「闇が力を振るっている時、イエスは・・・」3/7隅野徹牧師

  3月7日説教 ・受難節第3主日礼拝
「闇が力を振るっている時、イエスは・・・」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書22:47~53、63~71

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今、教会の暦でいう「受難節」を過ごしております。1年の暦の中でも、とくに「イエス・キリストのご受難」を覚えて過ごす期間に入りました。今朝も、続けて読んでいますルカによる福音書の続きの箇所から、御言葉に聴いてまいりたいと思います。 

先週瞳牧師が語ったルカ22章の46節までの箇所は、オリーブ山の祈り、別の書では「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる、イエスが逮捕前、最後に祈られる箇所でした。十字架刑に処せられるのをすべてご存知のイエスが、逮捕される直前、しっかりと祈られた上で、「十字架の死を通しての贖いの業」に備えられたことを教えられる箇所でした。

今回の箇所は、いよいよイエスが「ユダの手引きによって捕えに来た者たちによって逮捕される」場面から始まります。そして、最初からでたらめな裁判がなされる場面を見ます。

闇の力によって誘惑される「人間の弱さ、脆さ」が描かれる一方で、全く揺れ動くことのない「神の子イエス・キリストのお姿」が対比で描かれます。 共に読んでまいりましょう。

途中の54~65節の「ペトロの裏切り」は2週前に見ましたので、飛ばします。前半は47~53節、後半は63節~71節ということになります。今言いましたように、「闇の力によって誘惑される人間の弱さ、脆さ」が一貫して描かれています。

では、まず前半から読んでいきましょう。

まず47節、48節です。(※よんでみます)

イエスの逮捕を企んでいたのは、当時のイスラエルの宗教指導者たちでした。52節に名前が出ている「祭司、神殿守衛長、長老たち」などです。

 彼らは、民衆がイエスを支持していたことを気にしていました。ですので、民衆の暴動を誘発せずにイエスを逮捕したかったのです。そこへ弟子の一人でありながらイエスを裏切ったイスカリオテのユダが絶好の情報をもたらしたのです。それはイエスがエルサレム滞在中はいつも、オリーブ山、別の呼び方で「ゲツセマネの園」で夜の祈りをささげられている、という情報でした。

ユダは、この方法なら民衆の目に触れることなくイエスを捕まえることができますよ…と垂れ込んだのでしょう。宗教指導者たちは喜んだことでしょう。逮捕さえしてしまえば、あとはどうにでもこじつけて裁判でイエスを有罪にできる…そんな風に考えたと思われます。

でも彼らにとって一つ問題がありました。それは…捕まえに来ても、どれがイエス・キリストであるのか分からないということでした。

その一つ目の理由は、今の世の中のように「街灯」などがなく、本当に真っ暗だったので、人の顔が判別できる状態ではなかったということです。

二つ目の理由は、イエス・キリストが「普通の人と見分けがつかない、一人間として生きて下さった」ということの表れなのです。

イエス・キリストは本当は「栄光に満ち溢れた、神の子」なのですが、そのお方が私たちと全く同じ姿となってこの世に来られ、そして生きられたのです。今日はそのことを掘り下げませんが、栄光の神の子が私たちと同じ姿になられたことに改めて感謝をいたしましょう。

さてこのように、誰が誰だか分からない状態でも宗教指導者たちが、イエスを逮捕できたのは、ユダの接吻があったからでした。

この当時、弟子が先生に対して最大限の尊敬を表す際に「接吻をする」ということはよくあったそうです。他の弟子たちは異変に気付かなかったかもしれません。しかし、イエスはすべてを見抜いておられます。そして「接吻で、私を裏切るのか」と仰るのです。

つづいて49節から53節を読みます。

 他の弟子たちは、イエスの言葉によって、近づいてきた一行が「イエスを捕らえに来た」ことにようやく気付きます。それで、弟子の一人は、手下の一人を刀で切りつけるということをしたのです。

 それでも51節、イエスはその切り付けられた人のけがを癒されたのです。

 動揺の中、暴力を振るってしまう弟子たちに対し、イエスは全く動じられません。この状況においてなお「敵をも愛する愛」を実践なさっているのです。このコントラストが強く迫ってきます。

そしてイエスは捕えに来た者たちに対して52節、53節の言葉を言われるのです。

 イエスを捕らえにきた人々は、白昼堂々と神殿で教えておられるイエスを逮捕したのではありません。自分たちでも「不当逮捕だ」という罪意識がどこかであるから、夜中に捕まえにきたのです。しかも、抵抗されたとき、力で抑え込めるように「剣やこん棒」をもって逮捕しに来たのです。

 普通であれば、犯罪人をしっかりした人が捕まえるものですが、この時は逆になっていて、捕まえに来た彼らの方が「まるで犯罪人」のようになってしまっていることをイエスはご指摘なさるのです。

傷ついた仲間を癒してもらっても、そのまま悪事を続ける…。人間は自分のやっている間違いに気づくチャンスを神から与えられても、それを逃してしまう…本当に弱くて脆い存在なのだと痛感させられます。

 53節の最後に出る「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」という言葉は後で掘り下げます。

続いて今朝の聖書箇所の後半部分です。 

63節、64節をお読みします。

この「イエスを侮辱した見張りの者たち」は、神殿を警護していた「神殿警察」と呼ばれた人たちのようです。彼らはイエスに目隠しをして殴り、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言いました。

普通の囚人にこんなことはしません。これは、イエスが、神の言葉を告げる「預言者」として活動しておられたからなのです。つまり「お前が神から遣わされた預言者なら、誰が殴ったかも分かるだろう、言い当ててみろ。そうすれば、お前を認めてやる」ということです。ほんとうに酷い態度です。

そして66節から、ユダヤの最高法院である「サンヘドリン」での裁判が始まるのです。 

66~71節を読みます。

最高裁判所の働きを担う「サンヘドリン」は、旧約律法の「隣人愛、人道的な愛」の考えに基づいて、弱者が、つまり被告が一方的に裁かれて苦しむことのない様に、裁判の手続きにもいろいろと配慮がなされていました。

一言でいうなら「慎重な裁判手続き」がルールになっていて、早急な判断をして被告が苦しむことがないようになっていたのです。

しかし!この時のイエスの裁判はそのルールが無視され「全くでたらめな裁判」が行われたのです。

イエスがご自身を「神の子だ」と主張することが、神への冒涜罪に当たると考え、最初から死刑に当たる犯罪人としてローマ帝国の裁判に送り込むことを決めてかかっているかのようです。

人間が盲目的になったとき正常な判断が全くできなくなってしまうのです。いま諸外国でおこっていることがすぐに思い浮かびますが、私たちも一歩間違うと、このように「自分は正しい、相手は間違っているから成敗する」と思い込み、人を傷つけ続けてしまいます。

今回、この箇所をじっくり読んでいて気づかされたこと、それは、自分の正義をかざしてイエスを貶める、そして傷つけているのは、まさに私なのだということです。

私たち自身をここに登場する人物にあてはめて考えてみましょう。

イエスを尋問するような思いでいることはないでしょうか?「あなたは救い主キリストなのか、私にわかるようにはっきり答えを与えてみろ」、「あなたが神の子だというなら、その証拠を見せてみろ」、

とくに苦しい時、世の中が悲惨な状態にある時、このような尋問が多くなります。そうしていくうちに…自分が神、そして神の子を裁き、有罪か無罪かを決めるような思いに陥っていきます。

イエスを侮辱し、暴行を加えている者たちと、イエスを裁いている最高法院の人々と私たちは全く違うのではなく、むしろ同じだ…と私は思わされるのです。

しかし、そのような私たちの問い、尋問、裁きの下でもイエスは侮辱、暴行されても仕返しされることなく、むしろそれに耐えられて、十字架への道を進んでくださったのです。そのイエス・キリストのお苦しみと死とによって、私たちは特別に罪の赦しの恵みが与えられ、救われるのです。

受難節の今、一人ひとりが自分の中にある罪に目を留めましょう。正義感を振りかざす自分、神をもを裁く自分…、しかし本当の審判主はイエス・キリストただお一人です。私たちは神を裁く側なのではなく、裁かれる側なのです。  

最後のそのことが強く示されている68節、69節に触れてからメッセージを閉じます。

ここではイエスに問うている宗教指導者たちですが、実は逆にイエスから問われようとしているのです。それは68節の「私が尋ねても決して答えないだろう」という言葉にも表れています。

イエス・キリストは、この後十字架で死なれ、復活されたあと天に昇り「全能の神として」神の右に座し、私たちに問われる、そんなお方なのです。

イエスはここにいた人たちだけでなく、私たち一人ひとりに対し次のように問うてらっしゃると理解します。

「あなたは私のことを本当に救い主なのか?神の子なのか?と問うている。しかし、もし私が神の子であり救い主なら、その救いを得たいと本当に願っているのか?私を神と信じて、礼拝し、従う者となろうとしているのか?」

そういうイエスからの問いかけの前に立たされていることを覚え、その問いと真剣に向き合うことが大切なのではないでしょうか。 

53節の言葉のように、闇が力を振るっていると感じるような時があります。

悪魔の働きによって、見せかけだけ人を尊敬しているように見せかけながら裏切ってみたり、本来は世の悪を取り締まり、弱者を守らねばならない人たちが、真逆のことをしてみたり。不正がまかり通ったり、真理がねじ曲げられたり…これは今の世でも残念ながら多く起こっていることです。

だからこそ、私たちはイエスが各々に問おうとしておられることをいつでも心に留めておきたいのです。 「私を神と信じて、礼拝し、従う者となろうとしているのか?たとえ人が神のように力を振るっていても、私こそが愛の主であり、審判主であることを信じるか」

 闇の力に負けずに、イエス・キリストこそ神の子だと信じ、自分を罪から救い出す「救い主だ」と告白し続ける私たちでありたいと願います。(祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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