「蒔いたものの刈り取り」1/5 隅野徹牧師

  1月5日説教 「蒔いたものの刈り取り」(降誕節第2主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ガラテヤの信徒への手紙6:1~10

 

 2020年最初の「主の日」礼拝を、皆様とともに守れますことを、心から感謝します。この年も、「共に!」御言葉に聞き、「主なる神様」を近くに感じながら歩んでまいりましょう。今朝の聖書箇所は11月まで祈祷会で取り上げていたガラテヤの信徒への手紙です。使徒パウロを通しての熱いメッセージが伝わってくる今日の箇所から御言葉を聞きましょう。

 今回は7節から10節を中心に語ります。その前の1~6節では、パウロが手紙を宛てたガラテヤの諸教会が「どんな問題をかかえていたか」が見て取れます。まずはこの部分を読み、パウロを通して主が語られた言葉の「背景」を学びたいと願います。

 まず1~3節を読みます。

 1節で教えられていることがありますが、これは「相手の間違いを正しなさい」ということではありません。「だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」まず「あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい」ということです。

 皆さんは、誤った行動をしている人を見て「自分なら、あんな過ちはしない」と思い込み、上から目線で非難することがはないでしょうか? そういう思いでいると、「過ちを正そうとしても」単なる攻撃、批判で終わってしまうことは多いです。

 大切なのは「自分も同じ過ちを犯すかもしれない」という謙虚さ、「優しく諭そう」とする寛容さです。

 この直前の5章15節に「お互いで噛みつき合う」という言葉が表すように、ガラテヤの信徒たちは、「謙虚さ、寛容さ」がありませんでした。

 3節には「実際に何者でもないのに」という言葉が出ます。これは自分を「偉大な何者」かであると思える資格があるのは、神と神の子キリストだけです。人間が、自分自身を「偉大な何者」だと思うならそれは高慢です。

 パウロがこれを語った背景にはガラテヤの信徒たちの中で、「自分は偉大だ」と思い込んでいる人がいて、その人は他の人の重荷を担い合おうとせず、あたかも「一人で生きていける」かのような高慢な態度を取っていたからだと考えられます。

 そこでパウロは2節のように「互いの重荷を担い合う」ことを勧めます。それはガラテヤの信徒たちの多くが「これは大切にしていた」「律法の教えを全うすることになるのだ」を教えられています。

 人はお互いの労苦を担い合う時、相手と一体となり、相手とすべてを共有します。だから、「互いの重荷を担い合うこと」は、人は相手を自分自身のように愛し、隣人愛を命じる「キリストの律法」を十分に果たすことになるのです

 つづいて4節~6節です。

 まず4節では「それぞれ自分の行いを吟味する」ことが勧められます。そうすれば、は、「誇れるのが、自分の内に住んで働かれる神だけだ!」ということに気づくはずだ!ということです。「他人には誇れないが、自分だけには誇れる」とは、決して「自己満足する」とか「自画自賛する」ということではなく、自分の内側に住みたもうて「霊の実を結ばしめたもう」神を誇り、神に感謝することなのです。

 その流れで続く6節では、再び「謙遜さをもって支え合う」ことが教えられます。ここではとくに「御言葉を語る者を、自分の担うべき重荷として捉えることが教えられます。 私も瞳牧師も、皆さんが「重荷を担い合う決意によって」支えられていることを感謝します。 

 そして今日中心的に見る「7~10節」が続きます。

 今回は、説教題につけたように「蒔いたものの刈り取り」というテーマで語ります。新年最初の主日礼拝です。この一年「みなさんがどんな種を蒔こうと思うか」そんなことをイメージしていただきながら御言葉を味わっていただくと幸いです。

 まず7,8節です。

 ここでパウロは、人間のなす業について「種蒔きと刈り取り」という譬えを用いています。よい種を蒔けばよい実りを刈り取るし、悪い種を蒔けば悪い実りを刈り取るというのは当たり前のことです。そしてまた「蒔かなければ刈り取りはない」ですし、「蒔いた以上を刈り取ることもない」こともその通りです。

 この譬えが語られている背景、それはガラテヤの信徒たちの生活態度が「蒔くこともせずに刈り取ろう」としていたり、「悪い種を蒔いてよい実を刈り取ろう」とする態度だったからです。だから7節で「思い違いをしてはいけない。神は人から侮られることはない」と厳しく警告するのです。その上で、行いの目的を「自分の肉のため」か「霊の導き」か顧みなさいと教えています。

 そして「肉欲の種を蒔いたら滅びを刈り取ることになり」、「御霊からは永遠の命を刈り取ることになる」と示すのです。これは誤りのない「事実」です。

 続いて9節10節を読みます。

 9節のはじめですが、より分かりやすく訳すと「善を行うことで疲れ果ててしまわないように、失望してしまわないように」という意味だそうです。

 つまり!善が報われないことで疲れ果ててしまわないように!ということや、正しいことを行い続けても現実が善い方向に変わらないことで失望してしまうことがないようにという意味なのです。 確かに私一人が「祈りつつ善い業を積み重ね」ても、一向に状況が好転しないとか、「善かれと思って続けていることが実にならない…」そう感じることは多いのではないでしょうか。 

 キリスト教信仰は「ご利益のためではない」それは分かっていても、報いられないことがあまりにも多くて、心が折れてしまいそうになる…そんなことは多いのではないでしょうか

 そんな私たちも、どうすれば「善を行うことに疲れ果てることのない信仰生活ができるのか…」それは続きの「時が来て、刈り取ることになります」という言葉に表されているのです。

 「時が来て」というのは、善い行いをしていればいつかそれがかなえられる…という意味ではありません。そうではなく!これは!!「ある決定的な意味を持つある時が来たならば、あなたがたは大いなる刈り取りにあずかるのだ」という「希望と約束」の意味なのです。

 その「時」とは…やがて私たちが「神・キリスト」と会いまみえる「終わりの時」を指しているのです。「私たちにも終わりの時が来る。その時に、聖霊に導かれて私たちがよい種を蒔いたなら、神が覚えていてくださり、大きな実にして刈り取らせてくださる」というのです。 これは必ず「そうなる」と断言されているのです。確かなことです。

 だから、私たちは「時間が与えられている間に」善い種をまくことを勧められているのです。 そして、隣人に対して、特に神の家族に対して善を行うことが勧められるのです。

 年の初めは「神の時というもの」を意識する時でもあります。その中には「終わりの時」も含まれます。

 私たちは永遠にこの地上で生きられる訳ではありません。でも私たちは、それで終わりではないという希望を知っています。 神の時である「終わりの時が来る」それは決して悲しいだけではなく、希望の時でもある…そのことを今日の箇所は教えているのではないでしょうか?

 つまり神やキリストと会い見える時が来る。その時にはすべてが明らかになるのです。 私たちが聖霊に導かれてよい種を蒔くなら、蒔いたものの豊かな刈り取りをさせてくださるのです。だから「なかなか報いられなくても」希望を抱きながら、良い種を蒔き続けましょう。 まずはじまったばかりのこの2020年、「疲れることなく、善に励む」思いを新たにしましょう。

 神は侮られる方では決してありません。悪い種を蒔き続けるものを放置されることはありません。 私たちは「天を見上げて」善い種を蒔き続けてまいりましょう。