「心を尽くして主を愛しなさい」12/28 隅野瞳牧師

  12月28日 降誕節1主日礼拝
「心を尽くして主を愛しなさい」 隅野瞳牧師
聖書:申命記 6:4~15

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 本日は、神の民が祝福のうちに歩むために心に留めるべきことについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。

1.すべてを尽くして主を愛する。(5節)

2.生活の中で、主を愛することを伝える。(6~7節)

3.満たされた時に、主を忘れないようにする。(12節)

 

 申命記は「再び与えられた命令の記録」という意味です。エジプトで奴隷として苦しみうめいていたイスラエルの民は、主なる神によって救い出され、約束の地カナンに導かれていきます。しかし途中の荒野で水や食べ物に困ると、「エジプトにいたほうがよかった」と民が反抗したため、主はお怒りになりました。主に背いた民は荒野で40年間さまよった後に絶え、主に従ったわずかの者たちが生きて、約束の地に入ることになります。

 

1.すべてを尽くして主を愛する。(5節)

いよいよカナンの地を目前にし、主はかつてシナイ山でモーセを通して与えられた十戒や律法を、再びイスラエルの民に命じられました。はじめに主が掟を与えられた時から40年が経っていたからです。かつて大いなる御業をもって主に救い出されたことや、主に背いて滅ぼされたことを知らない若い世代に、主はあらためて律法を与えて、イスラエルの民と結んだ契約を確認されたのです。荒野で日々主に従ってきたように、約束の地に入った後も神の民として、同じ信仰をもって歩むためでした。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(4~5節)

エジプトから救い出されて、今ようやく豊かな祝福に入れられようとしている民に、その恵みにしっかりとあずかるようにと主は願われます。そのために必要なのは、唯一の主を、すべてを尽くして愛することです。当時イスラエルの民を取り巻く国々は、エジプトもカナンの地も多神教でありましたが、人間が考え出した神々と違い、主なる神だけが真の神であることがここではっきり示されています。

イスラエルの民が主なる神を唯一の神と信じ従うのは、主が彼らをエジプトの奴隷状態から解放して下さった大いなる愛、救いの恵みを受けたことへの感謝の応答です。主は唯一の主であるという信仰を真実に告白するのであれば、主なる神を心から愛するのは当然です。この言葉は私たちにも語られています。キリストによって私たちを罪と死から救ってくださった主なる神に、私たちは僕として仕えます。

すべてをお造りになった主が造られた者を、愛し合う関係に入れてくださる。本来ありえない恵みです。私たちが主を愛する愛は、まず主のほうから示された愛によってもたらされます。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)

主を愛するとは、主の御言葉に聞き従い、主との深い交わりに生かされることです。主への愛は全人格的なもの、行いを伴うものです。主に応答し、実際に行動を起こすところに、主は働かれます。主イエスは律法の中でどれが最も大切な掟ですかと律法学者に尋ねられた時に、「心を尽くし、…主を愛しなさい」との御言葉を挙げられ、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を、同じく重要なものとお答えになりました(マルコ12:29~30)。神を愛する人は、それが必ず隣人への愛となって現れます。

唯一の主を、すべてを尽くして愛しなさいとの命令は、排他的なものではありません。聖書では神と私たちが、夫婦の関係として表されています。夫婦は結婚の誓約によって結ばれ、ともに生きるようになります。夫がいるのなら、他の男性と同じような関係をもたないのが当然であるように、私たちはただ一人の主を愛し仕えます。しかしそれはほかの関係を遮断するのではありません。心から愛し合っている夫婦は、外に向かって開かれていきます。そのように私たちも主とともに生きる者として、家族や友人を愛していくのです。

 愛は相手に自分の持てるものを差し出すことですから、痛みや犠牲を伴います。けれどもそれは当然のことです。誰かを愛するならばその人の苦しみも必要もともに担いたいと願い、その人中心に一日が回るようになっていきます。そして気がつけば自分が変えられているのです。主を愛する者もまた、御言葉に従って自分が変えられていく、自分の十字架を担う苦しみがあります。けれども人生のあらゆる領域において、中途半端ではなく主を愛していくことが、喜びとなっていくのです。

 本日の箇所ではまことの神と偶像が対比されています。自分の都合に合わせて作った偶像は、利益を与えてくれるので拝みます。けれどもまことの神は、私たちが「愛する」お方です。私たちは神と人格的な関係をもって愛し合います。それが、主なる神を信じるということです。おいしいものを食べたり趣味にお金を使えば一時心が満たされたように感じますが、主がともにいてくださる喜びは深いところで続き、自分を通して周りにも愛が流れていきます。

 はじめに主が私たちを愛し、形造り、すべての善きものをもって満たし続けてくださっています。何よりも御子を私たちの救いのためにお与えになったのです。私たちはこの主に何をもってお返しすればよいでしょうか。どんなものも取るに足りないものです。けれども私たちの心を、主は喜んでお受けくださいます。与えられたこの命を大切に輝かせ、福音を自分らしく宣べ伝えてまいりましょう。

すべてを尽くして主を愛することの手本は、主イエスです。主イエスは御父との交わりを欠かすことなく、群衆や弟子たちから退いて一人祈られました。そこで御心を確認し、貧しい者や見捨てられた人々のところに出て行っては福音を宣べ伝え、御業を行い、十字架にまで従い抜かれました。もし御子が父の御心を聞くだけで終わっていたなら、私たちの救いはありませんでした。私たちが全身全霊をもってただ主なる神のみを愛し、信頼し、畏れて生きることを、主は求めておられます。それは私たちにとってまことの喜び、すべての恐れから解放されて幸いに生きることだからです。特に難しい課題、闘いの中にある時には、不安を覚えるたびに主に心を向けて祈り、御言葉に堅く立ってまいりましょう。

 

2.生活の中で、主を愛することを伝える。(6~7節)

「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(6~7節)

申命記は、出エジプト後40年たって約束の地を目前に、神の言葉がもう一度語られたものだとお話しました。モーセは大変な苦労を重ねて民を導いてきましたが、約束の地に入ることは許されていませんでした。ですから申命記はモーセの告別説教ということができます。私たちにとってどんなに大切な人であっても、最後まで一緒にいたり、助けることはできません。自分一人で課題に向かう時がやってきます。しかし私たちは、主とともに生きる永遠の命を、伝えることができるのです。共にいてくださる主により頼むならば、どんなところでも歩いていくことができます。それが私たちが愛する方にお渡しできる、最高の助けです。モーセが見えなくなった途端に金の子牛を作ったイスラエルの民でした。不安でいっぱいです。けれどもモーセは主を愛し従い、これを子どもたちに伝えること、この原点を忘れないようにと伝えました。

40年という年月は、世代が代わるほど長くイスラエルの民が放浪生活をしてきたことを表しています。私より40歳年上というと、戦争を経験してこられた方です。二度と戦争を繰り返さないために、それらの方が証言をしてくださっていますが、ご高齢となり、直接体験していない世代にどう受け継ぐかが課題となっています。若い世代が同じことを語るのは不可能ですが、当時の状況を知る努力を重ね、今を生きる者として新たに平和に向き合うことから、語るべき言葉が紡ぎ出されていくのではないでしょうか。

信仰の継承においても重なる部分があります。主なる神とその御言葉は変わりませんが、教会をとりまく状況、時代は変わっていきます。主は一人ひとりに違う形で出会ってくださり、罪を示して悔い改めに導き、救いをお与えになります。

この箇所で信仰継承は、生活の中で行われるものだと示されています。親が機会あるごとにくり返し子どもに教えることを勧めています。日常のどんな時も、寝ている時までも、こどもたちや家族に神を伝える機会となります。私の家では寝る前に、今日あったことや教会の課題を分かち合って祈ったり、信仰の質問があれば一緒に考えたり、あなたは神の目に尊い存在だと伝えたりします。寝ている時というのは、病の床についた時ととってもよいと思います。欠けがあっても弱くても、主を愛したいと願う。そのような私たちを通して、主は信仰を子らに伝えてくださるのです。

続く8節の「しるし、覚え、戸口の柱と門」は、御言葉といつも共に生きるという比喩的表現です。私の手(行動)も額(考え)にも主の御言葉があり、家族の中心が主であるようにということです。エレミヤ書31:33には主イエスの救いの御業によって、私たちの心に新しい律法が書き記されるようになると約束されています。新しく生まれた者は自然に、主の御心を行いたい、従いたいという恵みに動かされるようになります。

以前、青年のつどいネクストで、信仰の先輩方に救いの証をしていただいたことがありました。大きな悲しみや不安を通して、神が救いへと導いてくださったことを、ご自身の言葉で語ってくださいました。次の世代の方に伝わるようにと、祈りをもって準備してくださったことが伝わってきました。またネクストでは年齢関係なく小グループに分かれて、御言葉から自分が思うことを分かち合います。世代が違うと価値観も大きく変わることを交わりの中で感じながら、一緒に神の思いを探っていくのは恵みの時です。

 それぞれがご自分の言葉で、何か一つでも伝えることによって、種がまかれます。そして伝えることによって、私たちは自分自身の信仰を見つめなおすのです。「この言葉を私は真実をもって、信じ伝えているだろうか?」伝える人が、一番学ばされます。礼拝だけでなく家庭や職場で、普段の生活が主とともに生きているものであること。御言葉に従うことを求めることが大切です。私たちはもっと普段の生活や教会の交わりの中で、かしこまらずに信仰を伝えていきましょう。家族であっても、案外信仰の話をしていないものです。できれば文章で書いて終わりではなく、皆さんの生の声で伝えていただきたいのです。普段の信仰というと思い浮かぶのが、けがをしたり悲しいことがあった時に、「祈りましょう。」「先生、祈ってください。」とすぐに言葉が出てくる方のことです。それを聞くと私は自分の祈りの足りなさを示され、信仰がこの方の血となり肉となっておられることを覚えて、主の御名をあがめます。

福音書がなぜ4つもあるのかと思ったことはありませんか。どれもキリストの生涯、十字架と復活を記していますね。しかしマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはそれぞれ異なる立場から同じキリストに出会い、救われて、自分らしく伝えたのです。パウロのような信仰でないから、○○さんのような体験や賜物がないからとためらうことなく、だからこそ主の栄光が現わされることを喜んで、証していきましょう。

次の世代が主に出会うめには、御言葉を聞かせ見せてくれる、親や大人の存在が必要です。それが先に信仰をいただいた私たちの責任であります。一人の人が救われ信仰の道を歩んできた歴史は、奇跡なのです。あなたが持っておられる宝を、ぜひ次の方の救いのために、分かち合ってください。

3.満たされた時に、主を忘れないようにする。(12節)

「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。」(12節)

荒野ではマナとうずらを食べ、定住できないので家も収穫もありませんでしたが、主はイスラエルの民に、カナンの地での繁栄を約束されました。自分たちが建てたのではない町や家に住むようになり、自分たちが育てたのではない畑の収穫を食べて、満たされるようになります。しかし豊かになる時に、恵みを与えてくださる主を忘れないようにと、ここで警告されています。彼らはただ主の恵みと憐れみによって、大いなる祝福を得ます。ところが恵みに慣れてしまい、それを与えて下さった主なる神を忘れて、人間の手で造った偶像に心を向けるようになるおそれがありました。そのような時には、心からイスラエルの民を愛する主はお怒りになり、民は滅ぼされてしまうとモーセは警告します。

私たちも苦しい状態がよくなってほしい。教会にもっと人が来てほしいなど、切なる願いがあります。主は私たちの見えるところの必要も心に留めて、祝福してくださる方ですから、期待をもって必要を祈っていきたいと思います。しかし祈りが聞かれた時、御言葉の通りになった時。はじめは感謝し喜びますが、すぐに恵みに慣れて、足りないところを見つけては神に文句を言い、もっとほしいと求めるのではないでしょうか。

この箇所を黙想しながら、「私はあなたがたにすでに十分与えている」と、主が語っておられると感じます。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:32)

羊飼いなる主は一匹の迷える羊である私たちを、ご自身の命を懸けて救い出してくださいました。ここにおられるお一人おひとりは、そのような尊い存在です。そのあなたがここにいてくださり、教会のために、今日も祈りと心からのささげものが積み重ねられています。本当に感謝です。足りないからできない、というのはやめたいのです。主は、分け合うことによって十分満ちたりるようにしておられます。愛すること、祈ること。たくさん分かち合う教会となりましょう。

 主とその恵みを忘れないためには、7節にあったように、忘れる前に人に伝える。実際にやってみることです。そのようなアウトプットをくりかえす中で、自分の血となり肉となっていきます。そして記念の時を守る。それは私たちにとってクリスマスやイースター、主のご復活の日曜日の礼拝や聖餐式として、主が定めてくださっています。週ごとに主の救いの恵みを新たにされ、新しい一週間に遣わされていきましょう。 

 主を忘れないようにしたいと願いつつも、私たちは弱く愚かな者です。恵みを当たり前と思い、主を忘れて別のものに心奪われることがあるでしょう。しかし、主が私たちをお忘れになることは決してありません。主は御子を十字架にかけて罪から救うほどに、私たちを愛しておられます。主ご自身が私たちに時を備えて語りかけ、気づかせてくださいます。その時には悔い改めて主のみもとに帰り、もう一度主とともに歩き出せばよいのです。自分で犠牲を払い、願い求めたものでないと、すぐに忘れてしまう私たちです。けれども主は救われる方を起こして、永遠の命、救いがどれほど大きな恵みかを見させ、私たちを救いの喜びに立ち帰らせてくださいます。 

「わたしの魂よ、主をたたえよ 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩編103:2)特に心をかけて祈っていることはぜひメモしておいて、時々ふりかえり、聞き届けられた時に主をほめたたえましょう。今日も生かされていること、家族や教会の兄姉の存在、必要が備えられていること。暗闇の中でも主が私の手をとり、背負って乗り越えさせてくださったこと。新しい年は恵みを数え、感謝と喜びを分かち合ってまいりましょう。与えられた立場や、私が持っているものは主のものです。次の世代のために、必要としている誰かのために惜しみなくささげ、み声に柔軟に従う者とならせていただきましょう。