12月1日 降誕前第4主日礼拝・アドベント礼拝
「主はただ一人、高く上げられる」隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 2:1~22
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今日はアドベント礼拝としてこの礼拝を持ちます。
アドベントとはラテン語で「来る」という意味です。アドベントはキリストがお生まれになったことを祝う「クリスマス」という大切な日が「来る」のを「待つ」ために、別の言い方で「心を整え、祈りを積みながら、キリストがお生まれになったことを記念するクリスマスを迎えるために」1か月まえのアドベントは非常に大切な意味を持つ日なのです。
そのこととともにもう一つ「アドベントを持つ」大切な意味は、この先の未来において「神のみこころが成る」ことを待ち望むということです。まだ見ぬ未来に目を向け、希望を持つための大切な日として、キリスト教会ではアドベントを大切にしてきました。
今朝の聖書日課の箇所も「キリストを待ち望む」ことについて書かれた箇所から選ばれていて、その中から私はイザヤ書の2章を選びました。
この箇所の中では前半の1~5節の言葉が有名で、皆さんも「知っている」という方が多いのではないかと思います。これは、既に実現した事柄というよりは、未だ実現していないことについての預言です。
後程、お話ししますが、最近私が読んだ本には「平和とは反対の分断、対立がますます広がっている」現状が詳しく説明されていました。 「キリストにある平和は、一体いつになったら実現するのか? 聖書の預言は嘘ではないか、ただの気休めなのではないか…」そんな声があちこちから聞こえてくるような感じです。
イエス・キリストはこの世に来て下さり、新約時代に生きる私たちは、旧約時代よりも「はっきりと、確かに」キリストにある希望を見ることが出来るようになりました。しかし、完全な実現は、私たち自身が天にいくときや「終末」を待たねばならなかったりします。
しかし!「完成が先だから」といって、投げやりになったり、目を背けたりするのではなく、「完成に目を向け、祈りながら歩むこと」そして「神が私たちに求めておられることを地道に積み重ねていく」そのことが大切です。
今日は礼拝の後、高田ご夫妻による「クリスマスコンサート」で、古のキリシタンたちの「賛美」「信仰告白」についても聞かせていただきます。
迫害下にあり、「平和とはほど遠い、支配的な社会」で希望が見えにくかったはずですが、それでも「そのときはまだ見えずとも、将来きっと与えられる、キリストの希望」を持ち続けて歩んだのが、古のキリシタンたちです。
私たちも同じような思いを持ち、御言葉にきいてまいりましょう。
イザヤ書前半部分は、神の民でありながら、神に背いた歩みを続けていたユダ(南イスラエル)に対して、神がイザヤを通して語られた預言を記した書です。 イザヤは多数いたと考えられる宮廷内預言者のうちの一人ですが、王や指導者たちに媚びることなく、ストレートに神から与えられた言葉を伝えています。
今回の2章では「戦いの道具を作り、それで儲けること」と「人を人が拝む、偶像崇拝」のことが厳しく糾弾されています。しかし、ただ厳しい罪の叱責で終わらず、将来与えられる希望がつまりは「救い主の到来によって実現する希望」が語られます。詳しく読んでまいりましょう。
まず後半部分から見ます。
6~11節をざっとご覧ください。
ここから、ユダの中に「占い、魔術」などの「聖書が禁じているもの」が異国から入ってきて、盛んになっている様子が分かります。また経済的繁栄ばかりを追い求めて心が荒廃している状態がわかります。とくに盛んになってしまったのが「軍需産業」であることは7節、8節からわかります。
後程詳しく見る「有名な4節の預言の言葉」も、人を傷つける兵器を作って金儲けをしている状態が実際にあり、それに対し神が怒られている様子が分かるのです。
9節には「人間の手によって都合よく造られたものを拝む愚かさ」が指摘されています。その行為が「人間が卑しめられ…」と表現されていることが印象的です。
しかし!こんな「神に背き、好き放題」やっている状況にあっても、神は人間に対し、見捨てることをなさらず「悔い改めの招き」をなさるのです。それが10節11節に表れています(※大切ですので、この2節は読んでみます)
悔い改めとは何なのか…その本質が表れています。悔い改めは、いわゆる「反省」とは違うのです。
自分のやってしまったことを悔いて「同じ過ちをしないように心に留める」だけでなく、自分の人生の主がどなたなのかを心に刻むことが大切であることを、この聖書箇所は教えます。つまりは、過った行為の根っこにある「自分が主人になっている」ことに目を向けること、その後、「従うべきお方は、天地を創造された神おひとりだけ」であることを覚えることがあってこそ「真の悔い改め」なのです。
残りの12節~22節も簡単に見たいと思います。(※ざっと見ていただけますか)
ここではユダの民にむけて「万軍の主の日」のことを神がイザヤを通して語られています。ここでの中心は「私たち人間を裁くのは、人間ではない。天地の造り主である神お一人だけだ」ということです。
クリスマスにこの世に来てくださったイエス・キリストは救い主であるとともに「審判主」でもあることが聖書中から教えられます。それは、17節にあるように高慢な者にとっては「卑しめられる」日です。しかし私たちは恐れる必要はありません。身を低くして神を待ち望む者たちには希望の日であり、解放の日となることが教えられています。
このように詳しく見ると…イザヤを通して神が警告しておられるのが「人が神になる、神のようにふるまう…そのことがいろいろな罪を引き起こし、それが最終的に「殺し合い、戦争」につながることですが、これは、イザヤの時代の「ユダの民たち」だけでなく、現代の世の中に「顕著にみられる」ことなのではないでしょうか?
最近私が読んだ本の中に、「現代は、『私にはやりたいことをやる権利がある』という万能の思い込みがある。今の時代には、この自己愛を刺激する色々なメッセージ、たとえば『あなたには可能性がある』とか『あなたはやればできる』といったメッセージがあふれている」という指摘が載っていました。 まさに「人が神になりかわろうとしている」「神を排除する」時代になっていると感じました。
さらにその著者は「これは神様にお願いするしかない」というような領域がやはり必要なのではないか。それを取り去って「すべて人間がやってしまってよいのか」ということが問われているのが今の社会ではないか…と言われています。
人間が「自分は立ち入ってはいけないという領域はもうない」と思いこむことが本当に危険で、その考えが社会に歪みを産むことは分かりそうなものですが、それでも暴走してしまうところに、人間の弱さがあると私は思います。サイエンスやテクノロジーの部分もそうですが、「思想や信条」にも「なにを考えても何を言ってもよいのだ」という「自己正当化」が強まっていることに危機感を覚えます。
戦争や差別をやってはいけない、多くの人の命や自然を破壊する核兵器を持ってはいけない…それは当たり前のことではないでしょうか。神様がつくられた命はどれも尊く、傷つけてよいはずがない…それは普通わかることです。
それが「自分の国を守るために戦争はしてもよいのだ」とか「ある特定の人を排除してよいのだ」ということを助長する宗教や信仰対象があるのなら、それは「偽わりだ」と言わざるを得ませんが、それでも「思想信条の自由」ということを振りかざす人も多く、難しい世の中になっていることを痛感します。
しかし、私たちはあきらめず「聖書の教え、価値観」に希望を見出してまいりましょう。今日の箇所で希望が語られているのが、冒頭の1~5節です。最後に「今日のメッセージの結論」としてここを読んでメッセージを閉じます。
(1~5を読みます)
「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」この言葉は同じく預言者の「ミカ」も同じようなことを語っていて、当時の預言者の間で「共有されて語られた大切な言葉」です。時代を超えて「戦争を止めることを教えている聖書の御言葉」として大切にされてきました。
その有名な4節のまえの1~3節を読みます。
イザヤは、戦争で廃墟となった「ユダ・エルサレム」を多くの国々が仰ぐことになると告げました。それは「今は敗戦国だが、いつか力を回復し、強くなって他の国々に君臨するようになる」という復讐の宣言ではないのです。
最後の方に「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」とあるように…「神のみことばの真理が発せられるゆえに、ユダ・エルサレムが世界に仰がれるようになる」という預言なのです
もちろん、それが「ユダの民という形をとって、この世に来てくださったイエス・キリスト」の教えが世界に広がることを指し、それが成就するのだということが預言されているのです。
その「イエス・キリストを通して発せられる教えと御言葉」が、4節と5節です。
神が救い主を送って下さることによって「争いの根が断ち切られる」のだ。だから戦いのための武器は必要がなくなるのです。
「軍事力には、軍事力でしか対抗することができない」と思っていた人間に対し、キリストは「民族を超えて、すべての民が尊いこと」を示され「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことを教えられたのです。
その教えと言葉が結実したのが「十字架と復活」です。
4節の最後に「もはや戦うことを学ばない」という印象的な言葉が出ます。目には目を、やられたらやり返す!ということばかり考えてしまう、私たち人間の汚い心に「十字架と復活のイエス・キリストの心が満たされてはじめて」「戦わなくてよいのだ」ということを知るのではないでしょうか?
5節の「主の光の中を歩もう」という勧め、私たちへの招きは「イエス・キリストの足跡をたどる生き方」への招きですが、それは「人を蹴落として、自分が成りあがる」ということと真反対の「自己中心な思いを捨てて、隣人を愛する生き方」の招きなのです。
イエス・キリストは、私たち人間の罪を赦し、悔い改めに導き、そして「あまねく平和をもたらすために」この世に来てくださいました。それは過去に終わったことではなく、いっぽうで「永遠に実現不可能なこと」でもありません。ここで預言されている「平和が実現する、神の時、終わりの時」は、今現在の「時」とつながっているのです。
私たちは、クリスマスを前にした「アドベントの今日」、イエス・キリストが何のためにこの世に来られると預言されたのか「その約束」に注目しました。この「希望・約束」のために祈り、そのために生きる者でありましょう。(祈り・沈黙)