7月18説教 ・聖霊降臨節第9主日礼拝
「水をくんだ召し使いたちは知っていた」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書2:1~12
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本日はキリストがお与えになる真の喜びについて、3つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。
1.すべての必要を、主イエスに持っていく。(3~5節)
2.御言葉に従い汗をかいた者だけが、味わえる恵みがある。(7~9節)
3.十字架の血潮が私たちを清め、神の国の祝宴の喜びにあずからせてくださる。(10節)
1.すべての必要を、主イエスに持っていく。(3~5節)
主イエスと最初の弟子たちが出会ったべタニアから北へ3日ほど進んだ、ガリラヤのカナで婚礼がありました。婚礼には主イエスと母マリア、そして弟子たちが招かれていました。主イエスが最初にそのご栄光を現されたのは、婚礼という世俗的でプライベートな催しの場でした。主イエスは私たちの家庭を祝福し、祝い事、喜び、楽しみを一緒に喜んでくださる方です。クリスチャンはこの世の喜びや楽しみを避けるべきだと考えたり、楽しんでいる人を裁く人がいます。しかしそれは律法学者やファリサイ派のような、外側はきれいに見えても喜びのない、暗く硬直した姿ではないでしょうか。この世の喜びは確かに過ぎゆくものですが、それらをも神が私たちの幸せのために与えてくださったものです。主は罪人と蔑まれていた人々と食事を共にされました。きっと主イエスは気さくで陽気なお方で、そのような交わりを心から喜んでおられたのだと思います。ヨハネによる福音書のキーワードの一つは「世」です。サタンに支配されているこの世、罪ある私たちを指します。しかし神はひとり子をお与えになるほどに、世を愛されました。ですから、神が愛しておられるこの世を私たちも愛し、その救いを願い、主イエスと一緒に楽しみたいと思います。
さて婚礼が続く中で、その喜びの宴に危機が訪れました。「ぶどう酒がなくなりました。」と母マリアは主イエスに打ち明けました。当時、婚礼の宴は一週間にわたって続けられたようです。ぶどう酒がなくなったと気がついたのは、マリアが新郎新婦ととても近い関係でもてなしをする側だったからと考えられます。当時の一般庶民にとってぶどう酒は、日常的に楽しめるものではありませんでした。だからこそ婚礼の祝いでは、何か月も生活を切り詰めてごちそうとぶどう酒をふるまえるよう準備したといいます。喜びの象徴であるぶどう酒を切らすことは、あってはならないことでした。結婚そして家庭は、創造の初めに神が制定し祝福された大切なものです。それは人間社会のベースとなるだけでなく、夫婦の関係は神とイスラエル、キリストと教会が愛し合う関係を示すものであるからです(エフェソ5:21~33)。
ぶどうはイスラエルでは身近な果物で、出エジプトの後カナンの地を偵察した者たちが持ち帰ったものでした。ぶどう酒も聖書の多くの箇所に出てきます。主イエスは最後の晩餐の際弟子たちに「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(ルカ22:17~18)とぶどう酒を与え、神の国の完成の時に永遠の喜びの象徴としてぶどう酒を共に飲むことを暗示されています。
マリアの言葉に、主イエスはお答えになりました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」これは自分の果たすべき務めではない要求をする相手に対して、お断りをする言葉です。「婦人よ」は主イエスが女性に対して呼びかける普通の言い方ですが、母に対してそれを用いるのは異例です。どうしてこのような、失礼とも思える言い方をなさったのでしょうか。
主イエスも弟子たちもこの婚宴では客人ですし、婚宴のぶどう酒は少し買い足せばよいというものではなく、どこかの農園に話してまとまった本数を分けてもらうのでなければ足りません。けれどもそういった理由で主がこのように言われたのではないようです。
主イエスはご自分や家族の便宜のために奇跡を行われたことはありません。四十日の断食の中にあってもご自分のために石をパンに変えることをせず、苦しみの極みにも、十字架から降りたら信じてやろうという声に従うことをなさいませんでした。主イエスは母の願いを聞こうとしておられましたが、それは身内だからではなく、御父の御心に従ってご自身が救い主であることを示し、弟子たちが信仰に導かれるためであったのです。
主イエスは常に、御父の救いのご計画に従って御業を行われました。この世の何者も、神の計画に介入することはできません。「わたしの時」とは、十字架の受難・復活によって救いを完成する時を指しています。主イエスは十字架による救いの道を開くための公生涯に入られました。ご自身の本来の使命の時を思い出させようとして、主はこのように言われたのではないでしょうか。
マリアは主イエスのこのお言葉によって神の御前に出され、あらためて、主イエスへの堅い信頼を言い表すことになりました。私たちができるのは、マリアのごとく自らの欠けを主イエスに訴え、私たちの思いを超えて最善を行われる主を信じゆだねること。主イエスが私たちに求められることならば何でも従いますという姿勢を整えて待つことです。主の業は棚からぼた餅のようにかなえられるのではなく、私たちを通して時間をかけて実現されていくのです。
本日の箇所の奇跡は、重い病の癒しや空腹の人々を満たすなどの、直接命にかかわることではありません。しかしそのことを通して私たちは、主イエスにどのようなことでも持って行ってよいのだと知ります。主は私たちの願いを馬鹿にしたり否定したりせず、「あなたにはこれが大切な問題なんですね」と受け止めてくださいます。
2.御言葉に従い汗をかいた者だけが、味わえる恵みがある。(7~9節)
マリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召し使いたちに頼みました。かつて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と彼女が応答し、御子の誕生、救いの時が開かれていったことを思わせます。マリアは宴会の世話をする人たちに代わって主イエスにぶどう酒がなくなったことを伝え、召し使いたちに主イエスの言葉のとおりにするように頼みました。彼女は召し使いたちの信仰を支える働きをしたのです。
さて主は召し使いたちに、その家にある水がめに水をいっぱい入れるようにお命じになりました。ユダヤ人は、食事の前後に水で手を洗ったり器を清めたりしていました。それは衛生的な意味で洗うのではありません。宗教的に汚れたものに触れて身を汚した者は、水で身を清めなければ神の前に出ることはできないと律法にあり、それを徹底するためにさらに厳しい清めの解釈が作られていたのです(マルコ7:3~4)。それは神に受け入れていただくために大切な儀式でした。
2ないし3メトレテス入りの水がめは、80~120リットルほどです。私たちの身近にあるものでいえば、浴槽が200リットルくらいですから、その3つ分くらいの水をため置いていたのです。主イエスがその6つの水がめに水を満たすように言われると、召し使いたちは言われたとおりにかめの縁までいっぱいに水を汲みました。何度も井戸を往復して水をかめいっぱいに満たすことは、時間のかかる重労働でした。それでも彼らは忠実に縁まで水を満たしました。どの時点で水がぶどう酒に変わったのかはわかりません。水がいっぱいになると、主イエスは「それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と命じられ、ここでも召し使いたちは従順に従いました。
途中で疑い、もうやめてしまおうと思うこともあったでしょう。私たちの信仰の歩みにおいてもそうです。それでも召し使いたちは自分の経験や常識を超えて、最後には主の御言葉に聞き従うことを選びました。そして世話役が水の味見をした時に、それはぶどう酒に変えられていました。水をくんだ召し使いたちだけが、自分たちがかめに満たした水がぶどう酒に変わった奇跡を体験し、それが主イエスの力によってなされたことを知りました。
主イエスの恵みのみ業を体験し、そこに示されている御子の栄光を見ることができるのは、み言葉に従って奉仕した者だけです。「召し使い」と訳されているのは「奉仕する者」という言葉であり、それは後に教会において「執事」という務めの名となりました(参考:使徒6:1~6)。主イエスの弟子である信仰者は、一人ひとりが主に奉仕する者です。自らの奉仕を祈り求めてそれぞれが仕えていくときに、神の言葉は広がり信仰に導かれる者が与えられます。
召し使いたちに命じられたのは、かめに水を満たし、それを汲んで宴会の世話役のところへ持っていくことでした。肉体的には力のいることだったでしょうが、決して難しいことではありません。最後まで積み重ねていけばできる仕事です。
主は一人ひとりの賜物に応じて、それぞれにできる奉仕をお与え下さっています。中でも教会のために、家族のために、日本や世界の課題のために執り成し祈る奉仕は、すべての信仰者が行うことができます。祈りはすべての奉仕の土台となる最も重要な奉仕です。まず祈って具体的な奉仕を担っていく中に、確かに生きておられる御子のご栄光を拝するのです
主の僕として仕えることは、確かに労苦が伴います。神が命じられた奉仕が満たされるまでは長い時間がかかるかもしれません。しかし犠牲を払って主に従った者は、一番最初に間近で主のご栄光を拝するのです。誰も気づいていない主の恵みに浴することが許される、それは労した者の特権です。労したからこそ、喜びもひとしおです。これは、お客さんとして受け身でいる時にはわからない恵みです。
神の時が来るまでは、何も事が起きないように思えます。しかしこの召し使いたちのように、共に御言葉に聞き従う兄弟姉妹と励まし合い、重荷を分かち合っていきましょう。奉仕に関わることで私たちは教会の必要を知ります。礼拝が開かれるために、伝道牧会のために、多くの祈りと奉仕がささげられていることを知ります。それぞれの奉仕に込められた祈りを感じとることで、私たちは教会への愛を増し加えられ、成熟したクリスチャンとなり、この兄弟姉妹とともに主に仕えられる恵みを感謝する者とされるのです。
3.十字架の血潮が私たちを清め、神の国の祝宴の喜びにあずからせてくださる。(10節)
「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」婚宴は滞りなく行われ、新郎新婦は恥をかかずにすんだどころか、世話役は花婿をほめました。酔いがまわって味が分からなくなった頃に安物のぶどう酒を出すということがよく行われていますが、あなたは人に気づかれなかったとしても心を込めてもてなしをするとは、見上げた方です、と。この世が与える喜びは時とともに薄れ、メッキがはげ落ちていきます。しかし主がお与えになる喜びは、完成に向かって日ごとにますます良い物となり増し加えられていきます。神と共に歩む人生、神から受ける愛をもって神を愛し人を愛するということは、時を経て深められ完成されていくものです。
水がめの水が良いぶどう酒に変わったことは、律法から、主イエスによってもたらされる恵みの福音の時代が始まることを表します。ユダヤ人は自分を清く守るために、大きな水がめがいくつもなければ安心して暮らせませんでした。これは律法を守ること、善い行いによって救いを達成しようとすることを示します。しかし汚れは実は私たちの心の中にあります。それを聖書は罪と呼びます。自分のことしか考えられない、私たちの中にあるこの罪が人を傷つけ、自分も傷つけます。
ただ神の小羊キリストの血によって、私たちは罪から清められます。ぶどう酒はイエスが十字架で流された血を象徴しているのです。「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。私たちの行いによっては得ることができなかった真の清め、平安と喜び、新しい命が主イエスによってもたらされます。主は義務や束縛のもとにある生き方から解放し、喜びと祝福の中に生きる道を開いてくださいました。「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)主イエスを救い主としてお迎えする時に、私たちの内に生きた水である聖霊が与えられ、心の底から新たにされます(ヨハネ7:37~38)。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」しるしとは目に見える出来事を通して、隠された真理を指し示す「サイン」を意味します。主イエスが水をぶどう酒に変えられたのは、ぶどう酒の不足を補い結婚を祝福するためだけに行われたことではありません。主イエスが救い主であるということを弟子たちに指し示し、永遠の命に導くためのものだったのです(ヨハネ20:30~31)。しるしを理解することが許されているのは、主イエスによって召し出された私たち、主イエスの弟子たちなのです。
奇跡を見た人は驚き、上等なぶどう酒を飲んで楽しみましたが、花婿花嫁も、世話役も、宴会に出席していた多くの人々もしるしに気づかず、主イエスへの信仰が与えられたわけではありませんでした。信仰が与えられなければ、これらの驚きや喜びもすぐに冷めてしまうのです。私たちは病む時も乏しい時もあります。しかし信仰があるということは、いつも心に主がともにいてくださる平安、喜び、慰めを持っているということです。それこそが永遠に続き、増し加えられ完成されていく神の国の喜びです。
水を運んだ召し使いたちは、御業によって変えられたそのぶどう酒をみずから口にすることはなかったのではないかと思います。私たちは神の救いの歴史のほんの一部を担う者ですから、自分が蒔いた種が実るまでの祝福を味わえないかもしれません。けれども、それでもいいのです。神のご用のために用いていただいている、それだけで、救われる前には味わうことのできなかった喜びをいただいているからです。主にある苦労は決して無駄になりません(Ⅰコリント15:58)。主に出会った者は、ぶどう酒が味わえてもそうでなくても、もはや問題ではなくなるのです。
私たちの人生のすべての場所に、主イエスをお迎えしましょう。水がぶどう酒に変わることによって人々に喜びがもたらされたのは、そこに主がおられたからです。「主よ、私はあなたを必要としています。私の力では自分を清めるとはできません。私を救い、与えられた命を喜んで生きる真の自由をお与えください。与える愛をください。」終わりの日に主がお与えになる良いぶどう酒、私たちが受け継ぐ永遠の命はどれほどすばらしいものでしょうか。主の恵み深さを日ごとに味わわせていただき、神の国の祝宴に一人でも多くの方があずかることができるように、用いていただきましょう。
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