「荒れ野で叫ぶ声」6/6隅野徹牧師

  6月6日説教 ・聖霊降臨節第3主日礼拝・聖餐式
「荒れ野で叫ぶ声」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:19~28

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 1か月前の礼拝から、ヨハネによる福音書を主日礼拝で続けて読んでいます。これまで読んできた1:1~18までは、この福音書の「序章」にして「何のためにこの書を記すのかが深い表現で教えられている部分」でした。今回のこの箇所である1章19節からいよいよ「歴史的な部分」が始まります。

つまり、これから「キリストが地上で働かれた日々についての記録」と「人々の中にあってのキリストの行動とことばの記述」が続いていきます。

ヨハネによる福音書は、マルコによる福音書と同じく「クリスマス物語の具体的な記述」を省き、いきなり「洗礼者ヨハネによる、イエス・キリストの証言」から、歴史的記述を始めます。今朝はこの箇所を共に味わいましょう。

 今回の箇所には神の御子「イエス・キリスト」は登場しません。出てくるのは洗礼者ヨハネと、彼に対し質問をするユダヤ人の中で宗教的な祭儀を執り行う「祭司、レビ人」です。しかしながら、福音書の著者「ヨハネ」はこの質問のやりとりを通して「イエス・キリストが真の神の子であり、救い主である」ことを示そうとしているのです。共に御言葉を味わいましょう。

まず、今回の箇所のあらすじを見てまいりましょう。19節をご覧ください。

 宗教的祭儀を執り行う「祭司・レビ人」が洗礼者ヨハネのもとに遣わされます。ルカによる福音書1章によると、洗礼者ヨハネは祭司であるザカリアの息子として生まれたと書かれています。だから、同じ「祭司・レビ人」が洗礼者ヨハネに遣わされたのです。

 では誰が遣わしたのでしょうか?19節に漠然と「ユダヤ人たちが」とありますが、これはユダヤの最高議会の指導者たちのことを指しているのです。

 イエスがお生まれになったころ、「まもなく救い主が出現し、ローマ帝国の圧政から解き放ってくれるのだ」という漠然とした期待が広がっていたのです。そんな状況で、ユダヤ中から多くの人が洗礼者ヨハネのもとに行き、「自分の罪を告白して」ヨルダン川で洗礼を受けていることが指導者たちの耳に入ったのです。放っておくわけにもいかず、洗礼者ヨハネを詳しく調査する必要に迫られたのです。

 19節後半と20節をご覧ください。指導者たちが遣わした祭司・レビ人」が洗礼者ヨハネに「あなたはどなたですか?」と質問します。これは「あなたは、民たちが待望している救い主、メシアなのですか?」という意味の質問です。これに対し洗礼者ヨハネは「わたしはメシアではない」と答えます。

 続いて21節をご覧ください。まず「あなたはエリヤか?」という質問に対し洗礼者ヨハネは「違う」と答えます。この質問ですが、当時「救い主が来る前には、この世で死ぬことなく天に昇って行ったエリヤが再来する」ということが信じられていたためです。

 また「あの預言者なのか?」という質問ですが、旧約聖書申命記18:15でモーセが言ったとされる言葉に基づいています。このようにして、ユダヤ人の指導者たちは「洗礼者ヨハネが何者なのか」あらゆる可能性を探ろうとしていたのです。しかし洗礼者ヨハネはこれらに対しても「違う」と答えたのです。

 それで22節、祭司・レビ人はしびれを切らして言います。「あなたが一体誰のか…それを派遣元である指導者たちに答えなくてはならないのだ!」これに対して、洗礼者ヨハネは23節で、預言者イザヤの言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声だ」と答えます。これは今回の説教題にも着けている大切なことばです。後程深く掘り下げます。

 続いて24節25節です。遣わされた人たちは、「頭が固く、律法主義的」なファリサイ派に属する祭司・レビ人でした。だから、「あなたはメシアでも、エリアでも、あの預言者でもないのに、どうして洗礼を授けるのか?」とクレームをつけたのです。

この後、26節、27節で洗礼者ヨハネが答えます。ここも大変大切な内容なので後程みます。

一言でヨハネは何を言っているのかというと、「自分の後に本当の救い主が来る。自分はそのお方と全く比較もできない罪人にすぎない。しかし、そのお方によって多くの人々が救われるために、道を整えるために、水で洗礼を授けているのだ」と答えるのです。

イエス・キリストが多くの人々を救うために、道を備えた洗礼者ヨハネ。その彼の授けた「水の洗礼・バプテスマ」は、再来週見る29節以下で「イエスが受けられた」ことによって大きな意味を持つものになるのです。

最後の28節は、洗礼者ヨハネが、「水で洗礼を授けていた場所」がヨルダン川の岸のベタニアであることを記し、これが歴史的な事実であることを示すのです。

 さて今回の箇所から覚えたいことは二つです。イエス・キリストは直接登場しませんが、洗礼者ヨハネによって、「イエス・キリストに希望を持って生きる者の幸い」が読み取れます。そのうち二つをお分かちします。

洗礼者ヨハネの「徹底して神に仕える姿」を覚えましょう

洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた場所は、都であるエルサレムから100キロ以上離れた場所でした。今のように情報社会でないのに、多くの人が洗礼を受けるためにヨハネのもとに行こうと決心したのです。マルコ福音書の1章などから、全イスラエルで大きな注目をあびていたことが分かります。人気もあったのです。    

それでも「私はメシア救い主ではない」と言い切れたのです。

どの時代も変わりませんが、人気があがり人から持ち上げられて「自称救い主」として振舞うひとがいかに多いことでしょうか。最近まで大統領だったあの方の顔が思い浮かんだ方も多いでしょうが…こういう「神のように振舞いたい」という罪は誰もが持っているのです。

しかし、一人間が神のように振舞った結果はどれも同じだということを歴史は証明しています。それは必ず「一時的な快感」で終わるのです。自分を低くし、創造主である方の前に謙ること抜きにして本当の幸いはありません。

洗礼者ヨハネは、イエスの履物のひもを解く資格もないと言っていますが…当時靴ひもを結んだり解いたりする役目は「奴隷」がしていました。この表現を用いることで、洗礼者ヨハネは、「自分は罪のある一人間に過ぎないこと」と「神のしもべに徹するのだ」ということを公言しているのです。

 コロナ禍にあって、人々は目に見えるものにすがろうとしています。そして「実力者、権力者を神のように仰ごう」としています。そんな流れに飲まれず、私達は洗礼者ヨハネのように、ブレることなく「謙虚に、神のしもべとして歩む」ことを大切にしてまいりましょう。

②本当の救い主は「すでに来ている」 そのことを気づいていない人に指し示す洗礼者ヨハネ 彼から本当の救い主の方に世の人々を向かわせる「声」として生きる幸いを覚えましょう。

 それは25節に出ます。ご覧ください。

洗礼者ヨハネは自分のことを、荒れ野で「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だ、と答えているのです。これは旧約聖書イザヤ書40章3節の言葉を用いてのものです。

荒れ野とは…文字通りの意味ではなく、当時のユダヤが「霊的な荒廃にあった」ことを表しています。自分たちの暮らしが少しでも楽になる、ローマ帝国の圧政から解放されることばかりを考えていました。

26節に「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」とあるように、救い主が来ておられるのに、それに気づかず、そして受け入れようとしていないのがユダヤの民たちでした。

洗礼者ヨハネのもとを訪ねてきた宗教指導者たちも、ユダヤの多くの人達が罪を悔い改められたら困る。自分たちの地位が危うくなる。だから人々は自己中心的な思いを持ってくれた方が都合がよいと思っています。だから洗礼者ヨハネに抗議したのです。

 この時のユダヤは、まさに「荒れ野」だったのです。

そんな荒れ野で「神の御子による救いの道を整えよう」と叫んだ「声」が、洗礼者ヨハネです。

 「声」は、文字と違って残るものではなく、すぐに消え失せるものです。だけれども、大切なことを聞く人々に伝えることのできるものです。

 洗礼者ヨハネは、自分がすぐに消えゆく存在でよいという謙虚な気持ちをもちつつ、一方で「この後こられ、そして永遠に生きて働かれる救い主イエス・キリストを受け入れよう!そのためにまず心の中にある自分の罪をしっかりと悔い改めよう!」と力の限り伝えたのです。 

 洗礼者ヨハネの時代と、コロナで苦しむ私達の時代は似ていると感じます。多くの人々が自己中心に生き、保身に走る。そして人々がそのような生き方をすることを密かに喜ぶ闇の力がある…

 そんな時代にあって、洗礼者ヨハネの「荒れ野で叫ぶ声」としての生き方を私達も見習ってまいりましょう。多くの人が「気づかないでいる、そして受け入れようとしないでいる」本当の救い主を、受け入れる幸いを力強く伝える声になりましょう。 そのことがこの世全体を少しでも変える力になると信じています。(祈祷 黙祷)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Download [206.76 KB]