1月16日 降誕節第4主日礼拝
「天の父の御心と御子の業」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書6:34~51
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今朝の聖書箇所は、先週に引き続きヨハネによる福音書6章の、新共同訳聖書では「イエスは命のパン」という小見出しが付いた箇所です。22節から59節までが一連の箇所ですが、これは「5千人の給食の奇跡」、「嵐の湖の上で悩んでいた弟子たちのところに、イエスが水の上を歩いて近づかれた場面」につづく場面です。
二つの奇跡を通して、「ご自身が神の子キリストであることをお示しになった後」イエス・キリストが「大切な教えをなされている箇所」です。ここを3回に分けてお話ししますが、今日はその2回目です。
最初に先週の箇所22節から33節を振り返ります。
多くの群衆が「ひとりで山に退かれたイエス」を執拗に追い回していました。それは先週お話しした通り、彼らなりの「真面目な求めがあって」のことなのです。
この人たちは、ローマ帝国の支配下にあった当時のイスラエルの状況に強い危機感を抱いていました。多くの人が税金をむしり取られて苦しい経済状況にある状態から、強いリーダーが与えられて、救い出されることを待望していたのです。
イエスとモーセとを重ねて見て、またイエスが増やされたパンと、モーセの時代に天から降ったマナを重ねて見て、期待したのです。それでイエスを「実際のリーダー、先生」として期待して執拗に追い回したのです。そして、イエスから「神の業を行うにはどうしたらよいか」という教えを請おうとしているのです。
彼らはとにかく「目に見える証拠」を見ようとしています。そして「自分が手応えを感じる形で、善を行い、神から報いを受けたい」と願っています。
しかし、先週の箇所でイエスが教えられていることは、実に単純明快でした。「イエス・キリストこそが神の子、救い主であることを信じる。そのイエスと共に生きる、従って生きる」ということでした。
今週の箇所では、先週とは別のテーマの大切な教えに絞ってみ言葉を味わいたいと思います。それは「私達を決して追い出さない、見捨てないイエス・キリスト」ということについてです。早速味わってまいりましょう。
まず34節から36節です。(※ここを読んでみます)
イエスを追い回し「担ぎあげよう」としている人々は「そのパンをいつもわたしたちにください」と言います。以前、私はこの人たちがイエスを「便利な道具のように考えている」と理解していましたが、そうではないことが分かりました。
彼らは「わたしたちにください」と言っていることから分かるように、自分さえ楽をできればよいという考えなのではありません。「イスラエルの民全体」を考えて物を言っているのです。
でも彼らは方に力が入りすぎています。先ほどお話ししたように、モーセを必要以上に「リスペクト」し、目の前にいるイエスを「モーセの再来なのかどうか」目に見える証拠をもって確認しようとしたのです。
前回みた30節と31節を見て下さい。
ここで彼らはイエスに対し「あなたがモーセのように神から送られたリーダーであることを信じたいのです!モーセがマナを降らせたようなしるし、証拠を見せて下さい!」というようなことを言います。しかしイエスは32節で「マナを降らせたのはモーセではなくて、神だ」とお答えになります。
そして「マナだけが特別なのではない。神はまことのパンをお与えになるのだ」と仰るのです。33節の「神のパンは天から降ってきて、世に命を与えるものである」とは、まさに「ご自分こそが、人々を養う、目に見えない命のパンだ」ということを教えられたものなのです。今日の箇所の35節で語られる「わたしが命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」という教えと同じです。
これに対して、イエスを追い回す彼らが発した言葉が「そのパンをいつも私達にください」という言葉なのでした。
どこまでも疑い深く、そして「モーセのようなリーダーを作り出すことが大切だ」という自分たちの理想を絶対化した様子が分かります。そして何より問題なのが「目に見える証拠を意地になって求め続ける姿勢」です。
ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあるとおりです。証拠探しばかりでは信仰は持てません。 今朝ここに集っている私達は「すでに!たくさん!!」「イエスキリストが神の子・救い主である」というしるしを見せていただいているのではないでしょうか?
「私のこの願いを叶えて下さい。そうしたら、今まで以上にあなたを信じることができます」と祈っているとすれば、それは36節にイエスが言われたように「あなたは私を見ているのに私を信じない」状態です。疑い深い方も、これ以上印を求めるのではなくて、ぜひ信じて一歩を踏み出していただきたいと願います。
続いて、今回中心的に味わう37節から40節です。
最初にお話したとおり、ここからは私達を決して追い出さず、見捨てない、愛に満ちた天の父なる神の御心、そして「そのことを証しする、御子イエスキリストの業」が見て取れるのです。今日の説教題につけた通りです。
今回、私はここから2つの面で「見捨てない」という大切なメッセージを受けましたので、その2つのポイントからお分かちします。
1つ目は「日ごとの糧を与えて見捨てない神」です。
38節に私が天から降ってきたのは、自分の意志を行うのではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである、というイエスの言葉が出ます。どういうことかというと「ご自身の行われている奇跡の業は、すべて天の父なる神の御心によるものだ」ということなのです。
ここでおもに語られている「イエスのなさった業、奇跡」は「5千人の給食の奇跡」です。イエス・キリストが多くの人々にパンを与えられたその奇跡の業は「神の御心を示すために他ならない」ということです。
では、どんな御心が示されたかというと「あなたたちの生きていくために必要なものを私は心に留めている」という神の愛なのです。これは37節の「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」ということばや、他の言葉にも表れています。
イエスは繰り返して「パンを増やす」ことはされませんでした。それでも1度の奇跡で「十分に!」「私達の日ごとの糧に心を配ってくださる神の愛」を証ししてくださっているのです。
民たちを空腹のまま返されることをされない御子イエス・キリストは「その父なる神が、私達の肉体の必要なものを理解されておられる」ことを業によって表して下さいました。
世の中の宗教の中には「信仰があれば、断食したって生きていけるだろう!」といって「餓死寸前の苦行を課すようなもの」もたくさんあると聞きます。しかし聖書が証しする神は全く違うのです。
そして私は今回、イエスがパンの奇跡を何回も繰り返されなかったということに注目しました。でもイエス・キリストの父なる神は、私達に食べ物を与えることを渋る方ではなく、私たちが気づかないところで「豊かに与えて下さっているお方だ」ということに気づかされました。
神は「サプライズ」のような与え方をされるよりも「あたかも当たり前にいつもある」と感じるような与え方をなさる方なのではないでしょうか?
「奇跡的な方法を連発して、不思議な形で食べ物を与える方」ではなく「当たり前のように食べ物を備えたものお方」であることをそれが聖書の証しする神です。しかし、そこに愛が証しされているのです。 「びっくりするような仕方」でしか食事を与えない親を子は信頼するでしょうか?
ある牧師が「信仰生活とは、神が繰り返し、日ごとに与えてくださる天からの賜物に気づき、感謝する生活なのである」と言われています。まさにこの言葉の通りだと感じます。私達は、当たり前に見えても、天から降ったマナや、奇跡で特別に増やされたパンでなくても「日ごとに与えられる糧に、神からの愛を感じて」感謝のうちに受け取りましょう。
最後に短く、もう一つの面での「見捨てない」という大切なメッセージをお話しします。それは私達を永遠の命に導くという最終目的のために見捨てないのだ、というメッセージです。とくにそれが表れている39節40節を読みます。
神が私達になさろうとしている最終的なことは「終わりの日に復活し、永遠の命を得ること」であることが分かります。しかし、私たちが考えたいのは、生まれてすぐ復活するのでもないし、いきなり永遠の命を得て天に行けるのではないのです。
そうではなくて、この地上での歩みの中で「神と出会い、神を信じ神に従う決心をしてから」復活し、天に行き、永遠の命を得ることを望んでおられるのです。この地上の歩みは苦しいことがたくさんです。罪に押し流されることだってあります。しかし、その戦いの日々の中で「神と出会うために」御子イエス・キリストが導いてくださるのです。
あなたたちは罪深いだから知らない!とは言われず、神や真理について分からないでい多くの人を招き、そして実際に「生きていくのに必要なものを」お与えになるお方愛のお方なのです。
皆さま、ぜひ今回の箇所からも「御子に奇跡の業を行わせて、天の父なる神は、私達に何を示そうとされたのか」心に留めましょう。どんなに苦しいときも見捨てない、愛の内にお支えになる神の愛を感じて、この先も歩んでまいりましょう。
(祈り・沈黙)
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