3月16日 受難節第2主日礼拝
「神の種」 隅野瞳牧師
聖書:ヨハネの手紙一 3:1~10
(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)
Loading...
本日は成長する神の子について、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.私たちは神の子と呼ばれるほどに、愛されている。(1節)
2.御子の救いに留まるなら、罪を犯し続けられなくなる。(6,9節)
3.御子に似た者とされる望みを抱き、神のものとして歩む。(2~3節)
ヨハネの手紙はキリストが昇天された約50年後に、使徒ヨハネがアジアの諸教会に宛てて記したものと考えられています。教会の中に、主イエスが人としてお生まれになったことを否定したり、堕落した生活をしても救いには関係ないと教える偽預言者たちが現れました。そこでヨハネは、信徒たちが神の子として生まれるためにどれほどの愛が注がれているかを思い起こさせ、罪を犯さないようになる恵みを伝えたのです。
1.私たちは神の子と呼ばれるほどに、愛されている。(1節)
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(1節)
もともとの言葉では、「見よ、御父はなんと大きな愛を私たちにお与えになったか。」という、驚きと喜びがおさえられない表現です。ヨハネは私たちが神の子とされる恵みを、福音書でも伝えていました。「言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ福音書1:12)言とはイエス・キリストのことです。神の子どもとされるというのは、御父との壊れていた関係が回復され神の家族に入れられた、いわば養子とされることです。ただ御子を受け入れ、その御名を信じるだけで、私たちは神の子とされるのです。
4月の東京出張では久しぶりに実家に帰ります。家で寝転んだり父と過ごすと、子供のころの家族との日々が思い出されて、とてもリラックスした気持ちになれます。神の子とされた私たちも、愛されている居場所、御父のもとに帰る時に自分を取り戻し、生きる喜びを感じます。私たちは御子によって罪赦されましたから、恐れなく神に近づき「お父さん!」と親しく呼びかけることができます。どんなことでもお話してよいし、いつでも受け止めていただけます。祈る時、私たちは主の愛を再び確認し、力を得て御旨を行っていくことができるのです。また親が子に財産を受け継ぐように、神はご自身とその良きものを私たちに惜しみなくお与えくださいます。生きるために必要な具体的な助けだけでなく、神の愛が満ち、すべての人が互いに愛し合っている神の国に私たちを生かし、永遠の命を完成してくださいます。
人間はもともと神にすばらしい存在として造られ、神と愛し合って生きていました。しかしルカ15章にある放蕩息子のたとえのように、神から離れたほうがもっと素晴らしい生活ができるはずだと自分から神のもとを去り、気がつけばみじめなどうすることもできない状態、罪に陥りました。けれども弟息子が悔い改めて父のもとに帰った時に、父が大変な喜びをもって息子として迎えたように、私たちもまた神の子として迎えられたのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ福音書3:16)私たちが神の子と呼ばれるのは、ただ神が御子をお与えになるほどに私たちを愛してくださったからです。私たちが罪と死から解放され神とともに生きるために、御子は私たちの受けるべき裁きを十字架で担ってくださいました。
このキリストの十字架によって示された神の愛によって、私たちは神の子とされたのです。
今日の箇所には「神の子」と「御子」という似た言葉が出てきます。「神の子」は複数形で、主イエスを罪からの救い主と信じて、神とともに生きる者となったクリスチャンのことです。「御子」は父なる神のひとり子、イエス・キリストです。罪と弱さをもつ人間が、永遠の聖なる神の子などと、本来呼ばれるはずがありません。しかし御子が救いを成し遂げてくださいましたから、ただ神の愛によって私たちは神の子とされたのです。
主イエスは「天の父よ」と祈る神の子の祈り、主の祈りを教えてくださいました。この祈りは「我らの」祈りです。自分の願いに留まらず、あの人もこの人も神の子ですから、その方々がまだ祈れないなら、執り成して祈るのです。日用の糧を与えたまえと祈る時、あの人の必要が満たされるために私に何ができるだろうか、という行動が生まれます。あまり祈ったことがない方は、「天のお父さま」と呼びかけて、同じく神のこどもとされた方々のために祈ってみてください。御子によって御父だけでなく、神の家族ともつながらせていただいた恵みを感じるでしょう。また特に、同じ主を父と仰ぐ兄弟姉妹とともに礼拝をささげることは、新しい一週間に遣わされていく大きな力となります。
主イエスは十字架の前に弟子たちのためだけでなく、彼らによってご自身を信じる、後の世代の人々のためにも祈られました(ヨハネ福音書17:20~21)。御父と御子が愛において一つであるように、すべての人がこの愛の内に入れられて一つとなることを祈られたのです。主は神の家族にあの人もこの人も、お加えになります。同じ主を信じていても、なんと多様な人が召し集められていることでしょう。なかなか思いが合わないこともあります。けれども主の祈りを自分の祈りとしていきましょう。主は違った部分をもってご自身のからだなる教会を建て、主の愛を現わされます。先に神のもとに招かれた私たちが、主を中心に愛し合う神の家族を生き、主のもとにこれから帰って来る方を喜んでお迎えできますように。
2.御子の救いに留まるなら、罪を犯し続けられなくなる。(6,9節)
聖書において罪とは、神とその御心(律法)に背くことです。律法は多くありますが、その根源にある最も重要な戒めは、神を愛し隣人を自分のように愛することであると、キリストは示されました。ですから罪とは、愛さないことだと言えます。盗んだり傷つけたり、言葉や行動として罪を犯していなくても、無関心であるなら、神から離れてしまっているのです。
「御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。」(6節)
主イエスは神のひとり子、神であられますから、神から離れることはありえません。ですから罪がないのです。悪魔の誘惑を耳にすることはあっても、それが御子を動かすことはありません。しかし私たちは主を信じてもなお罪に陥る者です。ヨハネも1:8~10で罪がない人間はいない、しかし罪を告白するならば神はあらゆる罪を赦し不義から清めてくださると語っています。大切なのは、罪を犯してしまう者であることを認め、神の御前に悔い改め赦しを受け取ることです。それこそ神と交わりを持つ土台です。
6節で言われている「罪を犯しません」という言葉は、「罪を犯し続けることができません」というほうが分かりやすいでしょう。神を信じると、以前は何も思わずやっていたことに、ふとこれでいいのかと立ち止まるようになります。これは神が悲しまれることだと感じると、やめようと思うようになるのです。御言葉と祈りによって主と交わることで、私たちは何が主の御心であるかを知らされます。神は家族や友人を通しても、罪を犯さぬように、神のもとから離れないようにストップをかけてくださいます。誰かから愛されることを通して、私たちは自分が大切な存在だと知り、間違った道に進んだり自暴自棄になることに、思い留まる力が与えられます。転ぶことがあっても、受け止めてくれる人がいればやり直せるのです。
「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」(9節)
神から生まれた人とは、聖霊によってイエス・キリストが神の子、救い主であるとの信仰が与えられた人、罪に支配された古い自分が死に、復活のキリストの命に生きるようになった人です。神の種とは救いの御言葉、十字架によって救いを成し遂げられた御子ご自身です。種には命があり生きています。芽を出し花を咲かせ実を実らせるために、種は内なる命を与えて朽ちます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)御子は十字架で死んでよみがえられ、ご自身の復活の命を私たちにもお与えくださいました。私たちの内に神のご支配が広がり、神の子として成長していきます。
6節と9節は文が似ていますね。重ねて読むと示されることがあります。6節では「御子の内にいつもいる人」とあり、ヨハネ福音書15章のぶどうの木のたとえで「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。…わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ福音書15:4,9)と同じ言葉が使われています。救われた私たちは御子の愛と守りと導きのうちに留まります。これは私たちが主体的に神に応答し、神と共に生きることを選ぶということです。そして9節の「神から生まれた人」「神の種がこの人の内にいつもある」は、神が私たちにしてくださったことです。信仰生活は一方通行ではなく、神と私たちとが互いに愛し合うことなのです。
神の子どもかそうでないかは、正しい生活をする(=7節「義を行なう」)こと、隣人を愛することではっきり示されます。ローマの教会には、救いの恵みによって何でも赦されるのだから、これまでの生活を続けていればよいと考える人たちがいました。まことの神を畏れず欲望のままに生き、悪意やねたみ、陰口にあふれ、傲慢で無慈悲。自分も他の人の罪もまあいいじゃないかという有様でした。彼らの状態は不義であり、神の真理の働きを妨げるものだとパウロは警告します(ローマ1:18~32)。キリストによって罪に死に、新しい命をいただいた者は、あえて罪の中に留まるなどあり得ない。自分自身を義のための道具として神に献げなさいと語るのです(ローマ6:1~14)。
私たちもこれまで、自分の体や時間、与えられたものを、思いのままに使って生きていました。しかし自分の願いを満たすだけの人生はむなしく、人や環境を傷つけることもあったかもしれません。そうではなく、これからは自分を神にささげて用いていただくのです。家族、地域、社会に御心が行われていくように。特別なことでなくていいのです。誰かのそばにいて話を聞き、祈る。それだけで救われる人がいます。主が愛されたように神と隣人を愛する、生きたキリスト者でありたく願います。
3.御子に似た者とされる望みを抱き、神のものとして歩む。(2~3節)
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」(2~3節)
私たちはすでに、神の子とされています。しかし私たちにはまだ、神の子としての実質が備わっていません。罪を犯しやすく愛に欠けているのです。神は私たちをこのまま放っておかれるのではありません。主イエスが再びおいでになる時、私たちは栄光の御子をありのままに見ることが許されます。その時私たちは主イエスのごとく、復活のきよい体に変えられ、いつまでも主とともにいることになります。この希望があるから私たちは揺らぐことなく、主のわざに励むことができるのです。そして御子の似姿に変えられることは、私たちが再び主にお会いする時だけでなく、地上に生かされている間にも与えられている恵みなのです。
神は初めに人を御自分にかたどり、神に似た性質を持つ者として創造されました。それは神のすばらしさを映し出す存在ということです。人は罪を犯し神から離れて、私たちの内にある神のかたちは損なわれてしまいましたが、主イエスの十字架と復活によって私たちの罪は赦され、新しく生まれ、神のかたちの回復がスタートしました。キリストに似た者となるとは、私たちの内に植えられた神の種が育ち、キリストの品性である聖霊の実を結ぶ、つまり私たちの生き方に表れてくるということです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22~23)
どのような人も愛し受け容れ、誠実に接する。相手の幸いを願い、惜しまず与えることができる。苦しみの中にあっても魂は平安である…。御子に似た者とされるとは、なんと力強く幸いなことでしょう。
「御子が清いように、自分を清めます。」とあります。「清い」は「聖なる」とほぼ同じ言葉です。まったく聖なる方は神のみですが、旧約の時代、特に礼拝で使用するものを他のものと別に取り分けておくことを、聖別する、きよめるといいました。神のものとされた時に、それは聖なるものとなるのです。私たちが自分や世の中の考えに流されるのではなく神の御業のために生き、栄光を神に帰するように、主は願っておられます。
自分の努力で清く正しく生きるというのではなく、神に自分をささげて生きることです。私の固く閉ざした暗い部分、その扉を開けて主の光に照らしていただく時、そこは光となります(エフェソ5:13~14)。私の握りしめているものを手放し主におゆだねするなら、主はそれを幾倍にも良きものとして、用いてくださるのです。主がこちらに行きなさい、これをしなさいとおっしゃった時に、「はい」とお応えして出発できる従順さ、しなやかさを持ちたいと思います。
たとえば手紙を書こうと思ってペンを握るとペンに意思があって、勝手に動いて違う文を書きだしたら困りますね。私たちも救われた最初はそうなのです。神にとっては用いにくい自分勝手なものです。信仰をもっているといいながら自分の範囲内だけで動き、いいと思える御言葉だけを聞こうとします。しかし献身の恵みを受けないのはもったいないことです。主が救いのため、誰かの幸せのために私たちをお用いくださるなんて、何とすばらしいことではありませんか。神におゆだねしていけば、自分が造られた目的に一番かなうように私たちを用いてくださいます。その経験を重ねていくと、もっと自由に私たちを通して神の御業が働くでしょう。自分の判断や経験でやってきたことはいったん置いて、主が中心にいまして何を語られているかを聴きましょう。
私たちの努力によっては、キリストに似た者に変わることはできません。これは神がその命をもって結ばせてくださる「実」だからです。日々の御言葉と祈りにおいて、聖霊の導きにお従いすることを通して、私たちは取り扱われていきます。罪と弱さをもつこの体には限界がありますが、やがて主にお会いし御子に似た者と変えられる望みを仰ぎましょう。成長させてくださるのは神です(Ⅰコリント3:6)。両手をひろげておゆだねし、神の種、救いの御言葉をもって、それぞれの場に遣わされていきましょう。