8月24日 聖霊降臨節第12主日礼拝
「受けるより与えるほうが幸いと教える主イエス」隅野徹牧師
聖書:使徒言行録 20:17~35
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山口信愛教会を長きにわたり支えてこられた、角田文恵さんを天国へお送りした直後の今朝の主日礼拝、選んでいた聖書の箇所は、使徒言行録20章17節以下の部分でした。
この箇所は、ヨーロッパで開拓伝道を続けてきた使徒パウロが、「逮捕されることを承知した上で、エルサレムに戻る決心をして、最後のお別れのメッセージを、エフェソの町でクリスチャンになった人たちに対して、熱く語っている」そんな箇所です。
大切な教えが詰まっていますし、印象的な言葉も多いですが、今朝はあえて35節の「受けるよりは与える方が幸いである」という「熱いパウロの惜別メッセージの締めくくりの言葉」に注目して、語ることとします。
月曜日に天へと凱旋された「角田文恵さん」は、パウロと違い「雄弁に語ることはなさらない方」ではありましたが、その生き様で、私たちに「クリスチャンとして歩むために何が大切か」を表して下さったと、私は思っています。
中でも「受けるより、与える幸い」という今回の箇所の「メインの教え」を体現して下さったと強く思います。
パウロだけでなく「角田文恵さんのラストメッセージ」のような感じで、皆さんの心に神からに御言葉が刻まれることを望んでいます。
まず、35節で「与える幸い」が言われていますが、そもそもパウロは「何を与えたのか」ということを見ていきたいと願います。
31節から34節をご覧ください。「ここから分かるのが、パウロは弱い者を助けること」を推奨していますが、パウロ自身がしたのは、具体的な「物質的、金銭的な支援」では無いことが分かります。
与えたのは「神の言葉の恵みだ」ということが書かれています。
この言葉の恵みを与えるために、自分は他の人に経済的負担をかけることをせず、自給自足で伝道を続けたということを言っています。
パウロが「与える」という言葉が使っていることの意味は、実は深いのです。それは、誰からの支えや助けも受けずに、自分で生活費を工面ながら、一方的な愛でもって神のみ言葉を宣べ伝えていた、ということを伝えているのです。
神の「力あるみ言葉を伝えていく」そのことによって人々が、神の愛を知り、キリストを救い主として受け入れる人が生まれ、その人たちが「永遠の命の希望をもって、新しい命を生きるようになること」それこそが「究極の意味で与えること」なのだということを私は今回、強く思いました。
「受けるより、与える方が幸い」という使徒言行録20章35節は、ここだけ切り取られて「大切な人生訓」として読まれることが多いように思いますが、そうではないことを皆様とともに理解を深めたいと思います。
世渡りを上手にする一つの手段として「ギブ アンド テイク」ということがよく言われ、そのために「交渉力」ということも注目されています。
人からいろいろなものをもらったり、助けてもらい続けるよりも、与えることも大事である。そのことによって相手より優位に立てて、結局自分にとって益がえられる…という意味で使われていることもあるのだそうです。
しかし、ここでパウロが「告別説教の最後で、受けるより与える方が幸いだ」と言っているのは、そんな「人との関係で優位に立つためにも、与えることが大事だ」といっているのでは全くないのです。
その証拠となるのが、35節の最初の言葉だと私は思います。「弱い者を助けるようにと」というこの言葉です。
「弱い者」とは、必ずしも社会的弱者という意味だけではありませんが、もとの意味は「お返しのできない者」という意味だそうです。
つまりは、人が何かしてくれることに対して「金銭的なお返しができない」人のことです。
現在の社会は、見返りが期待できるかとか、将来的に投資した分を回収できるか…といった観点で人間や国や社会を見ることが多いと感じます。その結果「切り捨てられ、大切にされない命」も増えていると感じます。
しかし!パウロは「すべての人の命を大切にする。愛する」の意味で「受けるのではなく与えること」の大切さを説き、そういう生き方が幸いなのです!といっているのです。遺言のようにして力を込めて語ったいるのは「わたしが見返りに関係なくあなたたちを大切にしたように、あなたたちも見返りの愛で、隣人を愛していくところに幸せがあるのです」と、どうしても伝えたかったからだと、私は理解しました。
神の愛、キリストの示された愛が、ギリシャ語の「アガぺー」だということを聞かれたことがあると思います。
アガペ―の愛は、異性愛でもなければ、家族愛、友愛ともちがう「見返りを伴わない愛、無条件の愛」を意味するということをご存じの方は多いと思います。
パウロが今回の箇所で訴えているのはまさに「アガぺーの愛をもって生きる幸い」なのではないでしょうか。
そもそもパウロがこの「与える」ことの幸いを知ることができたのは、パウロ自身が、イエス・キリストから大きな恵みを受けたことによってなのであります。
もともとパウロは、イエス・キリストを信じる人たちを捕まえて牢に入れたりして、迫害していた人でした。その神に逆らい、教会を滅ぼそうとしていた罪人のパウロに「イエス・キリスト自身」が近づいてくださり、罪から救って下さったのです。
パウロの犯していた大きな罪を赦すために、神の独り子であるイエス・キリストが十字架にかかって死んで下さった…そのことを信じ受け入れたパウロは、新しい命をいただいて生きるようになったのです。
神・キリストに歯向かい、大きな罪を積み重ねていたパウロ。本当なら罪の報いとして滅びに向かうしかなかったパウロが、まさに「無償の愛、一方的な憐れみの愛」によって罪から救い出されたのです.
その「一方的な憐れみ」「アガぺーの愛」を受けたパウロだからこそ、今度は自分が「見返りを求めず、キリストの福音を無条件に、すべての人に伝えるようになったのです。
そして、その思いは次の人々に受け継がれたのでしょう。
パウロが福音の種をまいた、地中海沿岸の地域では、その後ローマ帝国による激しい迫害、またユダヤ教信者からの大きな迫害がありました。
しかし、迫害の中でも相手に仕返ししたりせずに「じっと、キリストの愛に生きた」のが、その地域のクリスチャンたちでした。
パウロがキリストから受け、そして伝えた「受けるより与える幸い」の教えが根付いた一つの証しだと思います。
目にみえる見返り、この世の価値観に基づいた「御利益」を重視するなら、キリスト信仰は「信じても何も見返りがない」と思えてしまうものなのでしょう。そうした思いならば、ちょっとした試練で「信仰はすぐになくなってしまう」のだと思います。
やはり、迫害のような大変な試練の中でも、それでも「しっかりと立ち続けることができるキリスト信仰」は、「自分が、無償で神・キリストの愛を受けた。価値なき者をそれでも罪から救いだして下さった」ということを心に深く刻んだ信仰なのではないでしょうか。
今日は、このように使徒言行録20章から「パウロ自身が受けた、神・キリストからの無償の愛を、今度は人々に与えようとしたこと。そして別れにあたって、人々に対し、あなたたちも無償で受けたのだから、人を無償で愛して生きていきなさい」とつたえたことを深堀してまいりました。
最後に、先日天に凱旋された角田文恵さんの「生き様」と重ねて、メッセージを締めくくりたいと願います。
角田さんが信徒奨励で語って下さった原稿が残っていますが、それによると戦争末期に満州で生まれ、引き上げてこられるまでの間、命の危機があったことから文がはじまっています。これだけでも日頃は穏やかで、笑顔しか見せられない角田文恵さんの人生が「平坦な道ではなかったことが」よく分かります。
教会に来られるようになったキッカケは、高校生のとき、ご友人に誘われたことによるそうです。その直前、お父様を亡くされ、そのことを通して「生きることの意味」を考えたことが背景にあったそうです。
そして洗礼をうけられたこと、結婚され食品会社をささえるために多忙に働かれたのですが、その後人生最大と思える試練がありました。それが最愛のご主人を亡くされたことです。
悲しみのどん底で、涙が止まらなかったことも奨励の原稿に記されています。
しかし、それでも長きにわたり、山口信愛教会を中心的に支え続けられ、そして天へと凱旋させました。
私は今回葬儀に向けて、角田さんが残して下さった文書を読み直す中で「試練の中で、それでも教会生活を守り続けられた角田さんの、力の源は、キリストから受けた愛をしっかりと胸に刻まれて生きてこられたからだ」ということを確信しました。パウロと重なると思えたのです。
そして今日のメッセージのメインテーマである「キリストの愛を受けたからこそ、今度は人から受けるのではなく、人に与える生き方をおくる」というパウロの勧めと、角田文恵さんが重なるな…と感じてもいるのです。
角田さんは、多くの悩みを抱える人の話の「聞き相手」になってくださっていました。ときには何十分にもなる、悩みや愚痴の電話を、そっと聞き続けて下さったこと、そしてその相手の苦しみが和らいだということをたくさん聞きました。それこそ条件をつけることなく、なにか見返りを期待することもなく、「ただ無条件に、無償の愛の思いで」聞いてくださっていたようです。同じようには私は到底できない…と感じます。
キリストの福音を語ることと同じぐらいキリストの無償の愛に基づいて「相手の話、悩み」を聞くことは大切です。
パウロの生き方が告別説教を聞いたクリスチャンたちに引き継がれたように、私たちも角田文恵さんが示して下さった生き方を、少しでも「引き継いで」まいりましょう。
(祈り・沈黙)