「共に座る幸い」7/13 隅野徹牧師


  7月13日 聖霊降臨節第6主日礼拝・転入会式
「共に座る幸い隅野徹牧師
聖書:詩編 133:1~3

(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今日は、日本基督教団の聖書日課で選ばれている箇所のなかから詩編133編を選び、このところからみ言葉に聞きます。 この箇所は詩編のなかでも最短の箇所でありますが、6月の「掲示板にかかげる御言葉」に選ばせていただいたり、私にはとても意味深い言葉として「思い出すことの多い言葉」です。

今日は、このあと平野正行兄弟の転入会式を執り行いますが、式を行う日に、この「兄弟、姉妹が共に歩むことが深い言葉で教えられる、詩編133編」が与えられたところに神の導きを感じます。他の箇所も引用しつつじっくりと味わってまいりたいと願います。

この詩編には1節に「都に上る歌」という「タイトル」がついています。つまりこの詩は、イスラエルの人々がエルサレム神殿に礼拝する旅の途中に歌っていたものなのだと考えられているのです。

兄弟とは、血縁関係のある兄弟という意味ではなく「信仰による兄弟姉妹のこと」です。

ユダヤのお祭りで各地から「いろんな兄弟姉妹」が巡礼のたびを続けてやってきました。祭りの最後の盛り上がりの夜に、この詩人は、皆が一堂に会している姿に感動して、感嘆の声を上げているのです。「ご覧なさい!なんいうすばらしいことでしょう!兄弟たちが、笑顔で一緒に座っています。」そのような感じの感動が1節で語られているのですが、その1節は最後に味わうことにいたします。

先に2節以下を読んでみましょう。

23節前半を読みます。

ここでは、「天から、神から滴り落ちるようにして与えられる恵み、祝福」が歌われます。二つのことが歌われます。Aかぐわしい油が髭にしたたるということと、Bシオンの山にしたたる露として表現されています。

まず一つ目の「かぐわしい油」です。これは、人が誰かの家に招待されてもてなされる時、最初にもてなしのしるしとして「頭に注いでもらう油」だったそうです。

それほどまでに主なる神にもてなしていただいている、という恵みが歌われています。

そしてアロンの名前が出てきますが、アロンは祭司の先祖と言われている人です。その祭司に油を注ぐことは、祭司を聖別してその任務に就かせる意味がありました。

だから、私たち一人ひとりも「神から恵みの油によって聖別され、共に主に仕

える恵みに与かっている」そんな恵みが読み取れるのです。

二つ目に歌われている情景、それは「ヘルモン山の露」です。

ヘルモン山とは、ガリラヤ湖の北にある標高3000mに近い山です。ヘルモン山は標高のせいか、夜と昼では寒暖の差が激しく、地中海からの風が山の木々や草にあたって露が降りました。

そのうるわしさと同じ、いや、それ以上の恵みが「神の神殿があるシオンの山に

注がれる」のです。主なる神が共におられるところには「露が降り注ぐような恵み」が注がれるのです。

そして最後の3節後半では、「神が共におられる恵み」が、具体的に何であるのかが表されています。

新共同訳の「布告された」という言葉は分かりづらいですが、要は「神は、あることが成就するのを命じておられる」という意味です。神は、豊かな祝福と「永遠の命を与えられる」ことを命じられていると言っています。

もちろんこの「神の豊かな祝福」「永遠の命」は、旧約聖書の時代には実現していなかったのですが、神の独り子イエス・キリストがご降誕くださり、十字架と復活の業を成し遂げてくださってはじめて、私たちが受けられるようになったのです。

それは…神の子キリストが「わたしたちの兄弟となられた」からだということが出来ます。神の子が私たち人間と同じの姿になって、私たちと共に歩んでくださり、最後に「わたしたちの罪をその身に担って下さった」のです。

高みの見物的に、人間を操る神では全くないのです。愛の故に低いところに降りて下さり、私たちと共に歩んでくださる救い主キリストが、今日の中心聖句である1節の言葉のように「兄弟として、共に座って下さった」…まずそのことがあって、違いをもった私たち一人ひとりが「兄弟姉妹として、共に座る恵みにあずかることができる」ことを覚えましょう。

残りの時間、後回しにした1節のことばを味わい、そこから結論的なメッセージをいただきたいと願います。

もう一度1節を読んでみます。

先程、この詩編133編は、シオンの神殿に各地から巡礼の旅をしている人々が「一同に会している様子を思い浮かべて歌っている」といいましたが、具体的には祭りの最後の夜に、多くの違いをもった兄弟姉妹が一緒に食事をしている様子を思い浮かべていると言われます。

多くの違いをもった人々が、その違いを乗り越えて「神にあって食事をしている」その様子を思い浮かべているのです。ただこれは「完全に実現していることに感動して歌っている」というのではなくて、「それが実現したら、どんなに幸いだろうか…」と未来に思いをはせて歌っているものだと私は理解します。

そして…この詩人がうたった「神にあって、違いをもった一人ひとりがともに食卓につく幸い」は、先ほどお伝えしたとおり、「神の子でありながら私たちの兄弟姉妹となってくだった救い主イエス・キリスト」によって成し遂げられるのです。

新約聖書を一か所、共に開きたいと願います。 主イエス・キリストが「十字架につかれるまえの祭りの日、弟子たちと共に食事をなさった」いわゆる最後の晩餐の箇所を見たいのですが、マルコによる福音書で読みたいと願います。

皆様、新約聖書のP91をお開きいただけるでしょうか。マルコ1412節から26節です。 ここをざっと目で追ってみてください。

 最後の晩餐を「ただの食事」ではなく「新しい契約のしるしとしての食事にしてくださった」ことが分かります。つまり「罪が赦され、神の国にて永遠の命を生きることができる」ことのしるしが、この食事に表されているのです。

 イエスとともに食事の席についた弟子たちは、よい意味で個性的でしたが、はっきりいってしまえば違いから言い争ったり、どっちが立派かなどと遜りのない状態でした。それは今開いているマルコ1412節以下でも見て取れます。

 そして、このあとイエスを裏切る「ユダ」も一緒に招き、この食事がなされているのです。

 何度も読んできた、この「最後の晩餐の場面の聖書箇所」ですが、今回私は「詩編133編」と一緒に読むことによって新たな思いが心に沸いたのでした。

 それが「罪をもった私たちが、それでも永遠の命を得るために、そして違いをもってしばしばぶつかり合ってしまうような私たちを一つにする、そのために」主イエスが私たちの兄弟姉妹となってくださり、そして食事を共にしてくださるのだ、ということです。

 6年前に天に召された寺本玲子姉妹が、人生の中での最大といっていい喜びを感じた出来事として「千人もの人と一緒に受けた聖餐式」をあげていらっしゃいました。

 それは20年ぐらいまえに、千葉の幕張メッセを会場にして行われた「教会婦人会連合」の全国大会でのことだそうですが、寺本さんは全国各地からあつまってきた「違いをもった一人ひとりが」キリストにあって、一つのパン、杯に与った中に入り、「これが天国の情景なのだ」と感じたのだそうです。

 今後、聖餐式をもつとき皆様、ぜひ今回味わった詩編133編を同時に思い出し見てはいかがでしょうか。罪のなかにある私たちが、違いをこえて一つとされているのです。その中心に主イエス・キリストがご臨在くださり、その主ご自身が食事の席に招いてくださっている…これが教会なのです。

 違いをもった一人ひとりが主にあって「一つにされる場所」それが教会ですが、今日このあと、一人の兄弟、平野正行兄弟が、私たちの教会員として主の導きによって加えられたことを記念して「転入会式」を執り行います。

 平野兄弟と、私たちの間に主がいてくださり、執り成しをしてくださり、これからも共に歩めますことを感謝します。「なんという恵み、なんという喜びか…」と私は感じます。

 このように、キリストにあって、一つとされる恵みを一人でも多くの人と味わえるように、祈ってまいりましょう。(祈り・沈黙)