1月8日 降誕節第3主日礼拝
「神からの誉れか、人からの誉れか」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書12:36b~43
新年2回目の主日礼拝を迎えました。先週は元日だったため、出席できなかった方、また来られても「毎週日曜日に守っている礼拝…という感じがしなかった」という方もあるでしょう。改めてこの1年も神のみ言葉である「聖書」からのメッセージを通して、養われてまいりましょう。
降誕節やその前の収穫感謝礼拝などで違う聖書箇所を読んでまいりましたが、今日から再びヨハネによる福音書の箇所を続けて読むことにします。だいぶ前になりますので、記憶が遠ざかっている方も多いと思いますが、12章36節の一つ目の文までを読んでいましたので、今回は12章36節の二つ目の文からを見ます。
今朝味わいます箇所は、ヨハネによる福音書の中で大きな分岐点となる箇所なのです。これまでのところで「イエス・キリストが公に、業を表されたり、お語りになったり」して「救いに至るために、各々自らの罪を悔い改めて、ご自分を救い主として受け入れる」ことを薦めてこられました。
しかし、今回の箇所には「人々がイエスを信じなかったこと」また「信じても、それがただ自分の心の中で止まっていた」人が多かったことが書かれます。また最初の36節には「イエスは身を隠された」とあります。これは「民衆の前で語るのは、いったん終了された」という意味合いの言葉です。
このあと、いよいよ「十字架に向けての苦難の道を神の子キリストが歩まれる」、その節目の箇所で、聖書が何を語ろうとしているのか、み言葉に聞いてまいりましょう。
まず37節と38節から読んでみます。
今回の箇所で改めて描かれる「神の子、救い主イエス・キリストを拒絶する人々の姿」ですが、ヨハネはこれを「預言者イザヤの言葉が実現するためであった」といい、イザヤ書53章1節の言葉を引用するのです。
イザヤ書53章はイエス・キリストの十字架の死によって実現する「神の救い」を預言している書として有名です。イザヤ53章では、イエスが「主の僕」という名で描かれ、この「主の僕」を人々は信じようとせずに軽蔑し、無視し、殺してしまうが、この人の受けた傷によって「多くの人が正しい者とされた」という預言がキリスト誕生の何百年も前になされているのです。
ヨハネはイザヤ書の預言の通りに「人々がイエス・キリストを軽蔑し、無視した。そしてこの後殺すことまでしてしまう。しかし!そのことによって、神による救いが実現したのだ」ということを伝えようとしているのです。
しかし!ヨハネは「預言がそのまま実現したことが凄いことだ」と単に教えようとしているのではありません。もちろん「人々がイエスを信じなかったのは、十字架による救いが実現するために必要だったのだから、よかった」と語りたいのでもありません。
この箇所でヨハネが私達に教えようとしていること、それは今日の説教題を取らせていただいた43節にあると私は考えます。
では42節と43節を読んでみます。
ここでは、ユダヤ人の議員の中にもイエスを信じた人々が多くいたが、会堂から追放されるのを恐れて、信仰を公に言い表さなかった、と語られています。社会的地位を得ている人々の中にも、イエスを心の中では信じていた人々がいたけれども、共同体から追放されるのを恐れて、信仰を公に言い表さなかった、ということです。
ヨハネは43節でそのような人々のことを「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と言っています。心の中でだけ信じている状態は「神からの誉れよりも人間からの誉れを愛している」のであって、「それでは本当に救いにあずかることはできないのだ!」とヨハネは教えようとしているのです。
ここで反面教師的に出て来る「イエスを心の中では信じてはいたが、共同体から追放されるのを恐れて、信仰を公に言い表さなかった、神からの誉れよりも人間からの誉れを愛している」人々。この人々と正反対に「神にあって私たちが目指すべき生き方」として示されているのが、私は「預言者イザヤ」だと思います。
今読んだ42節と43節の直前の41節で「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」という言葉が出ています。イエスがこの世にご降誕される前の時代に生きたイザヤが「イエスの栄光を見た」とはどういう意味なのでしょうか?
残りの時間、40節に引用された「イザヤ書6章」を読み深め、「イザヤの生き方」を学びたいと願います。イザヤ書6章は、イザヤ自身が「預言者として立てられ、遣わされる場面」のことが語られます。ここを通して「人間からの誉れではなく、神からの誉れを求める生き方」について学びましょう。
皆様旧約聖書P1069をお開けください。
6章1節にあるように、イザヤは幻の中で「高く天にある神殿で、御座に神が座しておられる」のを見たのです。セラフィムという神の天使が飛び交いつつ、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」という賛美を歌っているのを聞いたのです。その声によって神殿の入口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされたと4節にあります。つまりイザヤはまさに「神の栄光」を見たのです。
しかし、イザヤが感じたのは「嬉しさ」というよりは「神への畏れ」でした。
それは素晴らしい体験と言うよりも、5節で彼が「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」と言っているように、もう自分は滅びるしかない、という体験でした。
神の栄光の前に、汚れた罪人である私たち人間は立ち得ません。滅ぼされるしかないのです。
しかし!6節、天使が祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせて、「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と宣言しました。イザヤは神による罪の赦し、きよめを受けたのです。このことによって8節9節でイザヤは、神の求めに応えて預言者として立つことができたのです。
この「神の前で、自分の罪をみとめた後、きよめられて、その上で神からの召しに応える」そのイザヤの生き方が、「人間からの誉れではなく、神からの誉れを求める生き方」だ!とヨハネは今回の箇所で教えようとしたのではないか、と私は考えます。
つまり、イザヤは、神の御前で「自分が罪のゆえに滅びるしかない者であることを示される」と同時に「神による罪の赦しによって預言者として立てられた」のです。が、これをヨハネ12章41節で「イザヤは、実はイエスの栄光を見た!」と表現しているのだと私には示されます。
P1079のイザヤ書6章9節、10節をご覧ください。この預言の言葉が今回の箇所のヨハネ12章40節に引用されているのです。
神はイザヤを遣わされるのですが、「民がその言葉を聞かない、無理解のままである」ことを告げられます。まさに、今回のヨハネの箇所が示す、「イエス・キリストのユダヤでの宣教を民たちが受け入れない」場面を映すものでもあるのです。
それとともに「罪からきよめられたイザヤが、人からの誉れを受けず、イエス・キリストのように、ただ父なる神の御心に従うものになった」ことを表していると思うのです。
私達人間は、人の目や人の評価を気にして生きています。イエス・キリストを救い主として信じる気持ちが心に沸いても、周りの目を気にして「信仰が公にできなかったりする」弱い者です。
ましてやイザヤのように「あなたを遣わすが、周りはあなたの言葉を聞かないだろう」と神に言われたら、最初から「神に従うなんてできないや…」と諦めてしまう弱い者なのではないでしょうか。
そんな私達は、自分の力に頼って「神に従うこと」はできないのです。だからこそ大切なのは、イザヤのように「畏れをもって神の前に出て、罪をみとめ、神にきよめていただくこと」ことです。
人間の目や評価、自分のプライドなどに頼っていたら、神の前に「きよめられる」ことはできません。それは「素直になって、自分の罪を認めることなしに、罪がきよめられることはない」からです。
一方、弱く、罪深い自分を神にすべて委ねて、「きよめていただいた」なら、揺れ動くことのない、素晴らしい人生が与えられることを今日の聖書箇所は教えているのではないでしょうか。
ぜひ!今回の箇所で示されているような「キリストの栄光を仰ぎ見る」イザヤの生き方を心に留めて歩んでまいりましょう。 (沈黙・黙祷)