11月17日 聖霊降臨節第27主日礼拝
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ」 隅野瞳牧師
聖書:マタイによる福音書 5:38~48
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本日は、神の愛が誰にどのように注がれているのかについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.私たちは、2ミリオン行く自由を与えられている。(41節)
2.神の愛はどんな人にも注がれている。(44~45節)
3.天の父の子は、愛において完全な者となるように招かれている。(48節)
主イエスはガリラヤで福音を宣べ伝え、病を癒されたので、多くの群衆がついてきました。主イエスは山に登り、みもとに近づいた弟子たちに、神の子とされた者が天の父に似た者に変えられること、それはどのような姿であるかを語られました。当時、律法とその解釈は本質がゆがめられて伝わっていましたが、5章では特に具体的な事柄をあげて、律法に示された神の深い恵みを示されたのです。
1.私たちは、2ミリオン行く自由を与えられている。(41節)
「『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。」(38~39節)
レビ記24:19~20に、人に傷害を加えた者は同一の傷害を受けねばならないとあります。バビロニアのハムラビ法典が有名ですが、古代にこの周辺の民族が共通して持っていた考え方であったようです。私たちは人から傷つけられると、自分が受けたよりももっと傷を負わせたいと願うものです。自分が受けた傷はとても大きく感じ、逆に人を傷つけたことはあまり意識しない私たちが、無制限な報復をしないように与えられたのがこの戒めです。歯を折られても命まで奪ってはならない、同じだけの復讐で止めておきなさいということです。現代でも受けた損害をお金に換算して、賠償金を払うなどの形で争いを留めています。イスラエルの人々はこの戒めを、やられたらやり返してもよいという解釈をしましたが、主イエスは悪人に手向かわないように語られました。
これは「悪に対して無抵抗であれ」ということではありません。本当の意味で悪に打ち勝つために、力によって対抗しないということです(ローマ12:19,21)。たとえやり返すことができたとしても、悪魔の働きに勝ったことにはなりません。報復は連鎖となり、憎しみが残り続けます。悪に対する本当の勝利は、人が自らの罪を認めて神のもとに帰り、神と隣人と共に歩むようになることです。
御子の十字架上のとりなしの祈りは、激しい攻撃でありました。私たちを滅びに向かわせる罪と死の力に対して叫びをもって、愛と命を注ぎ尽くして主は闘われました。あなたたちは死で終わるのではない。御父が私を復活させてくださるように、必ずあなたたちも新しい命に生きることができると。ですから私たちも、まず祈る者とされましょう。ゲツセマネで御子の祈りを天使が支えたように、私たちも主のとりなしによって祈ることができるでしょう。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(39~42節)
主イエスは具体的な例をあげて語られます。不当に打たれ侮辱を受けた時には、反対側の頬も向けなさい。借金を返せず下着まで差し押さえられたなら、上着をも取らせなさいと。上着は貧しい人にとっての寝具、身を守る最後のものでした。1ミリオン行くよう強いられるとは、当時ローマの支配下にあったイスラエルが、荷運びなどに徴用されたことを表します。労働を強いられたなら、むしろ命じられた以上の奉仕をせよということです。そして借りても踏み倒そうとしているような人が来ても、背を向けるなというのです。
これでは社会の秩序は成り立たないではないか、と感じる方は多いでしょう。しかしこの主のお言葉は第一に、主に従って生きようとする弟子たち、私たちに対して語られています。神の愛のご支配、神の国に生きる者はこのように歩むのだと、主イエスは示してくださったのです。聖書全体を見るならばこのお言葉は、自分がぼろぼろになっても無抵抗でいなさい、という意味でないことは明らかです。主は私たちの命、生活、家族や友人を大切に考えておられます。私たちにはゆだねられた大切な人たちがあり、彼らを守る責任があることをご存じです。神は私たちに、主とともなる幸いの中に生きてほしいと願われます。私たちは神の国の完成の途上にあり、それを妨げようとする力が働いています。ですから「御国が来ますように」の祈りが私たちを通して働き、少しでも悪の力が抑えられ、犠牲になる人が少なくなるように、仕える責任があります。
それを踏まえたうえで、ここで主が弟子たちに示された道は、自由を与えられている天の父の子どもとして、自らのあり方を選ぶということです。嫌なことに振り回され、憎んでやり返すのは「反応」であり、そこに自由はありません。しかし状況は変わらなくても主の助けを求める中で、私たちの魂は主のもとに憩い、自由であることができます。
そしてこの傷つけられている人を見つめる時、これは主イエス御自身なのだと気づきます。御子は十字架で苦しみを受け、あざけられて服を奪われました。2ミリオンどころか天からこの罪の世に、すべての者より低く十字架にまで降ってくださいました。私たちは神を無視し、背き、与えられたものに感謝もせずに浪費し、神が愛しておられる隣人を傷つけました。しかし御子は私たちが受けるべき裁きを負って十字架にかかり、よみがえり、私たちに罪の赦しをお与えくださいました。主は不当に傷つけられ、貧しいのに奪われ、願わないところに行かされてあえいでいる私達とともにいてくださいます。しかし私たちもまた御子を十字架につけた者であることを覚えて、ひたすらに主のご愛を感謝してお受けしましょう。
2.神の愛はどんな人にも注がれている。(44~45節)
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(44節)
隣人を愛することは律法にありますが、敵を憎みなさいとは聖書のどこにも書かれていません。しかし主イエスはそのような教えが広まっていることを挙げて、報復をしないだけではなく愛すること、しかも敵を愛することを求められました。ここで愛し祈るように命じられている「敵」とは、誰のことだと考えられていたか、その逆の「隣人」を考えてみるとわかりやすいでしょう。弟子たちにとって隣人は同胞のイスラエル人でした。真の神を知らない異邦人や、イスラエル人であっても律法を守れない人は、憎むまでいかなくても、避けるべき対象と理解されてきました。私たちも自分の家族や仲間、思いを合わせることができる人を隣人、「内」と考え、知らずにそれ以外の人を「外」にしているのではないでしょうか。
しかし主がお考えになる隣人はそうではないことが、ルカ10:25~37の「善いサマリア人」のたとえで語られています。強盗に襲われた人を、ユダヤ人の宗教的指導者たちは通り過ぎていきましたが、ユダヤ人と関係が断絶していたサマリア人が介抱し、宿の世話までして助けました。「わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねた律法の専門家に主イエスは、「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と返されました。主がお語りになりたかったのは、「わたしの愛すべき隣人とは誰だろう」と、隣人の範囲を限定しているうちは、隣人を愛することはできないということです。そして主イエスは律法の専門家に「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われたのです。
主イエスは御自分を殺そうとする者に対して、十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)これは神の愛の性質をはっきりと表しています。ステファノに代表される代々の教会はこの祈りに歩み(使徒7:60)、この言葉を薄めたり変えることなく、従ってきました。主イエスが説かれた愛は単なる理想ではありません。お言葉どおりに愛に生き、死んでよみがえられた主の福音は、度重なる苦難や人の弱さにもかかわらず聖霊によって、全世界に宣べ伝えられました。多くの人を造り変え歴史を動かし、そして今私たちを生かしてくださっています。
自分の隣人を限定しなければ、隣人を愛することなど出来るはずがない、自分の身が持たないと私たちは考えます。しかし、主イエスは敵を愛せよと言われました。私たちは主に従う者として、主のお言葉に真剣に聴きたいのです。この御言葉に向き合う時に、「私」を保ったままではいられません。私の力でできるというところから、ひっくり返されなければなりません。
私たちは、愛は自然にあふれてくる感情と考えますが、聖書が語る愛とは決断に基づく行動、意志です。嫌いな人を好きになることはできなくても、彼らのために祈ることはできます。祈り続ける時私たちは、憎しみが愛に変わっていくことを体験します。神の無限の愛がわたしたちに注がれ、わたしたちがそれを受け取ったときに、私たちは敵を愛することが神の子の本来の姿であると知り、主と同じように愛する者に変えられていくのです。
十字架ののち戸を閉じて隠れていた弟子たちのもとに、復活の主イエスが来て真ん中に立って平和を与えられました(ヨハネ20:19)。これは御子が私たちの閉ざした扉、心の中の隔ての壁をも越えて入ることができる方であると示しているのだと思います。復活の御子がそうであるならば、その同じ命をいただいた私たちもまた、そのような者になれるのです。もし私たちが扉を閉ざしていても、主が中心に立ってくださいます。私たちが聖霊に満たされ扉をあけて、ここから遣わされていくことができますように。
3.天の父の子は、愛において完全な者となるように招かれている。(48節)
「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(45節)
「神は悪人をも愛して下さる」ということに私たちは納得できないかもしれません。しかし神はこのような方なのです。よい天気の日に陽の光を浴びながらこの箇所を黙想し、もし「お前は罪深い者だから太陽を与えない」と神様に言われたらどうなるだろう、と考えていました。太陽や雨がなかったら、私たちも地球も生きることはできません。この世界をお造りになった神は、今も世界を治め維持してくださっています。善人であろうが悪人であろうが分け隔てなく、天の父は同じように太陽と雨の恵みをお与えになります。なんと大きな恵みを当たり前のように、私たちは受けているのでしょう。そして私はヨナを思い出したのです。
ヨナは北イスラエルの預言者です。主はヨナに、敵国アッシリアの首都ニネベの町に行って、罪の中にあり続けるなら滅びると警告するよう命じました。ヨナは自分が神の言葉を語ると、人々が悔い改めて赦されてしまうと思って、主から逃げました。大嵐になりヨナは海に投げ込まれますが、神は魚によって彼の命を救ってニネベに御言葉を告げさせ、町の人々は悔い改めました。さてヨナは、命を救われた時は感謝していたのに、ニネベが裁きを免れると怒りました。すると神は、何度も道を外れそうになったヨナを導いてこられたように、ニネベの民をも大切な存在として愛し育んできたことを、とうごまを使って体験させました。それに対するヨナの答えは記されずにヨナ書は終わっていますが、それは私たち一人ひとりに問われているということができます。すべての人を一度に、完全に愛せるようにはなりません。好きではないけれども御心なら従わざるをえない、それが現実です。しかしそのままの姿でいいのです。主は愛に欠けたる私たちの成長をあたたかく見守り、用いてくださいます。
「天の父の子となるためである」とありますが、敵を愛し迫害する者のために祈ることが、神の子になるための条件という意味ではありません。もうすでに神の子とされているあなたたちは、このように成長し完成するのだという約束です。人から善い人と思われていたとしても、神の前では私たちは罪人です。もしも神が正しい人だけの味方なら、私たちは滅ぼされるしかないのです。しかし神は「正しくない」私たちの隣人となって御子を送り、十字架と復活によって罪から救い、天の父の子としてくださいました。神のこどもとされたその具体的な現れが、敵を愛し迫害する者のために祈る姿なのです。徴税人や異邦人、神を知らない人も、家族や仲間には好意を表します。しかし神の子とされた者はそこに留まらず、すべての人に太陽と雨を恵む神のこどもとして生きるのです。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(48節)天の父の完全とは、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、敵であった時から私たちを愛して下さる、愛の完全です。子どもたちが愛の中に生き、善をもって悪に打ち勝って生きることを望まれる主は、必ず私たちを召しにふさわしい者にしてくださいます。これまで敵と思っていた人をも含むあらゆる人を愛して生きる者にならせてくださいます。太陽と雨、永遠の命をいただいた私たちは、何もお返しできません。受け取っているだけです。でもそれでいいのです。主はあなたが神の子として生まれ、見返りを求めず愛する喜びを知るようになることを、心から喜ばれます。
敵を愛することは、その人のために祈るところから始まります。最初は相手のことを考えるのも難しい、苦々しい思いでいっぱいかもしれません。しかし御言葉によって十字架の主を仰ぎ、私たちの心の思いを打ち明ける中で、私たちは主のみ跡をたどる力を得ます。あの人もまた、神の愛のもとに生きることができるようにと願えるようになっていくのです。義の太陽、恵みの雨であるキリストが、すべての人のために天から降って下さいました。これを自分のこととして信じて、天の父とともに、子とされた恵みの中に生きましょう。あふれるほどに注がれた主の愛を私で留めることがありませんように、遣わされた方々にお伝えしてまいりましょう。