10月25説教 ・聖霊降臨節第22主日礼拝
「神のぶどう園の農夫」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書20:9~19
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本日の箇所は、限りない愛によって、神が私たちに救いを委ねておられることが記されています。3つの点に目を留めて御言葉にあずかりましょう。
1.神は私たちが救いの源となるように、すべてを整えて福音を託された。(9節)
2.神は忍耐をもって預言者や御子を通して語られたが、自己中心の人間はそれを拒んだ。(15節)
3.十字架の主イエスこそ、教会の親石である。(17節)
今日の箇所は、主イエスが十字架にかかられる三日前のことです。19章の後半において主はエルサレムにお入りになり受難週が始まりました。主イエスがエルサレムの神殿の境内で民衆に教えておられる様子を、ユダヤ人の宗教指導者であった祭司長、律法学者、長老たちは敵意に満ちて見つめていました。そういう緊張をはらんだ状況の中で、主イエスは一つのたとえ話をなさったのです。
1.神は私たちが救いの源となるように、すべてを整えて福音を託された。(9節)
ある人がぶどう園を作り、それを整えて、農夫の小作人たちに貸して長い旅に出ました。農夫たちは収穫の一部を主人に支払う契約をかわしました。収穫の季節になった時、ぶどう園の主人は小作料を納めさせるためにひとりの僕を送りましたが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返しました。主人は第二、第三の僕を送りますが、事態は悪化する一方でした。そこでぶどう園の主人は、私の息子ならば敬ってくれるだろうと派遣しましたが、農夫たちは彼の相続財産を奪うために、なんと息子を殺してしまったのです。主イエスが、ぶどう園の主人が戻って来たならば農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに貸し与えるにちがいないと言われると、これを聞いた民衆たちは「そんなことがあってはなりません。」と言ったのです。
たとえの物語の舞台は「ぶどう園」です。旧約の時代から、ぶどう園はイスラエルの象徴でした(イザヤ5:1~7)。また農夫たちはイスラエルの指導者たち…王や祭司や律法学者たちを表します。主人は農夫たちが心配なく働くことのできるような完備されたぶどう園を造りました。それはイスラエルを選び守りはぐくむ神の愛と、指導者たちに対する期待を示します。パレスチナは石ころの多いところで、根を張るのに邪魔になる大きな石だけを取り除くのも大変な作業です。その石を利用して野生動物による被害を防ぐための垣根や見張りやぐらを作り、ぶどうを圧縮してぶどう汁を搾り出すために大きな岩に穴を掘りました。ぶどう園に必要なものを一切整え、その畑を一定期間「貸して」、主人は長い旅に出ました。これは神がある程度の距離を保って私たち人間に、愛の関係の中でこの世界をまかせてくださっていることを意味します。
多くの人は、神はいないか、それとも信仰者の心の中にだけ存在している無力な観念のように考えています。クリスチャンであっても、神が現実に力ある方と思っていないこともあるのではないでしょうか。しかし神は今ここに生きておられ、最大限の自由を与えて私たちを見守っておられます。私たちは目の前のぶどうの豊かさに目を奪われ、自分のものにしたいというところだけを見て、主人を意識することをおろそかにしています。罪とは本来神に属するものを、自分のものにしているところにあります。主が帰ってこられる収穫の時に、私たちは神のものを神にお返しすることを覚えねばなりません。
2. 神は忍耐をもって預言者や御子を通して語られたが、自己中心の人間はそれを拒んだ。(15節)
さて賃貸料は、収穫したものから支払われるのが普通でした。一般的には収穫の三~四分の一を支払ったようです。しかし主人がぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところに送ると、彼らは主人に反逆したのです。僕とは、神によってイスラエルの民のもとに、悔い改めるようにという御言葉をもって遣わされた数多くの預言者を指します。
神はイスラエルの民と契約を結んでおられました。神の言葉を守り従うなら私はあなたがたの神となり、あなたがたを神の民とし祝福すると。イスラエルの民が神に背いて苦境に陥るたびに、神はくりかえし預言者たちを派遣して御言葉を語られました。本来は危険な事態を警告し悔い改めを告げる預言者の言葉に対して、民の指導者たち自身がまず神の前にひれ伏し、民を悔い改めに導き、救い主を待つ信仰を育てるはずでした。しかし彼らは預言者たちに耳を貸さずに迫害しました。それでも神は指導者たちのもとにくり返し預言者を遣わされたのです。
さらに主イエスはたとえ話を続けられます。「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」(13節)最後の期待をかけて息子が遣わされます。考えられないほどの寛容さ、忍耐深さです。実際、こんな主人はこの世にはいません。つまりこの主人は神なのです。それに対して、この農夫たちはあまりに身勝手であり、暴虐です。自分のやっていることが自分で分からないのです。主イエスは、イスラエルの民と契約を結ばれた神の底知れぬ愛はまさにこのようなものだと伝えようとされました。
さて案の定、農夫たちは主人の期待を踏みにじりました。遣わされた息子は遺産相続者なので、彼を殺して賃貸契約を結んでいた土地を自分たちのものにしてしまおうと、彼らは考えました。しかし主人の息子を殺したら、財産は自分たちのものになるのでしょうか?そんなことはあり得ないことですが、農夫たちはやってきた息子をつかまえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。これは主イエスの十字架の死を予告したものです。息子を殺せばぶどう園は自分たちのものになると農夫たちが考えたのは、神から独立して「神のようになろう」とする人間の罪の本質を示しています。
農夫たちは罪深く、愚かです。ぶどう園が主人の所有であることを忘れ、主人の忍耐深い対応をいいことに、自分の立場と責任を忘れました。主イエスは続けてこう言われます。「ぶどう園の主人は…ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」(15~16節)恐るべき罪を繰り返した農夫たちは斥けられます。つまり、祝福の源となるべく神の御言葉をいただいたイスラエルに代わって新しい契約の民、「教会」に、救いが与えられるということです。この教会とはユダヤ人も異邦人も含む、信仰によって救われる福音に生きる、新しい契約の民です。彼らは「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(Ⅰペトロ2:9)です。
約束を持っているとか、立場に置かれているということではなく、実際の歩みにおいて救われた者として生きる、実を結ぶことを主は求められます。神の命につながっているならばおのずから実を結び、その収穫を主が喜ばれるでしょう(ヨハネ15:5,16)。私たちに与えられたものはすべて、神からお預かりしたものです。私たちが先にあずかった救いの恵みを自分の内だけにとどめずに伝え(隣人の救いの実)、聖霊の導きに従ってキリストに似た者として日々成長させていただくこと(自らの霊の実)を求めましょう。
3.十字架の主イエスこそ、教会の親石である。(17節)
主イエスがたとえを話し終えられると、あまりにひどい農夫たちについて人々は「そんなことがあってはなりません。」と応えました。主は彼らを見つめて、今度は詩編118:22~23を引用し問いかけられました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」(17~18節)
ここで主イエスは指導者たちを「家を建てる者」、また彼らに拒絶され十字架にかけられようとしているご自身を「家を建てる者の捨てた石」「隅の親石」として語られます。「隅の親石」は家の土台の基準となる「礎石」、また門のアーチの頂上真ん中にある「かなめ石」とも解釈できます。これは受難・復活して教会の根源となっておられる主イエス・キリストを指します。「隅の親石」は、2方向から積み上げた石造りのアーチ部分の最頂部に最後に差し入れて、左右の均衡を保つクサビとしての重要な役目を持っているそうです。エフェソ2:14~22では、主イエスの十字架が隔ての壁を壊し、イスラエル人とそれ以外の民族(異邦人)を一人の新しい人に造り上げて平和を実現すると語られています。それが主イエスを救い主と信じ一つとされた教会の姿です。
隅の親石は二つの裁きをもたらします。その石の上に落ちる者が打ち砕かれる、これは主イエスにつまずく者たちのことをいいます(イザヤ8:14~15)。もう一つはその石がある人の上に落ちる(ダニエル2:34~45)、主イエスの裁きが下ることです。隅の親石となる主イエスを拒み敵対するなら、その人は滅びに至る、ということを意味しています。隅の親石はそのように救いと滅びとを分ける決定的な意味を持っているのです。
しかし主イエスにつまずき自ら打ち砕かれることは、幸いなのです。聖書の語る「救い」とは自分の努力や善い行いを積み重ねて到達するものではなく、恵みにより、つまり神からのプレゼントとして受け取るものです。行いによって救いを追い求めるところにはつまずきが起こりますが、実はその時こそ、私たちは信仰の要所を通っているのです。つまずきが起こる時に自分の信仰の一番大切な所、行いによらずただ主イエスを信じる信仰によって、恵みによって救われるということを再確認する機会になります(参考:ローマ9:30~33)。私たちの力を主が砕いてくださることが、救いへの道です。主イエスという方にひたすらぶつかり、尋ね、長くくり返すそのようなつまずきを経て、そこで初めて入れられている救いの恵みの大きさに気づくでしょう。
マルコ14:27~、十字架の前に弟子のペトロは、他の弟子たちがつまずいてもわたしはつまずきません、命がけで主にお従いしていきますと言いました。しかし主はペトロも含めてすべての弟子たちがつまずくことを告げられたのです。信仰が弱いからつまずくのではありません。すべての人に、救いのために神からもたらされるつまずきがあります。私は自分の足でしっかり立って良く生きることができる。自分の知識で神や聖書を理解して救われると思っているならば、神は御言葉の鏡に私たちのもろさ、汚さ、愛や信仰の欠如を見せられます。御前にひれ伏し、ただ神が差し出される恵みの御手に抱き上げられて信仰を与えられて歩む。これが神の救いです。
エルサレムの指導者たちは、主イエスのたとえが自分たちに対する裁きを宣告するものであることに気づき、激しい憎しみを覚えました。彼らは自分たちこそが清い、選ばれた神の僕であると思い込んでいましたから、一刻も早く主イエスを逮捕しなければと考えたのでした。彼らは、主イエスにつまずいてストップしてしまいました。
しかし主の御心は17節にあります。「イエスは彼らを見つめて言われた。」主のまなざし。主はこれほどまでご自分に敵対する者たちを愛し、見つめられます。あなたがたの悔い改めと救いをあきらめない、最後まであなたたちと向き合いたいと。自分の力で義しい人間となって救いを得ようとすることをやめて、悔い改めて私を信じなさい。神と和解し神の子にされたなら、神は永遠の命を喜んで受け継がせてくださる。人間の力で神の国を受け継ぐことはできないのだ。神の子とされるということは、神のもの、神の僕として生きる喜びを知ることなのだ…。主はどんなにこの恵みに気づいてほしいと願っておられたことでしょう。
詩編118編の言葉を引用することによって主イエスが示そうとしておられるのは、指導者たちの見立て違いだけではありません。祭司長たちや律法学者たちが十字架につける主イエスこそ、父なる神によってよみがえり、神が建て上げる新しい神の民である教会の隅の親石となるのです。神の御子が人間に殺されるなんてあってはならない。しかし聖書は、捨てられた石が親石になると預言します。引用された箇所の続きはこうなっています。「これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと」。私たちが「あり得ない」と思っているつまずきの石こそ、神のご計画された救いの道です。主イエスの十字架の死こそが、その殺した本人である指導者たちをも救う愛のみわざとなるのです。
ぶどう園の主人、神の怒りの前に滅ぼされるべき農夫は私たちのことでもあります。主イエスはぶどう園の主人が「戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」とおっしゃいました。では我々は殺されたのでしょうか?‥‥そうではありませんでした。主イエスが十字架の上で、ご自分を十字架に追いやった者、罪深い農夫である私たちの罪を担ってくださったのです。神は主イエスを死からよみがえらせ、全世界のすべての人の救い主とされました。
主イエスは今私たちにぶどう園を預けて「長い旅」に出ています。滅ぶべき罪人であった私が、驚くべき恵みによって救われました。先に救いにあずかった私たちは、主が再びおいでになる日を待ち望みながら、今遣わされている場をぶどう園として、一人でも多くの隣人が罪を悔い改め、主イエスこそ救い主であると信じる方が起こされるように仕えてまいりましょう。
神の国では「取るに足りない」と言われた者が用いられます。あなたの有能さや間違いのなさ、すばらしい性格によっては、人は救われないのです。私たちはただただ無力であります。私たちができるのは、相手の方のために祈ること。そして主がこの方を必ず救ってくださると信じて、共にあり続けることです。
もしあなたが捨てられたと思うならば、それは神が新しい恵みの場で用いようとされているのです。罪ある人間は、目に見えるもの、自分にとって役立つか否かというゆがんだ価値基準でしか判断できません。必要なものを捨ててしまう愚かさを持っています。しかし真実を知る神は、あなたをもっと良い場で用いようと他の場から退けられることをご計画として持っておられるのです。祈りましょう。
「4. この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5. あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。6. 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」・・・9. しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(Ⅰペトロ2:4~9)
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