8月17日 聖霊降臨節第11主日礼拝
「悪の道を離れよ」隅野徹牧師
聖書:ヨナ書 3:1~10
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今朝は与えられた聖書日課の中からヨナ書の後半である、3章からメッセージを語ることにいたします。
ユダヤ人である預言者ヨナが「軍事的にも対立していた異邦の国の都、ニネベ」の人たちに対して「あなたたちの悪が神の前に届いている。このままで神の怒りが下るぞ!」といって警告したのがこの箇所「ヨナ書3章の内容」ですが、注目すべきなのは「民族をこえて、この神からの預言がなされた」ことです。
神が律法を与えてはいない、当時契約の外側にいた「ニネベの民たちの悪」をも神はしっかりと見ておられる、つまりは「国籍や福音に触れたことがあるかどうかに関係なく、すべての民の、すべての悪が神の前に明らかにされるのだ」ということが、旧約の時代にかかれたこの箇所にも教えられることなのです。
現在世界では「自国ファースト、自国中心主義」という思想が急速に蔓延しています。 世界の為政者の中で、その考え方に基づいて「悪事を重ねている国」として私が思い浮かべるのがはいくかあります。
まだ世界に福音が広がらず「イスラエル中心に描かれた、旧約聖書の中のヨナ書ですでに、「神はすべての人間の同じように見られている。そしてすべての民が悪から救われて、造り主である神の御心に生きてほしいと願っておられるのだ」ということを示しておられることを、今日皆さんとも確認出来たら、と思います。
先週、すでに平和主日礼拝は終わりましたが、8月は「聖書が示す、平和についてとくに考える月」でありますので、今日の箇所からも大切なメッセージを受け取っていただければ感謝です。
まず、今朝の箇所の前のヨナ書1章2章のあらすじを簡単にお話しいたします。
あらすじをすでにご存じの方も多いとは思いますが、お伝えさせてください。
ヨナ書1章では、ヨナが神から「東のアッシリア帝国の都ニネベに行けと言われたのにもかかわらず、反対方向のタルシシュに向かって船に乗り込んで、逃げようとした」ことが描かれます。
しかし、行先は軍事的、政治的にイスラエルが対立していたアッシリア国の「ニネベ」なのです。「神を畏れない、凶暴な国だったアッシリアに、イスラエルの預言者がいって、悔い改めの言葉を語る」というミッションがいかに「過酷か」ということはおわかりいただけるとおもいます。
私がヨナの立場だったら逃げたかもしれない。いや…逃げるにちがいない…そのようなことを思わされます。
さてその後、ヨナの乗った船は、大嵐に遭います。ヨナは「自分を海の中にほうり込めば海は穏やかになる」と船の中にいた人たちに伝え、ヨナは海に投げ込まれます。
しかし、2章で神が巨大な魚を用意され「ヨナを呑み込ませる」ことでヨナを滅びの中から救い出されたことが書かれているのです。
2章の最後の部分では、ヨナの祈りの言葉が記されています。それは「神に背き、逃れようとした自分を死から救ってくださった神に対しての感謝と、今度こそ神の務めを果たします」という祈りでした。その後、魚から出たヨナに対して、「再び神の言葉が臨んだ」という言葉で今回の箇所3章1節からが始まるのです。深く読んでまいりましょう。
一度は逃げたヨナでしたが、この3章の1節では「直ちに神の命令どおりに、ニネベに行った」のです。
3節後半をご覧ください。「ニネベは一回りするのに三日かかった」とも記されています。この大きな都の中でヨナは一日分の距離を歩きながら「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と叫びました。
この時のヨナの心情をどう理解するのかについては、解釈が分かれますが、私はというと「嫌だけれども、自分に与えられた神の務めを果たさねばならない…という一心ではなかったか」と思うのです。そしてヨナは「ニネベの人々が、自分の語った言葉を気にもとめないだろう」と思っていたのではないか、と思っています。
ヨナがそれでも、語り続けた原動力は何かというと…「それは神への畏れ」であって、「ニネベの人たちに対する人道的な愛」に関しては、全く欠けているといわざるをえません。このことについては、メッセージの最後の「まとめの部分」でも掘り下げます。
続いて5 節以下をご覧ください。ニネベの人々はヨナの言葉によって「本当の神を畏れ、悔い改めをした」というのです。とくに「ニネベの王」が、ヨナの言葉を真剣に受け止めて、「王と大臣たちの名によって布告を出して悔い改めのしるしとして断食をするように命じた」ということが7~9 節に記されています。
断食は「ひたすら神に祈ること」の一つの方法です。断食をすれば「神の怒りを免れる」というわけではありません。しかし「少しでも悪の道から離れれば、もしかしたら、神が怒りを静めてくださり、滅びを免れることができるかもしれない…」そんな風に切迫した思いと緊張感をもって、ニネベの王をはじめ、ニネベの町のすべての人は悔い改めたのだと、聖書は語ります。
この「緊張感をもって自分が神の前に裁かれるべき罪人である」ということを認めつつ、悔い改めの姿勢を何かの形で表すことの大切さ」は時代を超えて、すべての人間に教えられていると私は受け取ります。とくに今の時代、世間一般はもちろんですが「わたしたちキリスト教会に集う多くの人間にとっても」神への畏れが希薄になっていると感じます。
人間自身の力を頼りにするから、全知全能の創造主である神を畏れることをしなくなる…だから結果的に、罪を認めて遜る、悔い改めて、新しく生きようという決心をもつということから、どんどんと離れていきやすいのが現代に生きる私たちの問題だと思います。
ニネベの町への神からの警告は私たちに対して関係のないことではなく、私たちはニネベの町の人たちのように「素直に悔い改める」思いを持っていきたいと願います。
3節最後の10 節をご覧ください。ここに「3章の物語」の結末が示されています。
神はニネベに対して、「彼らの業、彼らが悪 の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」と記されています。
神がヨナを通してかたられた「警告、悔い改めの促し」を通してニネベが、「悪の道を離れ、悔い改めた」のをみて思い直された、そのことを記して、今回の箇所であるヨナ書3章は終わっています。
今回、4章は読みませんが、ニネベに対して下されるはずであった災いを神が思い直されたことは、ヨナにとって不満であって、ヨナは怒りを露わにしたと書かれています。
そんな「身勝手なヨナ」に対し、神は「あることを通して学ばせよう」とされます。それが「唐ゴマの木を生えさせ、そして枯らされる」ということでした。
ヨナは「暑さしのぎになった唐ゴマの木のことを」神が自分に対し特別な配慮をして下さったことと思い、自己満足に陥っていました。しかし神が唐ゴマを枯らされ、「自己満足に陥っていたヨナを諭す」ということをなさったということが書かれています。
自分や自分の同胞であるイスラエルだけを「神が大切にしてくれる」と思った時は喜ぶ。しかし「そうでない」と感じた時は「不機嫌になる、怒る」それがヨナの本性としてヨナ書全体で描かかれているのですが、3章はとくに「自分の同胞だけを神が大切にされるのではない」ということを強く教えるものだと私は感じます。
そして「自分と民族や国籍が違う、また考えの違う人々をも大切な命として、悪から救おうと神は考えておられるのだ」ということを我々に教え、併せて「そのようなあなたと違いをもった人を救うために、あなたを用いられるかもしれない」という深いメッセージが今回、私には伝わってきました。
「暴力や略奪などのニネベの罪を指摘し、悔い改めるように遣わされた」のは、「全く違う価値観に生きていたイスラエル人の預言者ヨナだった」だったのです。先ほどからみているように、ヨナは「違う価値観に生きる者に対し、愛をもって接することができない。悪から滅びから救われてほしい…と思うことができなかった」訳ですが、そんな弱さは全ての人間がもっています。
しかし、神は「仕方ない」で諦めるのではなくて「違いを超えて、すべての人に謙って罪の悔い改めをすることと、そこに神の愛の赦しによる救いが来るのだ」ということを私たち自身が伝えること、行動することの大切さを教えておられると私は信じています。
「教会の中にいて、同じ信仰をもち、同じ価値観に生きる者同士」なら、間違いを指摘したり、より神の御心に生きるために必要なアドバイスをすることは、比較的し易いように思えるかもしれません。しかし「全く、信仰心がない、神に対しての畏れがない…」そういう人に対して、「あなたにも罪がある。だから身を低くして悔い改めましょう」ということを「愛をもって伝える」のは、本当に大変だと感じられると思います。
私も正直、「世の中の、神を畏れずに好き放題に生きている人々に対して、愛を持って悔い改めに招く」ことは正直できていません。しかし、対立と分断が深まる今の社会になっていますから…「自分が福音を伝えやすい人だけに伝えていればよい」という姿勢から一歩進んで「違いをもった人たちにも、神の福音、悔い改めの招き」を伝えていくことが、大切なのではないかと、今回のヨナ書3章から強く示されました。
皆様はいかがでしょうか? 自分のことで精いっぱいという状況は多かれ少なかれあると思いますが、それが「自分ファースト」になってしまうことは神の御心とは違うのだ!神はあなたを用いて、違いをもった誰かをも救おうと願っている…というメッセージをこのヨナ書から受け取っていただいたら幸いです。
山口信愛教会は、遠くアメリカから「日本人に罪からの救いを伝えたい」と祈り願い、きてくださったケイト・ハーラン女史によって種まかれた教会です。アメリカファーストとは真逆の思いです。「遠くにいる、違いをもった人々を罪から救い出すことが御心だ」と信じてまかれた種の木の枝が私たちであるということを忘れずにあゆみましょう。
(祈り・沈黙)