「力と聖霊と強い確信と」8/13 隅野徹牧師

  8月13日 聖霊降臨節第12主日礼拝・聖餐式
「力と聖霊と強い確信と」隅野徹牧師
聖書:テサロニケの信徒への手紙一 1:1~10

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今朝は、「聖書日課」のうち、テサロニケの信徒への手紙Ⅰの冒頭の箇所を選びメッセージを語ることにしました。

 テサロニケの信徒への手紙は、この教会の土台を据えた使徒パウロが書いたものですがはじめに、その背景について少し語らせてください。

しかしパウロは、反対者らによる騒動のために、志半ばでこの町を去らなければなりませんでした。彼らに福音を宣べ伝えた伝道者がいない…そういう、大きな困難をかかえた、「誕生間もないテサロニケ教会だった」のです。

しかし、パウロはこのテサロニケ教会の様子を心配して祈っていたであろうパウロは「感謝な報告」を受けるのです。その感謝の思いが溢れているのが、今回の箇所です。

 早速御言葉を味わってまいりましょう。

順番がまちまちになりますが、まず8節を読んでみます。【※よむ】

マケドニア州とはギリシャの北部で、アカイア州というのは、アテネ、コリントを中心とするギリシャ南部です。つまりギリシャ地方全域に、テサロニケ教会から、神の言葉が響き渡っているというのです。弱さと困難をかかえた教会が、伝道の拠点となっていたのです。

しかも、パウロは「何も付け加えて言う必要はないほどです」とまで言っているのです。これは「言葉で表せないほど、最高に感謝している」という意味です。その理由は6節、7節で見ることができます。(6節、7節をお読みいたします)

彼らが神とその独り子イエス・キリストを信じて生きている、それが「具体的な生活の姿」を通して伝えられた、だからパウロは「最大級の感謝」を感じているのです。

しかも6節には「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」という言葉があります。

使徒パウロがテサロニケに留まることができなくなるほどの反対があり、この信仰に敵対する者たちが沢山いたのです。しかしテサロニケの信徒たちは「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」、信仰に生きる喜びを証ししたのです。このテサロニケの信徒たちによる「神・キリストを信じて喜んで生きる様子」によって、「主の言葉がギリシャ全土」に響き渡ったのであります。

さらに7節には「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」という言葉もありますが、間違って捉えてはならないことがあります。テサロニケ教会の人々がこのようになることができたのは、「彼らが頑張ったから」とか「熱心に努力したから」ではありません。テサロニケ教会に起ったことは、私たち山口信愛教会と無関係なことではなく、私たちにも与えられる恵みなのだということをまず考えたいと思います。

 そこで戻って4節5節を読んでみます。

ここでは、テサロニケの信徒たちに「福音が、パウロを通して伝えられたとき」のことが語られています。

4節では、テサロニケの信徒たちが(強)「神に愛され、選ばれている」ということが語られますが、その理由が5節で語られているのです。

 その理由とは、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによった」ということです。

この言葉から、今日の説教題は取らせていただきました。

ここで注目すべきこと、それは福音の伝道は、×パウロたちが伝えたと言われているのではなく、◎「あなたがたに伝えられた」と受け身の形で言い表されていることです。

つまり!そこには、「神ご自身が!!テサロニケの人々に福音を伝え、業をなしてくださった」ということです。伝道者の働きではなく、神ご自身のみ業があった。それは「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによって」なされたのだ!ということが語られているのであります。パウロはそこに、「テサロニケの信徒たちが神に愛され、選ばれていること」のしるしを見ているのです。

とくに「ただ言葉だけによらず」という言葉が大きいのではないでしょうか。

私たちは「言葉だけで福音を語ることはできない。お友達や家族を教会に誘う言葉をもっていない…」と思ってしまいます。

しかしここで言われているのはそういうことではないのです。神は言葉ではなく、そして行動でもなく「神ご自身の力と、聖霊と、強い確信」をもって、人に伝わる!そのように教えるのです。

福音を告げる言葉が語られる時、そこに!「神ご自身が、力と聖霊をもって働いて下さる」のです。神の霊である「聖霊」が、人々の心を動かし、キリストを救い主として受け入れるという「強い確信」を与えて下さるのです。

 「力と聖霊と、強い確信とによった」とパウロは言っています。

ある牧師は「強い確信によって福音が伝わる…」、ということに関して、次のような印象深い言葉をいっています。

「伝道者が福音のみ言葉を語る、それは、学んで得た知識を右から左へ伝達する、というようなことではありません。説教が、「ただ言葉だけ」のものではなく、力あるみ言葉の説教になるためには、語る者の中にこの強い確信がなければなりません。御言葉は強い確信をもって語られる時に、迫力あるものとなるのです。そしてその強い確信は、聖霊のお働きの中でこそ与えられます。それは努力して得るものと言うよりも、祈り求めていくべきものなのです。」

 同じことは、語る機会があるかないか、つまり「教師か、信徒か」ということに関わらず、信仰者一人一人においても言えるのです。それは6節から分かります。 (※6節を読んでみます)

聖霊の力強い働きのもとで、私たちが強い確信をもつことで、神の業がおこっていくのですが…それはただ待っていればいつか起るというものではありません。「御言葉を受け入れる」ということがなければそれは起らないのです。

説教者だけでなく、御言葉を聞く者一人ひとりも、「それを受け入れるという決断!」を求められているのです。

それは苦しみの中で、悲壮な決意をして、ということではありません。「聖霊による喜びをもって」なのです。

「喜ばなければならない」という義務感で喜ぶのではありません。聖霊の働きによって、み言葉を喜ぶ思いを「強い確信をもって与えられる」そのことが教えられていると理解しましょう。

テサロニケの信徒たちは、「ひどい苦しみの中で」キリストの福音を受け入れたのです。ひどい苦しみの中にあっても、御言葉には喜びがあり、その喜びによって苦しみに耐え、打ち勝って行く力が与えられるのです。聖霊の働きによって、御言葉を喜ぶ、つまり「イエス・キリストによる福音を心から喜ぶ思い」が与えられることを覚えましょう。

今日のメッセージをまとめたいと思います。 

聖霊の力強い働きによって、私たちが、御言葉を「喜びをもって受け入れるとき」神・キリストの愛と恵みがその人を「苦しみの中でも、真の喜びをこころに抱き、神の愛と恵みが働く器」として造り変えていって下さるのです。そのことによって7節、8節にあるように、テサロニケの信徒たちを通して「福音」は広がっていったのです。

7節に「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」という言葉が出ます。

「模範」と訳されている言葉は、もともと「ひな型」という意味の言葉だそうです。ものすごく立派だから模範的だ、という意味ではなく神・キリストの福音によって生かされている者の姿がそこにある、というが表れているのです。

現代を生きる私たちも、福音の御言葉を聞き、そこに聖霊が力をもって働いて下さる「実例」をもることができます。 先週の平和聖日でお迎えした「近藤高史さん」がまさに、よい例だと思います。

最後に、先週の近藤さんのお話しを通して実際に働いたことを思い出し、今日の御言葉と重ねて見て、メッセージを閉じたいと思います。

先週お聞きした通り、近藤さんは放蕩息子の話を「地で行くような生き方」をされていました。そしてアメリカに行き、ご友人の「粘り強い誘いにより」、教会に「嫌々ながらいった」そうです。 その後、「池の鯉を避難させている」とき、キリストの救いが、まさに「聖霊によって力強く、そして強い確信をもって」迫ってきたと、仰っていました。

その後の「ハンガーゼロ総主事」としてお働きの原点は、ここにあったのです。

 いのちの危険のある中「戦地や被災地をまわり、国籍や人種、そして宗教が違う人を神の愛によって愛し、助ける」それは、私たちにはとてもできないことです。

まさに「人間の力ではなくて、神の力」が近藤さんを通して働いていることを私たちは見ます。そこには「神の霊である聖霊の働きと、御言葉に生きているからこその強い確信」があること、そして「苦しみを超える真の喜びが彼をいつも覆っていること」を感じられたのではないでしょうか?

その近藤さんのお働き、ハンガーゼロのお働きは、テサロニケの信徒たちがそうだったように、「すべての信徒の模範」となるものだと私は考えます。

私たちも、まず「御言葉をしっかりと受け入れ」「神の力、聖霊の力に満たされ」そして「神から救っていただいたという、強い確信をもって」日々を歩んでまいりましょう。

(祈り・沈黙)