12月15日 降誕前第2主日礼拝
「今一度、心を神に向けて」 隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書 1:67~79
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本日は、救い主が来られる恵みとヨハネに与えられた使命について、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.主は契約を覚えていてくださる。(72節)
2.だれかが主に心を向けるために、道を整える。(76~77節)
3.キリストの光は、私たちの歩みを平和の道に導く。(79節)
今日の箇所は、救い主イエスに先立って道備えをする者として生まれたヨハネの命名、またその時に父であるザカリアが預言したことが記されています。イスラエルの祭司であるザカリアと妻エリサベトは信仰深い夫婦でしたが、子供を授かることなく高齢になりました。ある時ザカリアが神殿の聖所に入って香を焚く務めをしていると主の天使が現れ、ザカリアの祈りが聞き入れられたと告げます。妻エリサベトが男の子を産むが、その子をヨハネ(主は恵み深いの意)と名づけなさいと。彼は神がどんなに恵み深いお方であるかを示す主の器となるのです。
ザカリアは御告げを信じなかったため、時が来るまで話すことができなくなりました。しかしそれは沈黙のうちに御言葉が満ち溢れていく時でした。神に向かい悔い改めに導かれたザカリアは、主に仕える信仰を新たにされ、空の器となりました。その後男の子が与えられ、天使の言葉どおりに名づけた時に、ザカリアに聖霊が宿り神を賛美したのです。近所の人々や親類は、この子の名を父と同じザカリアとしようとしました。しかしザカリアは跡継ぎが生まれて安心だというのではなく、この子は大切な務めを果たすために立てられ、主よりお預かりしたのだと心に留めて、御心に従ったのです。
1.主は契約を覚えていてくださる。(72節)
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」(68~70節)
10か月間口を閉ざされていたザカリアは聖霊に満たされました。預言者たちによって語られ、長い間待ち望んできた救い主が、ついにお生まれになる。ザカリアはその恵みに圧倒されて、主をほめたたえずにはいられませんでした。主なる神はイスラエルの歴史において、人間とかかわりをもってこられました。ここではエジプトの奴隷状態やバビロン捕囚から解放してくださったことが示されているのでしょう。主は私たちの現実にもまた訪れて、御業を行われます。
「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。」(72~73節)
聖書の神は、人と契約を結ばれます。それは神が恵みによってイスラエル、また信じる人々をご自分の民とし、その人々の神となって下さるということです。主なる神は私たちと人格的に愛し合い、問い応答する関係を求められます。神の所有物になって言うなりになるのではなく、利益や害があるから信じるという関係でもありません。創造主と造られた者、しかも罪ある私たちがそのような関係に入れられるとは考えられないことです。しかし神の側から私たちを愛してくださったのです。
「『わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12:2~4)神はアブラハムに子を授け、その子孫を通して世界中に主の祝福をもたらすと約束されました。それは目に見える祝福を超えた、罪からの救いを示していました。
神はまたモーセを通してイスラエルの民に律法を与え、それに従って祝福に歩むよう命じられました。主が語られたことをすべて行いますと民は誓いましたが、実際は主に背き続けました。しかし主なる神はご自分が結んだ契約を覚えていてくださり、限りない憐みと忍耐をもって民を導き続けてこられました。神の時が来て、神は民の心をご自分に向き直らせる声としてヨハネを遣わし、救いを与えるために独り子イエス・キリストを遣わされました。旧い契約に表された神の意志は、御子の十字架の血によって立てられる新しい契約によって実現され、主イエスを信じるすべての人に与えられる約束となりました。イスラエルの民だけでなくすべての人間は、律法を完全に守ることはできません。律法は、自分の力で罪から救われることができないことを示し、私たちを主イエスの救いへと導くものでありました。
「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。…こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える。生涯、主の御前に清く正しく。」(71,73~75節)
ここで言われている「敵」は、当時イスラエルを支配していたローマのような政治的な敵、また病や貧困など命を脅かすものと取ることもできるでしょう。しかしザカリアの預言全体を見ると、救い出されるべき敵とは罪と死であるとわかります。
神と私たち人間の交わりを妨げているもの、それは私たちの罪です。聖なる神の御前に、罪人である私たちは滅ぼされるしかないものです。しかし主イエスを信じる時に私たちは罪赦され、赦された喜びをもって恐れなく主に仕える者となるのです。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブライ10:20~22)主に仕えるとは教会の礼拝の場だけでなく、生きることが礼拝となる、主を証し隣人に仕えるということです。
罪の赦しはまた、私たちをきよめへと導きます。聖霊の助けによって主にお従いしていく時、私たちは主に似た者に、愛において成熟した者へと変えられていきます。今は不完全であっても、時がくると神はわたしたちを完全な者にしてくださると約束されています。旧約時代の人々が救い主の到来を待ち望んだように、わたしたちもキリストが再びおいでになるその時を待ち望みます。
神の民として生きる者は、この世にあってもこの世の基準ではなく、神の子として歩みます。世から理解されず憎まれることも、ここでは示されているでしょう。しかし主は悪いものから私たちを守ってくださいます。御子は世に染まることなく、世を愛されました。相手がどうであっても愛し、私たちが世にあってキリストの光を輝かせることができるように、この主が執り成してくださいます。
2.だれかが主に心を向けるために、道を整える。(76~77節)
「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(76~77節)
ヨハネは救い主について証をし、指し示す指です。ヨハネは人々が主を受け入れるように、主に先立って道を整える者です。主の愛を知りながら背いたイスラエルの民が、今一度主に立ち帰るようにという働きです。それは私たちも同じです。すでに救われている方は初めの愛と献身に立ち帰るように招かれています。そしてまだ主に出会っていない方も、本来すべての人は神の愛のもとにいたのです。ですから神のもとに帰り、真の愛を知って、本当の自分を生きるように招かれているのです。
その頃のイスラエルの人々、特に宗教指導者たちは、自分たちは神に選ばれたのだから、このままで救われると思っていました。しかしヨハネはだれでも悔い改めて、救い主によって罪を赦していただかなければならないと教えたのです。悔い改めとは自分の生き方、生活のすべてを含めて、神の方に向き直ることです。私のために十字架で死なれた主の御前に出る時、今のままの自分ではいられません。不完全ではあるけれども、この神の愛に少しでもお応えしたいという思いが与えられます。
イスラエルの人々は、ローマの支配から救われたいと願っていました。しかし、罪の中にあり続けるなら、ローマから救われたとしても、また別の国に支配されるようになるでしょう。病気や悩みから解放されたいと私たちは願いますし、主は私たちの必要を聞き届けてくださいます。しかし罪からの救いがないならば、目に見えるものから一時的に逃れられたとしても、また別の苦しみや悩みに落ち込んでしまうのです。
ヨハネの活動はこの後第3章に語られていきますが、それは人々に悔い改めを求め、悔い改めのしるしとしての洗礼を授ける、ということでした。彼は人々の罪を厳しく示し、それに対する神の怒りを語りました。それは彼らが救い主により頼み、罪を赦していただくようになるためです。救いはただ十字架のキリストにあります。
十字架の死と復活によって罪の赦しを成し遂げ、与えて下さる救い主イエス・キリストを、ヨハネは指し示しました。主に自らの罪を気づかされた一人ひとりが、私には救いが必要ですと神に向きなおらなくては、救いを受けることはできないのです。そのためには、呼びかける声がどうしても必要です。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。…良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」(ローマ10:14~15)
ここでザカリヤは息子の誕生を喜ぶ以上に、救いの歴史の中に今我が子が入れられ用いられようとしている恵みのゆえに、主を賛美しています。この子には主からのどのような使命があるのか、どのように世に仕えるべきか。私たちも自分の期待を横において、こどもや若い方を神からお預かりした大切な御器として愛し祈り、彼らの祝福のために喜んで持っているものを差し出してまいりましょう。
ザカリアを通して神は私たちに語っておられます。恵みによって私の子として生まれた者よ。あなたは主に出会っていない人に先立って行き、その道を整え、罪の赦しによる救いを証しするのだと。恐れることはありません。神の憐れみの心によって、私たちはその務めを果たすことができるのです。私たちもまた神の言なるキリストを預かり、その愛に生かされて伝える者です。
生まれつきの自分のままでは、ただ暗闇に堕ちていくだけです。自分が変わらずに人を傷つけ、奪うほうが楽ですが、そこには本当の命や喜びはありません。相手の方が神を受け入れるかどうかはおゆだねして、私たちは福音を伝え、具体的に愛を示しましょう。神が人となってくださったように。苦しみの時に一人でいるならば、それは暗闇の中にいるようなものです。しかし誰かが一緒にいてくれる、助けてくれる人がいるならば、暗闇に座り続けるところから立ち上がることができます。
3.キリストの光は、私たちの歩みを平和の道に導く。(79節)
「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(78~79節)
「暗闇と死の陰に座している者たち」とは、神から離れて罪と死の中にある私たちの姿です。その私たちの上に神の憐れみによってあけぼのの光が訪れ、私たちを照らして下さいます。その夜明けの光こそが主イエス・キリストです。神は私たちを救うために御子を送り、御子は私たちの受けるべき罪の裁きを受けて、十字架で死んでくださいました。そして神は御子をよみがえらせ、御子を信じる者にこの復活の命を、神とともに生きる命をお与えくださいました。どんなに深い闇が覆い、押し潰されそうになっても、復活の主が私たちを照らしてくださいます。光なる主によって私たちに新しい日が始まりました。神は私たちが暗闇の中で座したまま朽ち果てるのではなく、平和の道を歩む者となるよう願われます。御子によって神と和解させていただいた私たちは、隣人との間にも平和を作り出すよう導かれます。
平和の道。核兵器のない世界の実現のために、あきらめることなく、核のもたらす残酷きわまりない被害を語り続けてきた被団協が、ノーベル平和賞を受賞されました。受賞によってすぐに変化をもたらすことはできないかもしれません。けれどもとても大きな一歩であります。原爆が奪った数えきれない人の命、長きにわたる耐え難い病や差別。愛する方への思いが、もう決して被爆者を作ってはならない、世界中のすべての人が平和のうちに生きられるようにという強い原動力となり、今日まで活動が続けられてきたことと思います。
殺してはならない。神はすべての命をお造りになり、特に神の似姿として造られた人間をきわめて良いと言われました。神が愛してくださったように互いに愛し合い、命を尊び、この世界を守って主のご栄光を表す。人間はそのような存在に造られたのでした。ですからどんな理由があったとしても、戦争は神の御心ではありません。戦争は人間の仕業です。人が自分で暗闇を選び、神を、愛し合いともに生きるまことの命を拒否したことなのです。
神は激しくお怒りになり、しかし憐みに胸を焼かれて、御子をお送りになりました。御子によって私たちは罪赦され、神のもとで再び生きられるように救い上げられたのです。この恵みを知った私たちは、戦争の終結を心から祈るとともに、自分の罪と弱さを認め、隣人との平和を祈るようになります。古い自分のままで、イベントとしてのクリスマスを迎えることはできます。けれども主に向き直り、私の救いのためにお生まれくださった御子の恵みを心いっぱいに受けるならば、私たちは変えられます。どれほど大きな喜びがあることでしょう。
「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」(80節)
やがてヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝える者となります。荒れ野は物質的な支えを奪われ、自らの貧しさを味わう場です。それによって人は、唯一の堅固な方である神を知ります。ヨハネは祈りと御言葉によって神との関係が強められ、主を証する使命を果たすことができました。私たちもなお祈りの生活に導かれたく願います。
荒れ野には、神殿で祭司として仕えていたならば出会うことのできなかった人たちもやって来たはずです。教会に来ることが難しい方であっても、私たちの普段過ごしている場所には来られるかもしれません。そこには御子もまた来てくださいます。私たちが遣わされる場所でその機会が開かれ、聖霊の喜びをもって一歩を踏み出すことができますように。主よ私たちを、あなたの救いを伝える声としてください。主にのみ栄光がありますように。