹き、彼らは荒波に翻弄されるのです。

すぐ前に、渡っていたから「今回も簡単に渡れる」と思ったのでしょうか。漁師だった弟子も何人かいることから、「暗い時間であるにもかかわらず」対岸まで渡れると思ったのでしょう。

しかし!強風によって進めなくなっていた弟子たちの船に、イエスが湖の上を歩いて近づいて来られたのです。弟子たちはそれを見て恐れますが、イエスは「わたしだ、恐れることはない」と言われます。

この「わたしだ!」という言葉が「私はある」と訳すことのできる特別な言葉だということは先週お話ししました。神の独り子、まことの神であられるイエス・キリストが、「共にいて下さるのだ」ということを表して下さったのです。21節で「船の中にイエスを迎え入れて」間もなく、対岸の目指している場所に着いたことが語られて、今回の場面に入っていくのです。

それでは22節から25節から見ます。この部分を目で追って見て下さい。

ここで何が分かるかというと、多くの群衆が「ひとりで山に退かれたイエス」を執拗に追い回していたということです。イエスが弟子たちと別行動を対岸に渡っていないと分かると、今度は先ほど奇跡を「五千人の給食」の奇跡を起こされた場所に探しに行きます。それでも見つかりません。彼らは、イエスが何らかの方法で湖の対岸に行かれたに違いないと予測を立て、対岸のカファルナウムまで船で向かったのです。

25節の「ラビ、いつここにお出でになったのですか」との追いかけまわす人々の言葉は「わたしたちはあなたを探し回ったのですよ。船もないので、どうやって対岸まできたのですか?」という意味の言葉です。

もちろん水の上を歩かれたから、そこに居られた訳ですが、イエスはその質問にはお答えになりません。むしろ彼らの心の中を見通された上で、26、27節の大切な言葉を伝えられるのです。

その26節、27節を読んでみます。

イエスは、彼らが「追い回してくる理由」を「パンを食べて満腹したからだ」と言われます。

14節と15節で、人々はイエスがなさった奇跡を見て「王にするために連れて行こうとした」とあります。それは「自分に快適な暮らしをもたらしてくれる都合の良い指導者だ」と考えたからです。

しかし!イエス・キリストが五千人の給食を成されたのは「ご自分が神の御子であり、救い主であること」を示すために他なりません。多くの人がご自分を救い主として信じ、神と共に歩む、神に従って歩んでもらうための「しるしとして」奇跡をなさったのです。

しかし、26節でイエスが言われる通り、多くの人は「その大切なしるし」を見なかった、もっといえば「見ようとしなかった」のです。

27節でイエスが仰ったこと、それは分かりにくい言葉でありますが、一言でいえば「神の子であり、救い主であるご自分に従って生きていきなさい」という招きなのです。

 私たち一人ひとりは、この人たちのように「目に見える快適な生活を得るために」走り回っています。しかし、そこにかける多くの労力は本当に必要なことなのかどうか、顧みる必要があるのではないでしょうか?「永遠になくならないもののために働く」ことを考える2022年にしていきたいものです。

 さて、直接神の子イエス・キリストから大切なことを聞いていながら、イエスを追い回している者たちは無理解のままです。

 イエスは「わたしを信じ、従いなさい。それがあなたたちのなすべき唯一の善い業であり、そのことのしるしがある」と教えておられます。それなのに28節で「神の業を行うには何をしたらよいか」と尋ね、30節で「しるしを見せてくれ」と頼むのです。

 とくに30節の彼らの言葉は酷いものです。五千人の給食の奇跡を見たのに、「あなたを神から遣わされた者だと信じることができるようにしるしを見せよ。モーセが荒れ野でマナを降らせたように!」と言っています。

 32節33節にあるように、マナはモーセが与えたのではなく、イエス・キリストの父なる神が与えたものであります。そして、私達が日々いただいている食べ物などは皆、当たり前に得ているのではなく、マナと同じように「神から与えられているもの」なのであります。 本日は、この33節までを味わい、続きは来週以降見ることにします。

 残りの時間で、イエスを追いかけまわしていた人たちがした「質問」を掘り下げてみたいと願います。              

先程、彼らのしたイエスへの質問が酷いと言いましたが、実は彼らは彼らなりに「真面目な求めがあってしている」のです。

この人たちは、ローマ帝国の支配下にあった当時のイスラエルの状況に強い危機感を抱いていました。多くの人が税金をむしり取られて苦しい経済状況にある状態から、強いリーダーが与えられて、救い出されることを待望していたのです。

そこにイエスが表れました。だから、モーセと重ねて見て、期待したのです。イエスが増やされたパンと、モーセの時代天から降ったマナを「重ねて見て!」期待したのです。それでイエスを執拗に追い回し、イエスから「神の業を行うにはどうしたらよいか」という教えを請おうとしています。

ここに「真面目な人が陥りやすい間違い」が表されています。

彼らはとにかく「目に見える証拠」を見ようとしています。そして「自分が手応えを感じる形で、善を行い、神から報いを受けたい」と願っています。

しかし、今日の箇所でイエスが教えられていることは、実に単純明快です。自分が手応えを感じるかどうかに関係なく、また目の前の現実がどうであるかに関係なく「イエス・キリストこそが神の子、救い主であることを素直に信じる。そしてそのイエスと共に生きる、従って生きる」ということです。

私は今回、この人たちに似ている聖書の登場人物としてある人が思い浮かびました。それは金持ちの議員です。(P144 ルカ18:18~23を見ましょう)

ある男が、イエスに「永遠の命を受け継ぐためには何が必要か」と質問します。この男ですが、ただの金持ちなのではなく「議員」なのです。彼は、周りの人々に信任されるような人だったのです。その彼が純粋に「分からないことをイエスに質問するために近づいた」のです。

彼は自分の力によって「律法を完全に守ろう。良い行いをしよう。そのことによって、神から義とされて、永遠の命を得られるのだ」と考えていましたが、行き詰っていたことが分かります。

21節で金持ちの青年議員は「十戒に代表される掟はすべて守っている」といいます。この告白に嘘はないのでしょう。でも、それで「永遠の命を得られる」という平安・希望は得られなかったのです。

そんな彼にイエスは22節の言葉をかけられます。

これは「全財産をささげよ」という教えではありません。「永遠の命を得るために、天に宝を積んで、救い主イエス・キリストに従うこと」を教えられるのです。金持ちだから「神の国に入れない」のではないのです。そして「ささげつくさないと神の国に入れない」のでもありません。「本気で神・キリスを信じ従おうとしているか」シンプルだけど、それこそが私達人間に求められる唯一のことだ、と教えられるのです。

いかがでしょうか?今回の箇所ヨハネ6章でのイエスの教えとつながったのではないでしょうか?

 自分の力に頼って生きる方が「良い生き方をしている手応えがある」という誤った感覚に陥りやすい私たちです。(強)どうか!シンプルに!!「イエス・キリストが私の救い主である。私を罪から救い永遠の命に導いて下さるお方である。この方を信じ従っていく」という思いをもつことを大切にしてまいりましょう。とにかくシンプルに!神・イエス・キリストと共に歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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