11月10日 聖霊降臨節第26主日礼拝・聖餐式
「講和を求める」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 14:25~35
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先週は多くの方ととともに「召天者記念礼拝」をもつことができました。とくに多くの召天者ご家族がお出で下さり、ともに「天の国、永遠の命」について思いをはせられたのではないかと思います。
今すぐには教会に通い続ける意思がない「召天者ご家族」であっても、このように年に一度、御自分のご家族の信仰を尊重し、礼拝に連なって下さることを感謝をもって受け止めたいと思っています。
さて、召天者礼拝では多くの久しぶりの方々もおられましたので、お話しできませんでしたが、その直前の10月末、松尾登さんとともに日本基督教団の総会に出席させていただきました。
多くの信仰の友や同労者と久しぶりの再会を果たすことが出来、主にあって励まし合えたことは大きな喜びでしたが、会議の内容そのものとしては正直「物足りなさ」を感じる内容でした。
自分たちの信仰の正しさを主張する人たちが「正義を振りかざしている」印象をもちまちましたし、もう一方の人たちが「その考え方に、敵意があるかのような態度で反対する…」 まわりには戦争や災害で苦しむ人たちがあふれていて「協力して助けなければいけない」状況があります。そしてキリスト教会はどこも「信仰継承の行き詰まりからの教勢の低下に悩んでいる。閉鎖や合併を余儀なくされる教会がたくさんある」そんな現状のなかで、対立している場合ではないのではないか…お互いの主張をいったん弱めて、なぜ協力できないのか…そのように感じた次第です。
先日、行われたアメリカの大統領選をとおして露わにされている「分断」に対しても同じことを感じられた方は多いのではないでしょうか?
私たちが「本当の意味で着いていく」のは「人間のリーダー」ではなく、主なる神お一人だけです。その神が祈りの中で、そしてとくに「御言葉をとおして」何をお語りなのか、それをぶれずに聞いていくことが、混迷のこの時代にあって何より大切なことだと改めて示されています。
今日は聖書日課の中から、「分断もおこる今のこの世に対して、神の御言葉として聞き取るべき教えだ」と感じましたのでルカ14章25節以下を選ばせていただきました。ともに御言葉を味わいましょう。
今回の箇所は厳しい教えが並んでいるように思われるかもしれません。イエス・キリストが一体誰に対して、どんな状況で語られた言葉なのかをまず理解しましょう。それは25節から分かります。
多くの群衆が、「ただゾロゾロと」イエスの後をついていた、その状態でイエスはその人たちに「御自分についてくる」別の言い方で「弟子になるとは」どんなことかを26節以下で教えておられるのです。
ここでの教えを並べてみます。26節では「自分の命と家族の命を憎むこと」が教えられ、27節では「十字架を背負う気持ちをもつこと」が教えられます。そして26節から31節では、「行き当たりばったりではなく、腰を据えて計算すること」が教えられます。
32節では、「和を求める」、別の訳では「講和する」ことが教えられ、33節では「自分の持ち物を捨てること」が教えられ、34節からのところでは、塩のことを譬えに出し、社会を腐敗から救う、地の塩として生きる」ことが教えられています。
これらはバラバラの教えに感じられるかもしれませんが、実はすべてが繋がった教えです。どういうことか、残りの時間みてまいりますが、皆様それぞれへの教えとして受け取っていただくと幸いです。
いま「ここの教えはすべて繋がっている」とお話ししましたが、それを知る手掛かりとなるのが31と32節です。
ここでの教えは、直前の28節から30節の教えとほぼ同じです。行き当たりばったりではなく「計算すること」の大切さが教えられています。深く考えることもなく、だらだらとイエスの後をついて来る人が多かったことからなのでしょう。
私たちも、イエス・キリストの体である教会につながり続けるためには「なにも考えずに、なんとなく…」ではなく、「キリストと共にいきる」とはどんなことなのかを「しっかりと考える」ことの大切さが、この箇所から読み取れるのではないでしょうか。
さて、その中身ですが、31節と32節は「数の多い相手に対して、少数でどう打ち負かすのかという実際の戦争の仕方」について教えられているのではもちろんありません。ここでイエスが教えられるのは「キリストに従う者が、対峙する相手」についてなのです。
聖書には、クリスチャンが「対峙しなければならない相手」として「悪魔・サタン」がよく出ます。しかし、ここでは、32節に「和を求めるように」とあることからよく考えて対峙しなければならない相手は「悪魔・サタンのことではない」ことが分かります。
では、ここでいわれる「よく考えて対峙し、そして和を求めるべき相手」とは誰なのでしょうか?「和を求める」それは、別の訳では「講和する」と訳されています。今日の説教題にはこの「講和」という言葉を使わせていただきました。今はまだ友になっておらず「対峙するような状態」だとしても、いずれは仲間になるべき存在のことが言われています。それは「まだイエス・キリストを知らない世の人々」のことです。
2万人の兵に例えられている「イエス・キリストを知らない世の人々」に対し、イエスが「自分方」と言われている側は一万人です。多くの人にキリストの福音を伝えたいけれども、自分たちには力が不足している、何も変えられない…まさにいまの「日本基督教団」や「わたしたちの教会」をはじめとする「全てのキリスト教界」の姿を表しているのではないでしょうか。
でも「腰を据えて考えた上で」32節のように「自分たちの力ではできないのだ!」と悟った上で、自分の力で戦おうとせずに「使節」別の訳語で言う所の「使者、大使」の力を借りることで、「相手と講和できる」のだと教えられます。
この「使節、大使」とは何を指すのかというと、私は「神の霊である聖霊」であると理解します。
開かれなくて結構ですが、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章3節に「聖霊によらなければ、だれもイエスは主である」とは言えないのです。」とあるように、イエス・キリストを知らない人々が「イエスは主である」と信じ告白できるようになるためには、「その人の心の内に、神の霊が働く」ことが不可欠なのです。
まだキリストを知らない相手の心に「聖霊が働くために」、私たちの側がしなければいけないことがあります。 それは「自分を無にして祈ること」です。ルカによる福音書11章などからもそれが分かります。私たちは「自分の願い、考えをしまいこんで」「ただ神の御心がなるように、神の霊である聖霊の働きがなるように」と祈る必要があります。
それが33節にもつながるのです。「自分の持ち物を一切捨てる」とは文字通り「無一文になれ」ということではなく、「自分中心の思いを捨てること」「自分の願いや考え、欲望を捨てて、神の御心がなることを祈るように」と勧められていると私は理解します。
この読み方で前半の26節と27節を読めば、イエスの教えようとなさっていることが繋がると私には思えるのです。 (26節をごらんください)
これは、自分の家族を憎め、と教えられているのでは全くありません。もちろん自分の命を大切にするなということでもありません。
ここは「保身に走るな」という勧めだと受け取りましょう。人間は、放っておくとすぐに「自分さえよければ、家族さえよければ」という考えに走り、自分から遠い存在を無視したり、切り捨てたりしてしまいがちです。しかし、それは「十字架にかかって、罪深い私たちを赦し、永遠の命をあたえてくださったイエス・キリスト」に感謝する生き方とは真逆なのであります。
34節35節には「塩」の譬えがかたられます。古代、塩は味付けと共に「腐敗を防ぐもの」として役割が考えられていました。しかし、ここではイエスが「腐敗を防ぐことのできない、塩気がなくなった塩」のことが語られます。これは「キリストを信じているといっていても、自己保身に走るなら、それは世を腐敗させていることになっているのだ」という私たちへの問いかけだと受け取りましょう。
神・キリストが私たち一人ひとりに求めておられるのは、「世を腐敗からまもる、塩としての生き方」です。何も考えずに「ただ何となく」イエスについていくのではなくて、「自分の十字架を背負ってついていく」ことが必要だということが今日の箇所全体の言葉から皆様に迫ってきたのではないでしょうか?
自分の十字架とは、自己中心にいきる思いを捨てて、神のみ旨を尋ね求めて生きていくこと、具体的には「他者を積極的に愛し、受け入れていく生き方」なのです。私たちは愛のないものですが、「聖霊の助けを祈り、相手の心の中にも愛の主イエス・キリストが宿るように」と祈る…そのことによって、神の御心がこの地上にみちていくことを信じます。
自己中心の思いをすてて、「キリストを知らない、世の多くの人に対し真の講和に導く」という主のお手伝いをしていきましょう。何人導いたか…という結果の前に、「私たちが他者のことを真剣の思い、そして自分の思いをすてて、主に祈ったかどうか」という自身の姿勢が大切です。 その姿勢が、世界を平和にする一歩につながることを信じています。
(祈り、黙祷)