1月2日 降誕節第2主日礼拝・聖餐式
「恐れることはない」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネの福音書6:16~21
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新年最初の主日礼拝を迎えました。この1年も神のみ言葉である「聖書」からのメッセージを通して、養われてまいりましょう。
クリスマス、降誕節で違う聖書箇所を読んでまいりましたが、今日から再びヨハネによる福音書の箇所を続けて読むことにします。アドベントまでで6章15節までを読んでいましたので、今回は6章16節の「嵐の湖の上で悩んでいた弟子たちのところに、イエスが水の上を歩いて近づかれた箇所」を見ます。 早速み言葉に聞いてまいりましょう。
少し間が空きましたので、今日の箇所がどのような場面なのか、直前の箇所からのつながりを見てまいりましょう。6章の1節をご覧ください。
イエスは少年の持っていた5つのパンと2匹の魚で「5千人の給食の奇跡」を成されたのです。その奇跡がなされたのは「ガリラヤ湖の向こう岸の場所だ」と教えられています。そして今回の箇所で弟子たちだけで船にのって、これまた対岸の「カファルナウム」まで戻ろうとしていたのです。
なぜイエスはこの船に乗られなかったのか、これについて正しいことは分かりません。しかし私は直前の15節に答えがあるように感じています。(15節をよんでみます)
5千人の給食の奇跡を見て、人々はイエスを王にするために連れて行こうとしたとあります。それは「自分に快適な暮らしをもたらしてくれる都合の良い指導者だ」と考えたからです。
しかし、イエスはそれを望まれず山に退かれたのです。イエスが五千人の給食を成されたのは「ご自分が神の御子であり、救い主であること」を多くの人に示すために他なりません。多くの人がご自分を救い主として信じ、神と共に歩む、遜って歩むために「しるしとして」奇跡をなさったのです。
「十字架にかかって多くの命を贖う」その目的のために、謙遜に突き進まれていたイエス・キリストは、ご自分を担ぎ上げようと近づく人々から退かれます。
一方の弟子たちは、「5千人の給食の奇跡」で、異様な高揚感につつまれていたのではないか、と理解されています。弟子たちは5千人に食事を配る役目をしましたので、一番近いところで奇跡を目撃していました。「自分たちはあのすごい方の弟子なのだ!」という思いがあったと私は考えます。
これは確実にそうだと言い切れない部分もありますが、「謙遜に十字架への道を進まれるイエス・キリスト」に対し、「高ぶって、大切なことを見失っている弟子たち」というコントラストで今回の話が描かれていることを頭に入れて、み言葉を味わっていただければと思います。
まず16節と17節です。
17節の終りに「既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのとこには来ておられなかった」とあります。イエスが戻って来ておられないのに、弟子たちは自分たちだけで船を出したのです。
どうしてそうしたのかは語られていませんが、同じ場面が描かれているマタイによる福音書とマルコによる福音書では、「イエスが強いてそうさせたのだ」と語られています。
先ほどお伝えしたように、5千人の給食の奇跡を見て、弟子たちは高揚感に包まれ「浮足立った状態」だったと考えられます。そういう弟子たちに対して、イエスは愛の内に「訓練をなさった」と私は考えます。
続いて18節19節です。ご覧ください。
イエスが共におられず、弟子たちは自分たちだけで船を漕ぎ進めています。そんなとき湖に強い風が吹き、荒波に翻弄されるのです。
すぐ前に、渡っていたから「今回も簡単に渡れる」と思ったのでしょうか。漁師だった弟子も何人かいることから、「暗い時間であるにもかかわらず」対岸まで渡れると思ったのでしょう。しかし6章1節の場面ではイエスが一緒に船に乗られていたのです。「今回は先生がおられないけど問題ないだろう。私達弟子だって特別なのだ。強いのだ!」そのように思っていたのではないでしょうか?
人間が自分の力だけに頼って進むとき、共にいてくださるイエスを抜きにしてしまうとき、必ずといってよいほど問題が起こります。この場面は、私達の人生を表すものだと理解しましょう。
続いて19節と20節です。ここは大切ですので、私が読んでみます。
25ないし30スタディオンは大体5キロメートルだそうです。岸からそれくらい漕ぎ進めたところで、強風によって進めなくなっていた弟子たちの船に、イエスがなんと!湖の上を歩いて近づいて来られたのです。
わざわざ岸からの距離を具体的に語っているのは、イエスが水の上を歩かれたというこの奇跡を、岸辺の浅瀬を歩いていたのがそう見えただけだ、などと捉えられてしまわないためであると理解されます。
イエスは岸から5キロの距離を、水の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたのです。それは物理的にはあり得ない奇跡ですが、私たちは「イエスが全知全能の神であられるから、これがおできになった」と、シンプルに理解できればと思います。
さて、そのように「水を歩いて近づいてこられたイエスを見て」弟子たちはどのように反応したでしょうか? 彼らは水の上を歩いて近づいてこられる主イエスを見て「恐れた」というのです。
マタイ福音書、マルコ福音書では「それが主イエスだとは分からず、幽霊が水の上を歩いて近づいて来ると勘違いした」と書かれています。しかしイエスは恐れている彼らに「わたしだ。恐れることはない。」とお語りになったのです。
私は今回「わたしだ。恐れることはない。」というイエスの言葉から新たなことに気づかされました。「お化けなんかじゃない。私だ。だから恐れることはない」とお語りになっただけではないと気づかされたのです。もっと深い意味が込められているのです。そのことをお分かちします。
この「わたしだ」という言葉のギリシャ語の言語は、文脈によっては「私はある」と訳すことができる言葉なのだそうです。
旧約聖書の箇所である出エジプト記第3章で、神がモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するための使命へと彼をお召しになった有名な場面があります。同胞たちに神のお名前を尋ねられたらどう答えたらよいでしょうかというモーセの問いに対して、神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とおっしゃったのです。
つまりイエスが弟子たちに「わたしだ」と言われたこの言葉は、出エジプト記で「そこに生きておられる神が力をもって臨んでおられることを示す言葉」と同じなのです。
湖の上を歩いて弟子たちの船に近づいて来られたイエスは、この言葉をもって弟子たちに語りかけ、「わたしはある。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃったのです。それは「お化けなんかじゃない。私だから安心しなさい」という次元のことではないのです。逆風に悩まされて漕ぎ悩み、恐れや不安に捕えられている弟子たちに、神の独り子、まことの神であられるイエス・キリストが、「共にいて下さるのだ」ということを表してくださったのです。
最後に21節を味わってメッセージを閉じます。
これはある意味で「不思議な文書」です。「迎え入れようとした。すると間もなく目指す地に着いた」というのはどういうことなのでしょうか。
ここで聖書が語ろうとしている大切なことは、生きておられる神として共にいようとして下さるイエス・キリストを、自分たちの船に「迎え入れようとする」ことなのだということではないでしょうか。
人間の力の限界を思い知らされ、すぐに恐れと不安と諦めに陥ってしまう私たちにできること、なすべきことは、まことの神として来て下さるイエスをお迎えしようとすること、それを求めれば、その先のことはイエスご自身が最善に成して下さり「人生の目的地」まで導いてくださるのだ、ということを比喩的に表している、そのように私は考えます。
教会はよく「船」によって例えられます。イエスを信じて従っている者たちが共に乗り込み、目指す地に向かって漕ぎ出し、渡っていくからです。しかし信仰の仲間たちと共に目指す「目的地までの航路」は順風満帆ではありません。
復活して天に昇られたイエスは、今この地上に目に見える、手で触れることができるお姿でおられるわけではありません。目に見えないイエス・キリストが共におられることは、信仰をもって生きている者たちにとっても、なかなか分からない、体験できないことではないでしょうか。
この世の現実は厳しいものです。教会は、この世の現実の中で信仰をもって歩んで行こうとする時でも「イエスが共にいて下さらないのではないか、自分たちだけで暗い湖を渡っていかなければならないのではないか」と感じる試練のときが必ずあります。
しかし私たちの持っている力ではどうすることもできない現実の中で、イエス・キリストが、まことの神として近づいて来て下さり、み業を行って下さるのです。山口信愛教会は2022年も「神の国」「天の国」という目的地に向かっての航路を進みます。しかし順調な時だけでなく、大変な中を進むことがあるかもしれません。そんな時、人間の力で進んでしまおうとせず、「共にいて下さるイエス・キリストを」私達の船にいつもお迎えする思いを大切にしてまいりましょう。(沈黙・黙禱)
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