「自分を捨て、自分の十字架を背負う」3/23 隅野徹牧師


  3月23日 受難節第3主日礼拝
「自分を捨て、自分の十字架を背負う」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 16:13~28

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 今回は4つある聖書日課の箇所の中からマタイによる福音書16章13~28節からを選んで語ることにしました。受難節に入ったからでしょうか、イエス・キリストの十字架について「教える」箇所が選ばれている印象を受けます。

今日の箇所では「神の独り子イエス・キリストがおかかりになった十字架」を私たち一人ひとりがどのように受け止めたらよいのかが教えられます。

世の中一般にも「十字架が、イエス・キリストが処刑された場所」であることは知られています。しかし、わたしたち教会につながる者たちにとって「十字架」は、ただ「歴史の中でキリストが処刑された場所」として客観的に捉えるだけでなく、「わたしにとっての誇りがキリストの十字架だ」とパウロが言っているように「主観的に、自分のこととして」十字架を捉えることが大切です。

今日は後半部分の21節から26節を中心に見てまいります。ともに御言葉を味わいましょう。

まず前半部分の13節から20節を簡単に見ます。ざっと目で追っていただけますでしょうか。

ここは「イエス・キリストを歴史上の一人物として捉える世の人々に対し、弟子のシモン・ペトロはイエス・キリストを神の子であり、自分の救い主であると捉えた」ということが記されています。

 先程「十字架を客観的にとらえるか、主観的にとらえるか」という話をしましたが、それはそっくりそのまま「イエス・キリストを歴史的な一偉人」として捉えるか、「自分を罪から救い出し、永遠の命を与えて下さる救い主だと捉えるか」ということにつながります。

このあとイエスご自身は、ご自分が十字架にかかって死ぬことを預言されるのですが、その前段階で「御自身を神の子、救い主として捉えること」の大切さを教えられるのです。それは「十字架を、ただ悪人たちによって行われた処刑」と理解するのではなくて「その十字架での死は、生ける神の子救い主として、わたしを含むすべての人が罪から救われるために、神ご自身が成さった業なのだ」と理解することができるために、イエスご自身が導いてくださったと考えます。

18節と19節では、「イエス・キリストを神の子であり、自分の救い主であるという信仰の告白の上に教会が立てられること、その信仰告白は悪や闇の力も対抗できない、大きな力を持つものである」ということが教えられます。

私たちも、「イエス・キリストを神の子であり、自分の救い主であるという信仰の告白」の上に立っていること、そして何より!「悪や闇の力が、自分を覆っている」と感じるようなときも、私たち自身の大きな力となる」ことを忘れないで歩んでまいりましょう。

20節で「御自分がメシアであることを秘密にするように」とイエスはお命じになりました。信仰告白が大切だと仰った直前の言葉からいうと「矛盾しているではないか」とお感じになるかもしれません。

これをイエスがお命じになった理由は「イエスが神の子だと知れ渡ったら、十字架にかかってすべての人間の罪の身代わりとなって死ぬ」という、神の救いのご計画に影響が出ると考えられたからではないかと言われています。

それだけ「ご自身が十字架の上で死なれることは絶対に成し遂げる必要がある」とお考えくださっていたことが分かります。 

そしていよいよ21節以下の部分、「ご自分の口で十字架を通しての救いの業」が語られるのです。では残りの時間、21~26までを深く味わいたいと願います。

まず21節から23節を読んでみます。

イエスは、このあと「ユダヤの宗教指導者たちから苦しみをうけ、その結果として十字架刑に処されて死ぬことになっている」と打ち明け始められました。でも、ただ「死でおわる」のではなく「3日後に死の力を打ち破って復活する」ことも、はっきりと約束されているのです。

しかし、弟子たちの心には「復活のこと」は全く入らず「イエスが十字架で殺される」ということだけが入り、そこに強烈に反応したのです。とくにペトロは「そんなことはあってはならない」と感情をむき出しにして怒ったことがわかります。

ペトロは直前の箇所で、「イエスが神の子、救い主メシアである」ということを告白しています。その「神の子救い主」が、宗教指導者たちによって苦しめられ、結果として当時人々を恐れさせていた「十字架刑」に処せられるなどということはあってはならない、なんとしてもそれは阻止する!そんな思いでいたことでしょう。

しかし、そんなペトロに対しイエスは「サタン、引き下がれ!あなたはわたしの邪魔をする者。神ことを思わず、人間のことを思っている」という強烈な言葉を返されたのです。

わたしたちの感覚として「ペトロはそんなに悪いことをしたのか?」とおもってしまいます。理解のキーとなるのが先週に続いて出てきた「サタン」という言葉です。

すこし掘り下げます。 サタン・悪魔を無視してはいけないと思いますが、その一方なんでもかんでも「サタンの働き」だと捉え、サタンを過剰に恐れるのは違うと思います。

悪魔、サタンは、マタイ4章などで「イエス・キリストの救いの業・働きを妨げるものとして出てきます。そのサタン・悪魔は「私たちの心の内に、自分自身のものとしてある」ということを覚える必要がある…ということを先週お話ししました。つまりは「神の業を妨げるようなものが、私たちの心の中には常にある」ということに注意することが大切だと私は思うのです。

ヤコブの手紙1章14節に「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです」という言葉が出ます。

私たちの内にある「欲望」、別の言葉で言い換えれば「自己中心さ」が、「神の御心からどんどん離れた道」へと引っ張りこむのです。大事なのは「悪魔やサタンの誘惑のせいだ!」と騒ぐことではなく「神の御前で、自らの歩みを顧みる」ということです。

今回の聖書箇所の場面でも、「ペトロにサタンが憑りついた」というよりは、ペトロの心の中にあった「自己中心な思い」をイエスが注意された、という風に理解することが重要だと考えます。

では、「ペトロの自己中心な思い」とは何でしょうか。それが…25節、26節から見て取れます。 それでは25,26節を読んでみます。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが私のために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」

ペトロが「イエスが十字架で死なれるなんて、あってはならない!」と考えた理由は、イエスのことを「自分に利益と、繁栄を与えてくれる救い主だ」と勘違いしたからだということが、このイエスの言葉から理解できます。

20節までのところで「イエスがただの人間ではなく、神の子で救い主だ」と告白できたペトロでしたが、その直後、「御自分は死の苦しみをも受けるメシアだ」と聞かされると、それを受け入れることが出来なかったのです。ペトロにとって、メシア救い主は「強く、繁栄をもたらすリーダーでなければならない」という自己中心な思いがあったのです。その思いを見抜かれたからこそ、イエスは「サタン、引き下がれ!」と強い言葉を発せられたのです。

私たちの心の中には「救い主はこうあってほしい」というような自分勝手な思いはないでしょうか?

「救い主とは、わたしの願いを常に叶えてくれる存在だ」と思っているところがもしあれば…望んだものと違うものがを与えられた時、「約束が違うじゃないですか!」と神に抗議することは多いのではないでしょうか。

ペトロが「栄光のメシアを望んだのに、苦難のメシアが示されたとき、それを受け入れることができなかった」心は、私たち一人ひとりにあります。

だからこそイエスは、ペトロだけでなく、わたしたち一人ひとりにも「わたしについてきたいのなら、自分を捨て、十字架を背負って」ついてきなさい、といわれるのです。

これが語られる24節が今日の中心聖句です。最後にここを味わってメッセージを閉じます。

イエスの十字架は、わたしたちがそれを漠然と見上げるものなのではなくて、「イエス・キリストが自分のために命を捨てて下さったことを覚えながら、見上げるもの」です。

この思いで十字架を見つめるなら、私たちは「自己中心な思い」を捨てることができると信じます。            

 その上で!「神がわたしたちに与えて下さっている十字架」を背負ってまいりましょう。2005年までローマ・カトリックの教皇だったヨハネ・パウロ二世が次のような印象的な言葉を残しています。

「新しく生まれるためには、古い自分に死ななければなりません。それと同じように、真の救いを得るためには、十字架を引き受けなければなりません。」

重い言葉ですが、胸に刻みたいと願います。

 一人ひとり、神が負うように示された「十字架」は違っています。

他者の痛みを自分の痛みとして担うことだったり、自分の健康や心の痛みを「自暴自棄にならず、そっと引き受けること」もそうでしょう。 快適で痛みを感じることが全くない、楽な人生など、どこにもありません。肉体面でも、他者との関わりの面でも「何かしら負わねばならない痛み」が存在します。

そんな人生ですから「何かしら、思い通りにならない、不満に思えること」が起こるわけですが…それでも私たちを救い、永遠の命を与えるために「自ら痛みを負い、十字架にかかってくださった救い主イエス・キリスト」が私たちと共にいて下さることを折に触れて思い出したいものです。

主とともに「十字架を背負った道」を歩んでまいりましょう。それは復活の永遠の命につながる道を歩むことなのです。(祈り・沈黙)