「生涯の日を正しく数える」9/7 隅野徹牧師


  9月7日 聖霊降臨節第14主日礼拝・聖餐式

「生涯の日を正しく数える隅野徹牧師
聖書:詩編 90:1~12

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 先週、山口信愛教会では、久しぶりに多くの方々が参加されて「映画上映会」が持たれ、終わったあとに、感想の分かち合いが出来たと聞いています。これまで山口信愛教会が伝統的に守ってきた「平和懇談会」ですが、生の声で戦争の証言をでお聞きすることは難しくなってきました。ですので、映画上映会を大切な会として守っていきたいと考えています。もちろん直接「平和がテーマでない」映画の上映もあると思いますが、皆で一つの「映画」を見て、大切なことを考える、感想を分かち合うことによって「平和懇談会をもっていたときと同じような、恵み」を教会として持っていきたいと願っています。

さて…私は安岡教会でご用をしていたため、この会に出ることは叶いませんでしたが、後でDVDを見させていただきました。

私や瞳牧師の「盟友」である、更生教会山口紀子牧師のお兄様「山口陽一牧師」が脚本を書かれている他、この教会で「ドキュメンタリー番組」をみたことがある「久保田早紀こと、久米小百合さん」の素敵なナビゲートでした。久米小百合さん自身「自分にとって、大きくて、深くて、重いテーマ」と語り、祈りとともに長崎の地を巡っていた…ということもあり、色々なことが心に迫ってきました。

日本二十六聖人の殉教や、遠藤周作『沈黙』の舞台・外海や五島列島で「禁教下でも密かに守られ続けた祈りの言葉——オラショ」を取り上げ、地上の苦難を超えた「天国への希望」が確かに息づいていた様子が語られます。

その一方で、爆心地のすぐそばにある浦上天主堂を訪ねた「なぜ浦上だったのか」という問いが、原爆資料館や平和祈念式典の静けさの中でなされました。

久米さん自身「言葉にできない。コメントできない」と繰り返し言わていましたが私にはこれが最も印象に残りました。読んでおられたのが旧約聖書詩編83編の2節です。

「神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください。」

「なぜ、クリスチャンの沢山いて、信仰深い人たちがたくさんいる長崎浦上が原爆の犠牲にならねばならなかったのですか?神様、沈黙しないで答えて下さい!」その思いは、ずっと浦上の信者たちの心にあったことでしょう。

この「なぜ私だったのか…」という問いは、私たち皆が持つものではないでしょうか? 

原爆の熱線を浴びて苦しむ…という究極ともいえる苦しみは経験していないにせよ「なんで私だけが…」「私がこんな目にあうのは、一体どんな理由からでしょうか?神様こたえてください!」そう考えたことは皆様にもあるのではないでしょうか?

今朝の礼拝メッセージは、「聖書日課」のうち、旧約聖書の詩編90編1~12節を選びメッセージを語ることにしました。

先程の「ドキュメンタリー『神の沈黙  キリシタン弾圧と原爆 』」でかたられていた詩編83編の少し先の詩編で、内容的にも似ていると感じられたことも、ここを選んだ理由になっています。

私たち人間の人生について、大変に深い表現がなされ、とくに「人生の長さと、その中身について」、教えられる箇所ですが、一方で「神に対して、熱くぶつかるかのような祈り」をしたり「黙っていないで、祈りにこたえてください」と訴えるところは、詩編83編と通じるものを感じます。ともにあじわってまいりましょう。

まず1節から3節を読んでみます。

                 

ここでは「人間は神に造られた者であり、命を与えるとともに、命の終わったあと、ご自分に御許に召される方だ」ということが示されています。  

聖書全体で教えられている人生観として「死を忘れないこと、自分の限界を知ること」があります。

自分が被造物に過ぎないこと! 一見残酷なようにも思えますが「死に対する決定権が自分にはない」ことを認めること…しかしそこから創造者である神を思う心が生まれるのではないでしょうか。

1節最初を見ると分かりますが、この詩は「神の人、モーセの詩」となっていて、聖書の記述では「120年生きたとされるモーセ」のように、長生きした人物によって詠われた詩であると理解されています。

運よく長生きしたと思われるこの詩人ですが、この人の人生観は「どんな人の人生でも、振り返ってみれば、一瞬の人生であること」、「人生の長さが大切なのではなくて、どう生きたかが大切だ」と詠っていることに気づきます。

さらに言えば「創造主である、神をいつも心に留め、その神の眼差しを意識しながら生きていくことが、人生の鍵だ」ということが今日の箇所の主題として語られているのです。

神のまなざしを意識して生きるならば、神とは「人間とは異なる永遠の御方である」ことに気づきます。今日の聖書箇所のなかでは11節の言葉がそれを表していると感じます。  (※11節を読んでみます)

神を知れば知るほど、このお方が「いい加減なお方ではなく、罪や悪をお嫌いになるお方だ」ということが分かってきます。

そして私たちが犯しつつ大して気にもしていないような罪や、気づかずに犯している罪、つまり「隠された罪」をもすべて、見のがさずにおられるお方なのだ…ということも、心に迫ってくるのではないでしょうか? 

7節8節の言葉は、まさにその気づきの告白だと私には迫ってきました。(※7節8節を読んでみます)

ただ「罪に気づかされて、落ち込む」ところで終わっていない!そこが大きなところなのです。

「罪深い私たち一人ひとりと向き合って下さるお方なのだ!」ということをこの詩人ははっきりと告白しています!

 神を近くに感じた時、その聖なるまなざしが罪深い私たちとあまりにも違うことで「畏れを感じてしまう」のは当然です。 しかし罪深い自分をさらけ出して「神と語り合うこと」が許されている、ということをこの詩編90編から読み取れます。

では、この詩人が「自分をさらけ出して、どのような祈りの言葉をしているか」を残りの時間で見てまいりましょう。それが12節から17節に記されています。

まず今日の中心聖句ともいえる12節を読んでみます(※よむ)

一般的に健康とは…「ただ肉体的に健やか」であるだけでなく「心が健やかであること」が必須であることは言うまでもないことでしょう。

それに加え、聖書でいう健康とは「神との関係において健やかである」ということが全巻を通じて教えられます

12節の「生涯の日を正しく数えられるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」という言葉…わたしはこれを「霊的に健やかな自分であるように」つまりは「神との関係において健やかな私であるように」と神に祈り求めている言葉だと理解します。

 神の大きさや聖さの前に「自分の罪深さをしり、畏れを感じた」詩人が「神と共にあゆむ」ことを望んで12節のような祈りをしています。しかし13節から15節、詩人は驚くべき言葉で祈っています。 (※ご覧ください)

13節で「主よ、帰って来てください。 いつまで捨てておかれるのですか。力づけてください」と祈り始めます。

 さらに14節15節では、一見「厚かましい」と思えるような口調の祈りを口にしているのです。この世での歩みの苦難を「神の責任であるか」のように語り、「私たちに喜びを返してください」と祈っています。

自らの罪深さには十分気づいているが、だからといって自分の人生が労苦と災いでおわってしまわないように、諦めずに祈っているのです。

この祈りの姿勢を私たちも見習うことが大切ではないでしょうか。 

最後に残った16節と17節を読みます。

ここは13節から15節の「神へ、正直な思いをぶつけた、厚かましいかのような祈り」をしたあと、この詩人が「心に平安を得て」また「確信を得て」祈った言葉が記されていると受け取ります。

罪深い人間一人ひとりが神の威光をあおぎ、自分の人生での労苦の意味を確かに見出すということが祈られているのです。

 17節で2回も繰り返されている「わたしたちの手の働きを、確かなものにして下さい」という祈りの言葉は、長崎で苦難にあった方々、皆さんのこころにあったいのりなのではないでしょうか?

 そして「人生の中で、たくさんの労苦を負っている」のが私たち一人ひとりですが、わたしたちもまた「わたしの手の働きを確かなものにしてください」という祈りをしているのではないか、と思います。

もっと正直に、そして素直に「神に祈ってよい」のではないでしょうか?

詩編90編の詩人のように、自分の小ささ、罪深さを認めた上で「厚かましいぐらいに、求める、要求する」ことはあってよいと考えます。 

 そうやっていのることを神は待っておられます。どうぞ、神の前に心を偽らず、感情をだし、「この地上をこえて確かにある、天での祝福、永遠の命」をもとめて祈ってまいりましょう。 

 その祈りの先に「神との確かな絆があり」それが、天での永遠の命につながると信じています。

 ヨハネによる福音書4章にでてくるサマリアの女が、25節で「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせて下さいます」との希望を語っているように、私たちも、いつか天でキリストに相まみえるとき「主よこたえてください!」と叫ぶように祈っていたことも、すべて答えが与えられるときがくる、そのように私は信じます。

 答えが出ない試練、苦難の多い人生にあっても、主とともに歩めば、かならずそれは報いられるということを信じて、この先も歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)