8月20日 聖霊降臨節第13主日礼拝
「御言葉を聞いて実践する」隅野徹牧師
聖書:ヤコブの手紙 1:19~27
今日は、示された「聖書日課」のうちヤコブの手紙1章からの部分を選びメッセージを語ることにしました。
説教題に「御言葉を聞いて実践する」とつけさせていただいたとおり、聖書の御言葉は「ただ聞く」だけではなく「生活の中で態度や行動として表われるものである」と聖書は教えます。聖書の言葉が生き方に現れる…それがキリスト教信仰といえるのです。
しかし!一方で注意しなければならないのが「私たちが、善い行いをしたから、その功績によって神に報いられ、救われるのではない」ということです。
使徒パウロが、新約聖書の色々な箇所で「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と教えているように「すべての人間は、善い行いの積み上げで救われるのではなく、ただキリストを救い主として受け入れるその信仰によってのみ救われることができる」のです。
つまり「自分の罪を悔い、神の救いの恵みを信じる者が、神の愛によって特別に義しとされ、永遠の命を生きる者となることができる」というのが、「どういう行いをするか」とは関係なく与えられる、私たちの希望だと知っています。
しかし、この手紙の著者である使徒ヤコブがエルサレムの、いわゆる「初代教会」を指導していた時代には、あまりにも行いの伴わない、口だけのクリスチャンが多かったと言われています。
今回の箇所の先の箇所なのですが同じページの2章18節を見ていただけますでしょうか?
「『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません」という言葉があります。ここからは信仰と行いを分けて考える人がいたことが読み取れます。また「行いの伴わない信仰」を肯定するような、「本来イエス・キリストが教えられた信仰の道」からまるで違う生き方が横行していたのです。
そのような状況で、ヤコブはメッセージを手紙に記したのです。
ヤコブの手紙は「誤解されることが多い」ですが、「立派なクリスチャンとなるために、善行を積みなさい」と教えているのではありません。主題は今日の箇所にあるように「信仰をもって御言葉を受け入れること」です。信仰をもって御言葉を受け入れる」とは…「御言葉を単に聞くことだと受け取る」のではなく、御言葉が生活の中で生かされている、御言葉を基にしていきていく」という、そのことを教えています。
共に御言葉を味わいましょう。
今回の箇所には「クリスチャンでなくても、人生訓としたらよい、様な教えが出てまいります。それが19節から21節、そして26節、27節です。
27節は、先日「ハンガーゼロ、国際飢餓対策機構」の神の愛に基づく活動内容を詳しく聞いた私たちとしては、心に刻みたい言葉です。
「世の汚れに染まらない…」という言葉があります。世界はますます貧富の格差が大きくなっていくなかで、私たちに自分の生き方を振り返らせる1節ではないでしょうか?
自分自身がいかに豊かになるか…そればかりを考えて世の多くの人々が生きている中、その価値観に染まらず、「隣人を愛するために生きる」とくに「本当に困っている人のために、自分の持っているものを分かち合う」その生き方を貫くことは、結果的に豊かな人生をもたらす、ということをこの聖書の箇所も教えています。
そして、19節から21節、そして26節では「舌を自制すること、怒りを自制すること」について教えられています。とくに26節の「人の怒りは神の義を実現しない」ということは、私も肝に銘じていきたいと願います。
SNSの発達などにより「人と違う意見を自由に発信しやすい」時代になってきました。その中には「世を直したい!」という正義感から強い意見を発信する人が増えていますが、多くは「神の義、神の御心」からは離れたものではないでしょうか?
神の国と神の義を第一に求める…そのことを忘れず、不適切な発言や怒りから解放されてまいりましょう。
このように格言的な教えの並ぶ「前半部分、後半部分」を見てまいりましたが、中心的な教えは「真ん中の部分にある」と私は考えます。
残りの時間22~25節から御言葉を味わってまいりましょう。
(※では22~25節を読んでみます)
22節は、メッセージの最初でもお話ししたように、「御言葉をただ聞くだけで終わる者にならず、行う人になるように」という、この手紙の主題というべきものが出てきます。
そして「御言葉を行う人」とは、どんな人なのか、それがこの部分で教えられています。 最初にお話しした通り、ここでは「イスラエルの人がそうだったように、律法を字句通りに解釈し、その言葉通りを、見える形で行う」ということが奨励されているのではありません。
ポイントになるのは25節の「自由をもたらす、完全な律法を一心に見つめ、これを守る人」という言葉です。 これが「御言葉を行う人だ」とヤコブは教えているの理解できます。では「自由をもたらす、完全な律法」とはそもそもなんでしょうか?
それは旧約聖書の『モーセの律法』を指すのではありません。そうではなく神の子イエス・キリストによって更新された、結び直された『キリストの律法』です。新約聖書の教えという言い方もできます。
旧約律法は「〇○してはならない」「○○せねばならない」という文体で書かれているものが多いのに対し、新約の教えは少し教えの言い方が変わります。
自由を前提にした教えが多いのです。
キリストが救いを成し遂げて下さった、その前提に立つかたちで「それぞれが、その恵みに応答して、神の前に自分をささげ、用いていただきなさい」という教えが中心になります。だから「自ら、率先して」とか「神の恵みを受けたものとして、神を悲しませるようなことをせず、悪から離れなさい」というような教えが続くのです。
明らかに旧約聖書の教えと変わっています。たとえ「見た目は同じ良い行い」をするのでも、その行動の背後にある動機に「神への感謝がある」それが新約聖書の教えです。
今のことを、有名な「よいサマリア人」のたとえから見てまいりたいと思います。
皆様、新約聖書のP126の下段 ルカによる福音書10章25節をお開けください。
25節をご覧ください。律法の専門家が出てきます。有名なこの「よいサマリア人」の話ですが、これが話されるきかっけは「自分は、律法を完璧に守っていて、このままいけば永遠の命が得られる」と考えていた律法学者が、イエスに対し、自分の義さを見せようとした…そこから話が進んでいます。
27節に彼が挙げる、律法。「神を愛し、隣人を愛する」これはすべての律法の要点を一言でまとめたすばらしい答えです。 しかし!律法学者はこれを「救われる条件」そして「義務、命令」として受け止めています。
彼の中での「旧約聖書の教え」は隣人を愛するための掟ではなくて、「隣人を愛する自分は良い人間だ!とアピールする道具」としての掟になってしまっています。
一方この「よいサマリア人のたとえ」でイエスが教えられたのは「隣人になる教え」です。とくに最後の37節にありますが、「あなたも、ここから一歩進んで、だれかの隣人になりなさい」ということを教えておられるのです。
「自ら、率先して」、という自由があります。そして「神の恵みに応答する」という「生き生きとした姿」がここにあるのです。 今回の聖書箇所であるヤコブ書の1章25節にある「自由をもたらす完全な律法を一心にみつめ、これを守る人」とは、イエスが「よいサマリア人」の箇所で教えられたことと繋がる、と私は思います。
開かれなくて結構ですが、マタイの7章12節に「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ、律法と預言者である。」とある通り、神の恵みに感謝しつつ、人を愛していくことこそ、「完全な律法を見つめること」なのです。
最後にヤコブ1章に戻って、残った箇所から短くお話しをします。 もう一度P422をお開けください。
残ったのが23節と24節ですので、この2つの節を読みます。
ここでは「御言葉をただ聞くだけで、実行しない者」が「鏡に映る自分を眺める人に似ている」ということが教えられています。
とくにここでは「立ち去る」という言葉が大切だと多くの注解者がいっています。
昔の鏡は、いまのような大きなものはなく、クリアでもなかったため、その用途は「自分の身だしなみをチェックし、直す」ためのものだったようです。
現代の私たちは鏡に映る自分をちらっと見ただけで立ち去る、ことは多くありますが、昔の人にとって「鏡に映った自分をみて、何もせずにいること」は、それこそ「鏡の無駄遣い」のような感じで思われていたようです。
この箇所で聖書が私たちに伝えようとしていること、それは「聖書の御言葉が、私たちにとっての心の鏡である」こと、そして「御言葉を読みながらも、自分の心の中を正さないなら、それは、本当にもったいない」ということです。
先ほど読んだ良いサマリア人の中の「律法学者」にとって、「聖書・旧約律法という鏡」は「自分を正すもの」ではなく「自分に見とれる、うぬぼれの道具」になってしまっていたのです。
私たちは時々「自分の心の中はこれで良いのか?」とチェックする必要があります。
繰り返しになりますが「善い行いの量によって報われ、救われる」のではありません。しかし、神の恵みにより無償で愛され、生かされている。その喜び、その感謝が、私たちの人生に生かされているか?そのことをチェックする必要があります。
むしろ、聖書を日常的に読んでいるなら、自分の心の中を問う機会やきっかけを、神が与えてくださることは間違いありません。
そしていままで以上に積極的に出て行って、「隣人を愛する」生き方へと、神の御言葉は導いてくださいます。その行いは「私たちの人生を、本当の意味で豊かにし、幸せにする」と信じています。 (沈黙・黙祷)